3話
第三話 友達
四歳になっても、エルネストは家の近くから離れて遊ぶことを許されていなかった。
歩けるし、走ることだってできる。調子のいい日には、庭で木片を並べているうちに昼になってしまうこともある。それでも、突然訪れる深い眠りだけはどうにもならなかった。
遊んでいる途中でも、食事の途中でも、前触れなく意識が遠のく。ほとんど毎日のように訪れるその眠りから目覚めた後は、しばらく手足を動かすことさえ難しい。どうして今は元気なのに、次には動けなくなるのか。自分でも分からないのだから、母ちゃんたちが心配するのも仕方がない。
「エル。庭で遊ぶのはいいけど、道へ出るんじゃないよ」
グレタは鍛冶場へ向かう前に、いつものように言った。
「うん」
「父ちゃんか母ちゃんの声が届くところにいるんだよ。分かったね?」
「うん。庭にいる」
もう何度も聞かされていることだった。それでもグレタは返事を確かめてから、ようやく鍛冶場へ戻っていく。ヨハンも裏手の作業場にいて、ときおり庭を覗いてくれた。エルネストが家から遠くへ行けないのは残念だったが、庭にも気になるものはたくさんある。
家の裏にはグレタの鍛冶場があり、庭の一角にはヨハンが仕事に使う板や角材が置かれている。眺めているだけでも、何か作れそうな気がしてくる。もっとも、鍛冶場の鉄片を勝手に持ち出そうとしたときには、グレタにあっさり見つかっている。
「これ、曲がってるよ」
「直せば使えるだろ」
それなら別の欠片はどうかと手を伸ばしたところで、グレタの視線までついてきた。どうやら、使えなさそうに見えるものでも、母ちゃんには使い道があるらしい。
だから今日は、ヨハンに使ってもよいと言われた短い木片だけを庭に並べていた。
木の端を重ねる。少しずらす。向きを変えて、また並べる。何かを作ろうとしていたはずなのだが、どんな形にしたかったのか、まだうまく決まらない。ひとまず二本を立てかけたところで、片方が滑って倒れた。
「何してるの?」
庭の入口から声がして、エルネストは顔を上げた。
そこには、同じくらいの背丈の男の子が立っている。何度か村で顔を見かけたことがあった。確か、アールハイドという名前だったはずだ。
「……作ってる」
「何を?」
「まだ分からない」
アールハイドは目を瞬かせた。その脇には、使い古した鍬の柄が抱えられている。何か言いたそうにエルネストを見たが、笑いもせず、もう一度木片へ目を落とした。
「決まってないのに作ってるんだ」
「うん」
「そっか。……それ、立てたいの?」
エルネストが頷くと、アールハイドは倒れた木片を一本拾い、さっきまで立っていた方の端にそっと添えた。二人で手を離すと、しばらくは立っていたものの、やがて傾いて土の上に転がった。
「あ、倒れた」
「つながってないから」
「じゃあ、つなげればいいんだね」
「うん。でも、道具がない」
アールハイドは「なるほど」と頷き、転がった木片を拾い直した。
「もう一回やってみる?」
「うん」
何を作っているのか分からないと言ったのに、この子は気にせず一緒に考え始めている。エルネストは、アールハイドが支える木の端へ自分の指を添えた。
しばらくして、ヨハンが裏手から顔を出した。
「アールハイド、来てたのか。頼まれたものは?」
「あ、これです。お父さんが、鍬の柄を見てほしいって」
アールハイドは脇に抱えていた古い柄を差し出した。傷んだところを確かめたヨハンが、修繕できるか見てみようと言って受け取る。アールハイドはその手元を眺めていたが、帰る前にエルネストへ振り返った。
「エルネスト、だよね?」
「うん」
「僕はアールハイド。……また遊びに来てもいい?」
エルネストは少し考えた。遊ぶといっても、何をするのだろう。けれど、さっき二人で木を立てようとしたのは、少し面白かった。
「うん」
「じゃあ、またね」
アールハイドは手を振り、門へ向かった。
門を出る前に、一度振り返った。エルネストの手元を見て、何か言おうとしたらしい。けれど、そのまま笑って歩き出した。
エルネストはしばらく庭の入口を見つめてから、倒れた木片を拾い上げた。さっきとは違う置き方を、もう一度試してみたくなっていた。
◇
それから数日後、アールハイドがまた家を訪ねてきた。
その間にもエルネストは、いつもの深い眠りに落ちていた。目を開けたとき、見上げた梁も、頬に触れている手も、すぐには今の自分のものと結びつかなかった。
「エル。母ちゃんだよ」
グレタに呼ばれ、何度か言葉を交わすうちに、ここが自分の家だと思い出した。庭で木を並べていたこと。見知らぬ男の子が一緒に木を支えてくれたこと。アールハイド、と名前が浮かんだのは、そのあとだった。
それでも身体はすぐに動かせず、しばらく寝台で過ごしてから、ようやく庭へ出られるようになったところだった。グレタが何度も顔を覗きに来るのは、いつまた倒れるか分からないからだろう。
今度のアールハイドは一人ではなかった。後ろには、明るい声の男の子と、その子に何か言っている女の子がいる。
アールハイドはエルネストを見つけると、ぱっと顔を明るくした。後ろの二人へ何か言ってから、庭の入口に並んで立つ。
「エルネスト、また来たよ。今日は友達も連れてきたんだ」
声を掛けられ、エルネストは持っていた木片を置いた。
「こっちはルーカスとリリー。ここで一緒に遊んでもいい?」
「俺、ルーカス! 城作ろうぜ!」
「まだ城に決まってないでしょ!」
リリーが言い返す。ルーカスは気にした様子もなく胸を張った。
アールハイドが、返事を待つようにエルネストの顔を覗いた。
エルネストは三人を見比べた。庭なら遊んでもよいと言われている。けれど、友達を呼んでよいかまでは聞いていなかった。
「母ちゃんに聞いてくる」
鍛冶場へ声を掛けると、グレタは庭へ顔を出した。三人を見てから、エルネストへ視線を戻す。
「庭で遊ぶんだね? エルはここから離れられないから、あんたたちも道まで出ないでおくれよ」
「うん!」
ルーカスが真っ先に答え、リリーとアールハイドも頷いた。グレタは子供たちの顔をもう一度見てから、仕事へ戻っていった。
「じゃあ、何して遊ぶ?」
アールハイドが尋ねるより早く、ルーカスは地面に棒で大きな四角を描き始めた。中へもう一つ小さな四角を描き、外側の線を指さす。
「ここが壁で、ここが門! 真ん中が城!」
「外側も城じゃないの?」
リリーが尋ねると、ルーカスは首を振った。
「外は壁!」
「壁も城の一部でしょ?」
「じゃあ全部城!」
「……さっきと違うじゃない」
リリーの眉が寄る。アールハイドはその横で笑っていた。エルネストは絵を覗き込み、棒で描かれた壁を眺めた。
城。門。高い壁。
ふと、石の壁を見上げていたような気がした。自分がいつ、どこで見た景色なのか、考えようとすると遠ざかっていく。
けれど、壁の近くにもっと高い場所があれば、そこから中が見えてしまう。そんなことは分かった。
「ここに山があったら?」
エルネストが四角の横へ線を引くと、アールハイドが身を乗り出した。
「山?」
「壁より高いところが近くにあったら、上から見える。矢も飛んでくる」
「じゃあ山をなくせばいい!」
「山はなくならないよ」
リリーの返事に、ルーカスは少し考えた。
「じゃあ壁をもっと高くする!」
「山の方が高かったら同じだよ」
「もっと高くする!」
「ずっと?」
「ずっと!」
エルネストは山と壁の線を見比べた。どこまでも高くできるなら、確かに見下ろされなくなるだろう。けれど、山より高い壁を作るとなれば、材料も人手も足りそうになかった。
「……それなら大丈夫かも」
「ほら!」
ルーカスが得意そうに胸を張った。
「本当に作れるの?」
「作ればいいんだよ!」
そう言って、ルーカスは立ち上がった。
「よし、本物の城を作るぞ!」
「今のは絵じゃなかったの?」
「次は本物!」
「本物は無理だよ」
「小さいの!」
ルーカスは両手を広げて見せた。四人で入れるくらいのものが欲しいらしい。
石を積んだ城は無理でも、木を使った囲いならどうにかなるかもしれない。エルネストがそう言うと、ルーカスは待っていたとばかりに頷いた。
「木ならある!」
ルーカスは庭の隅にある木片の山を指さした。
◇
使うことにしたのは、ヨハンが庭の端へ分けておいた短い板や角材だった。
アールハイドは並んだ材木を見渡した。小さな城を作ると言い出したのはルーカスだが、何をどう組めばよいのか、誰も決めていない。エルネストは木片の長さを見比べ、使えそうなものを選んでいた。
「この木は、父ちゃんが使っていいって言ったやつ」
エルネストがそう教えると、ルーカスは嬉しそうに駆け寄った。グレタは鍛冶場の戸口から使う木を確かめ、危ないものや重いものは持ち出さないよう言って、また仕事へ戻った。
エルネストが細長い角材を一本抱えた。重そうには見えなかったが、横にして運ぼうとすると端が土を擦ってしまう。アールハイドは反対側へ回り込み、角材の端を持ち上げた。
「そっち持つよ」
「うん」
二人で運ぶと、木を引きずらずに済んだ。リリーは短い板を選び、ルーカスは幅の広い木片を抱えてくる。
「これを門にする!」
ルーカスが板を立てた。だが、手を離した途端にぱたりと倒れた。
「あれ?」
「支えがないから」
「じゃあ持ってればいい!」
「ずっと?」
リリーの問いにルーカスの手が止まる。板を押さえたままでは、城へ入ることもできない。
ルーカスが石を集めて板の両側へ置くと、今度は立った。ところが、確かめるつもりで横から押した途端にまた倒れる。
「ほら、倒れた」
「じゃあ押さなきゃいい!」
「風でも倒れるよ」
「風は押さないだろ」
「押すよ」
ルーカスが空を見上げた。ちょうど頬をかすめた風に髪を揺らされ、しばらく黙ったあと、板へ視線を戻した。
「……ほんとだ」
アールハイドが笑い、リリーもつられて笑った。
アールハイドはまだ口元を緩めたまま、倒れた板を拾い直した。城を作るならまず土台から、などと考えている間に、ルーカスはもう次の木を運んでいる。あの勢いに押されていると、考え込んでいる暇もない。
その横で、エルネストが板を立て直し、短い木を斜めに添えた。父親の仕事を見て覚えたのだろうか。
「こっち、押さえてくれる?」
「うん」
アールハイドは板の向こう側へ回り、手を添えた。さっきよりぐらつかなくなった。
「反対にも一本あった方がよくない?」
「いる」
「じゃあもう一本探そう」
アールハイドが使えそうな木を探していると、エルネストが指さした。
「その短いの、ちょうどいい」
「これ?」
「うん」
渡された木を、エルネストが反対側へ添える。少し傾いたので二人で押さえ直した。
「これ!」
ルーカスが運んできた板は、少し長すぎた。
「切ればいい!」
「どうやって?」
「……折る!」
「割れちゃうよ」
「じゃあ踏む!」
「それも割れると思う」
今度はルーカスが黙った。リリーはため息をつき、アールハイドは短い木を二本並べて見せた。
「こっちを使えば、切らなくて済むんじゃない?」
並べてみると、確かに使えそうだった。
「うん。これならできる」
四人で木を運び、立て、倒れそうなところへ石を寄せていった。釘も縄もないから、思うようには組めない。エルネストは何度も板の継ぎ目を確かめ、時折、作業場の方へ目をやっていた。
「何か、使いたいものがある?」
アールハイドが聞くと、エルネストは少し考えてから首を振った。
「今は、これで作る」
ルーカスが大きな木を運んでくる。リリーは二人の足元に小さな石を揃えた。アールハイドも板を押さえながら、次に置けそうな場所を探した。
「それ、もうちょっと右」
アールハイドに言われて板をずらすと、木と木の間にできていた隙間が小さくなった。
「こう?」
「うん、そっち」
アールハイドは板から手を離し、少し離れて全体を眺めてみた。四人で手を動かすたび、最初は土に描いただけだった城が、少しずつ形になっていく。
やがて、四人がしゃがんで入れるほどの囲いができた。壁は低く、屋根のつもりで渡した細板も半分ほどしかない。斜めの支えは寄り掛かっているだけで、まだ丈夫な城とは言えなかった。
「完成!」
「屋根、まだないよ」
「城だ!」
「半分しかないのに」
「城!」
リリーは呆れたように眉を寄せたが、口元は少し笑っていた。
エルネストが中へ入り、アールハイドもその後に続いた。屋根の隙間から空が見える。風が板の間を抜け、膝の辺りをくすぐった。さっきまでただの庭だった場所に、小さな別の場所ができた気がする。
エルネストが壁に触れると、板がわずかに揺れた。
「まだ弱いから、寄り掛からないで」
「うん。分かった」
アールハイドは壁から少し身を離した。
「エル!」
先に外へ出ていたルーカスが、囲いの向こうから顔を出した。
「敵が来た!」
「敵?」
「城を攻める!」
「誰が?」
「俺!」
「さっき、城の中にいたじゃん」
「今は敵!」
「………」
「なんか言えよ!」
アールハイドが吹き出し、リリーも声を漏らした。ルーカスだけは不満そうだった。
さっきまで、どうすれば倒れずに作れるかと考えていたはずなのに、今はルーカスが何を言い出すか分からないことの方が面白い。アールハイドは自分が笑っていることに気づき、また少しおかしくなった。
「じゃあエルが守れ!」
「何から?」
「俺から!」
「分かった」
「分かるの!?」
エルネストは首を傾げたまま、入口に立っている。どうやって守るつもりなのか、アールハイドにもよく分からない。
そのとき、ルーカスが壁へ飛びついた。
「あ」
エルネストは声を漏らした。止めるには遅かった。
ルーカスの体重で板が内側へ傾き、添えてあった支えが滑り落ちる。隣の木まで押されて石が転がり、城はたちまち形を失った。
「わっ!」
リリーが身を引く。アールハイドはとっさにその腕をつかみ、さらに引き寄せた。支えが外れるのは見えたのに、手を伸ばせたのは隣のリリーまでだった。エルネストが頭をかばうのが見える。細い板がその肩に当たり、木のぶつかり合う音が続いたあと、ようやく辺りが静かになった。
◇
倒れた木の間から、アールハイドが先に立ち上がった。リリーとルーカスも続く。エルネストは倒れた板をよけ、まだ膝をついたまま三人を見上げた。
「痛い……」
リリーの腕には細い擦り傷ができていた。ルーカスは額についた土を払いながら「俺は平気!」と言ったが、リリーの傷を見ると、その手を止めた。
「……ごめん」
「もう飛びつかないでよ」
「うん」
いつも大きな声のルーカスが黙り込んだ。アールハイドも何も言わず、リリーは傷のついた腕をそっと押さえている。ついさっきまでの騒ぎが嘘のようだった。
「エル、大丈夫?」
アールハイドが差し出した手を取り、エルネストも立ち上がった。
「うん。少し当たっただけ」
そこで、崩れる音に気づいたグレタが鍛冶場から駆け寄ってきた。散らばった木と四人の姿を見て、まずエルネストの肩に手を添え、顔を覗き込む。
「エル、どこか痛いかい?」
「肩にちょっと当たった」
グレタは肩を確かめると、ほかの三人にも怪我がないか尋ねた。
リリーの腕に擦り傷を見つけると、グレタは家からきれいな水を持ってきて、ついた土を洗い流してくれた。浅い傷だと分かって少し表情を緩めたものの、崩れた板を見直すと、また眉が寄った。
「何やってんだい、あんたたち!」
「城を作った」
「……で、その城はどうしてこんなことになったんだい?」
「ルーカスが飛びついたから」
答えてから、エルネストは倒れた支えを見た。飛びついたのはルーカスだ。でも、支えが板につながっていなかったから、押されたときに外れたのだ。
「……ちゃんと留めてなかった」
「そうだね。立っているだけじゃ駄目なんだよ。中に人が入るなら、ぶつかったときにも倒れないようにしなきゃね」
グレタはルーカスにも、危ない飛びつき方をしてはいけないと注意した。そして、道具が足りないならヨハンに相談するようにと、エルネストにも言い聞かせた。
四人で木を片づけると、城があった場所は元の庭へ戻った。何度も運んで立てたのに、なくなるときはずいぶん早かった。
◇
三人が帰る支度をしている間に、グレタはエルネストを家の戸口へ呼んだ。
「危ないって分かってたんだろ?」
「うん」
「じゃあ、なんで中に入ったんだい?」
「城だったから」
「………」
グレタは口を開きかけ、何を言えばいいのか迷ったように閉じた。それから頭を軽く掻き、エルネストを見下ろした。
「……次はちゃんと作るんだよ。父ちゃんに見てもらいな」
「また作っていいの?」
「そこじゃないよ」
グレタは呆れたように言ったが、その口元には少し笑みがあった。
庭の方から声が聞こえた。
「エル!」
振り向くと、庭の入口でルーカスが手を振っていた。リリーとアールハイドも一緒だった。
「また明日な!」
「今度はちゃんと作ろうね!」
リリーも言い、アールハイドが手を挙げた。
「また明日」
エルネストは少しだけ立ち止まった。
庭で一人、木を並べていたときには、作りたい形も決まらなかった。今日は四人で作って、結局壊れてしまった。それなのに、もう一度同じことをしたいと思っている。
たぶん、城を作ったことだけが楽しかったわけではない。
明日も庭にいられるだろうか。そんなことは分からない。それでも、また来ると言ってくれた。
「うん。また明日」
返事をすると、アールハイドが笑った。その横でルーカスはもう次の城の話を始め、リリーが何か言い返している。
エルネストはグレタの後について家へ入った。庭の入口から三人の姿が見えなくなっても、最初にアールハイドが掛けてくれた「何してるの?」という声が、ふと頭に浮かんだ。




