2話
第二話 夢
エルネストは、よく眠る子供だった。
もっとも、生まれて三月ほどの赤ん坊が一日の大半を眠って過ごすのは、珍しいことではない。腹が減れば泣き、乳を飲めば眠る。ときには母親の服を小さな手で掴んだまま寝入り、父親に抱かれているうちに、いつの間にか静かな寝息を立てている。
グレタもヨハンも、初めのうちはそういうものだと思っていた。
だが、ときおり、その眠りが妙に深くなることがあった。
「……エル?」
グレタが頬を撫でても、エルネストは目を開けない。小さな胸は上下しているし、息が止まっているわけでもない。それでも抱き上げると、頭は支えた腕へ力なく傾き、普段なら指に絡みつく小さな手も、握り返してこなかった。
生まれた日のことがある。胸が動かず、いくら呼びかけても泣かなかった、あの時間が。
グレタは息子を寝台へ戻すと、額に触れ、口元へ耳を寄せた。温かい。呼吸もしている。分かっているのに、手を離した途端、もう一度確かめたくなる。
「熱はないね……」
そう呟いても、気休めにしかならなかった。
ヨハンは村の治療師セルマを呼びに行った。やって来たセルマは赤ん坊の額に触れ、瞼を確かめ、呼吸や脈を何度も調べてくれた。グレタはその手元をじっと見つめていたが、診察を終えたセルマの顔には、安心できるような答えが浮かんでいなかった。
「熱もないし、息もしっかりしている。でも……どうして起きないのかは、分からないね」
そう告げられ、グレタは息子を抱き寄せた。何も悪いところが見つからないのなら喜ぶべきなのかもしれない。だが、そうではない。原因が分からないままなのだから、何をしてやればよいのかさえ分からなかった。
ようやくエルネストが目を開けたときも、二人はすぐには安心できなかった。乳を飲ませようとしても途中で口を離し、抱き上げれば身体を預けたまま、ほとんど動かない。眠りから覚めたというのに、今度は起きているだけの力も残っていないようだった。
グレタが寝台のそばを離れずにいると、ヨハンは仕事を終えて戻ってきて、息子の顔を覗き込んだ。何か言いたそうに口を開いたが、結局、掛け布を直しただけだった。
ところが、何日か経つとエルネストは何事もなかったように乳を飲み、差し出された指をしっかり握り返した。グレタが笑えば口元を緩め、ヨハンの腕の中でもよく眠る。
治ったのだろうか。そう思って胸を撫で下ろす頃には、また同じ眠りが訪れた。
いったい、何が起きているのだろう。
腕の中のエルネストは、何も知らないような顔で眠っていた。グレタが覗き込んでも、その瞼は開かない。せめて一度、こちらを見てくれれば。それだけを願っているうちに、夜は少しずつ深くなっていった。
◇
高い木の枝に、巣があった。
そこには温かな羽毛が敷かれ、同じように口を開けて鳴く小さな身体がいくつも寄り合っていた。腹が減れば声を張り上げ、親が戻ってくると、まだよく見えない目でその気配を追い、誰より先に餌をもらおうと嘴を伸ばした。
雨の日には大きな翼が巣を覆ってくれた。羽の下は暗く、外で枝が揺れていても、そこにいる間は寒さを忘れられた。日が差せば巣の縁が温まり、伸び始めた羽を広げて光を浴びる。毎日は腹を満たし、眠り、また腹を空かせるうちに過ぎていった。
やがて、巣の外が気になり始めた。
枝の向こうには木々が続き、ときおり見知らぬ鳥が頭上を横切っていく。あんなふうに飛べるのだろうか。羽を広げてみると、風がその間を通り抜けた。悪くない。けれど、巣の縁から下を覗けば、地面は思ったよりもずっと遠かった。
初めて巣を飛び出したときには、すぐ近くの枝へ辿り着くのが精一杯だった。風に身体を持っていかれ、慌てて翼を打ち、どうにか伸ばした足の爪を枝へ掛ける。枝が大きくしなったので、しばらくは動けなかった。
それでも、次にはもう少し遠くへ飛べた。木の上から下へ、下から別の枝へ。何度か試すうち、翼をどう動かせばよいのかが、少しずつ分かってきた。
ある朝、風に向かって飛び出すと、身体がふわりと持ち上がった。
いつも見上げていた葉が足元へ遠ざかり、枝の隙間からしか見えなかった空が、どこまでも広がっている。羽ばたけば前へ進み、片方の翼を傾ければ向きが変わった。思ったところへ身体が動く。そのことが、たまらなく嬉しかった。
あの木の向こうへ行けば、何が見えるのだろう。もっと高くまで上がったら、どこまで飛べるのだろう。
ところが、その日の午後、空が急に暗くなった。
風に混じって冷たい雨が降り始めたので、近くの枝へ戻ろうとした。だが、今度の風は先ほどまでのように身体を運んではくれない。翼を広げるたびに向きを変え、行きたい場所とは違う方へ押し流していく。
雨が羽の間に入り込み、翼を打つたびに重さが増した。強く羽ばたけば少し浮くものの、そのたびに身体の力が奪われていく。すぐそこにあるはずの枝へ、どうしても届かない。
もう一度、上へ。
そうして翼を打ったところへ、横から風が吹きつけた。
身体が傾き、空と木々が逆さまになる。慌てて立て直そうとしても、濡れた羽は思うように広がらず、見慣れた枝がみるみる頭上へ遠ざかった。
さっきまでは、あんなに気持ちよく飛べていたのに。
怖かった。もう一度あの枝へ戻り、雨がやむまで羽を休めたかった。
けれど、身体は落ちていくばかりだった。
最後まで目に残ったのは、激しく揺れる木々の隙間に覗いた、小さな空だった。
◇
次に見えたのは、まっすぐに伸びた木の梁だった。
枝にしては妙な形をしている。葉もない。空を探そうとしても、見上げた先には木で組まれた天井が広がっていた。それに、風に揺られていたはずの身体が、今は柔らかなものの上に横たわっている。
もう一度翼を広げようとして、妙なことに気づいた。
動いたのは羽ではなく、短い腕だった。先には嘴では掴めないようなものまで掴めそうな、小さな指がついている。反対側も動かそうとしたが、わずかに持ち上がったところで力が尽き、寝具へ落ちた。
なぜ、こんな身体なのだろう。
巣があった。親が餌を運んできてくれた。枝から飛び立ち、初めて風に乗れた。けれど雨が降ってきて、それから――。
「エル?」
声とともに顔が覗き込んできた。
黒い髪。自分を見下ろす目。何度も聞いたことのある声のはずなのに、すぐには誰だか分からない。少しして、ようやく胸の奥から名前ではない呼び方が浮かび上がってきた。
母ちゃん。
「起きたかい。……ヨハン!エルが目を開けたよ」
グレタが身を寄せると、エルネストはその方へ腕を伸ばそうとした。しかし動いたのは指先だけで、肩は寝具から離れなかった。さっきまで空を飛んでいた身体と、今ここにある身体とでは、できることがまるで違う。
「無理に動かさなくていい」
ヨハンが近づき、息子の胸の動きを確かめた。グレタも頷き、掛け布を直してくれる。
エルネストは何か伝えたかった。あの高い木のことか、それとも雨のことか。だが、口を開いても小さな声が漏れるばかりで、言葉にならない。それどころか、目を開けているだけでも疲れてしまう。
眠たいのとは違う。身体の中が空っぽになったようで、力を込める先から、わずかに残った力まで抜けていった。
「……また、あの眠りかね」
グレタが額へ触れながら呟いた。
「起きた。それでいい」
ヨハンは息子の手を包むように握った。
握り返したかった。だが、その指を動かすことさえできず、エルネストは温かい手に触れられたまま、また目を閉じた。
◇
同じような眠りと回復を繰り返しながら、エルネストは少しずつ大きくなっていった。目を覚ました日はぐったりしていても、元気なときには寝台の端まで這っていき、気になるものへ手を伸ばす。グレタが振り返ると、さっきまで寝具の中にいたはずの息子が、いつの間にか床を這っていることもあった。
一歳になる頃には、立って歩こうとし始めた。
椅子の脚を掴んで身体を引き上げるところまでは、さほど難しくなかった。腕にはそれなりの力があるし、立ってしまえば床も遠くない。問題は、そこから先だった。
片足を前へ出す。次に身体の重さを移そうとすると、思ったところへ足が届かず、尻もちをついた。
「………」
エルネストは、自分の足を見下ろした。
身体を動かすということは知っている。飛ぶときの翼の動きも、枝に爪を掛ける感覚も覚えている。なのに、目の前にあるのは二本の短い足だった。身体を支えるだけならできても、その足で前へ進むとなると、知っているつもりのことが少しも役に立たない。
椅子へ手を掛け、もう一度立つ。今度は慎重に一歩を出したが、立ったまま止まろうとした途端に身体が傾いた。慌てて足を出すと、ますます転びやすくなる。
「ずいぶん急ぐねえ」
振り向くと、仕事の合間に戻ってきたグレタが戸口で笑っていた。
「そんなに慌てなくたって、そのうち歩けるようになるよ」
エルネストは母親を見上げ、それから足元を確かめた。そのうち、と言われても、今できない理由がなくなるわけではない。
もう一度立ち上がったところで勢いが余り、今度は前のめりになった。床が近づいた、と思ったところへ大きな手が伸び、胸のあたりを支えてくれた。
「……急ぐな」
ヨハンだった。
父親はエルネストを立たせ直すと、少し離れた場所にしゃがみ、両手を広げた。
「来てみろ」
それならば、とエルネストは片足を踏み出した。身体がぐらついたので、倒れる前にもう片方の足を出す。止まれば転ぶ。だから進む。どうも歩くというより、倒れそうになるのを繰り返し先送りにしているだけの気もした。
それでも二歩、三歩と進んだところで、ヨハンの胸へ飛び込むように倒れ込んだ。
「おっと」
大きな腕が受け止めてくれる。
「ほら、歩けたじゃないか!」
グレタは嬉しそうに笑っていた。
エルネストは父親の腕の中から、自分が歩いてきた床を振り返った。最後は倒れたのだから、うまく歩けたとは言いにくい。それでも、さっきより遠くまで進めたのは確かだった。
母親はまだ笑っている。父親も何も言わず、もう一度試せるように床へ下ろしてくれた。
エルネストは少し口元を緩め、再び椅子の方へ手を伸ばした。
◇
小さな家に生まれ、母親に抱かれて育った。父親は仕事から戻るといつも頭を撫でてくれたし、母親は食事の前に服についた土を払ってくれた。腹が減れば台所へ行き、眠たくなれば母親に抱きつく。それがその家での当たり前だった。
歩けるようになると、家の中には気になるものがいくらでもあった。棚の下に潜り込んで埃だらけになり、母親に見つかって叱られたこともある。父親に肩車をしてもらえば、いつもは手の届かない梁がすぐ近くに見えたので、何度もせがんだ。
外へ出られるようになってからは、近所の子供たちと遊んだ。棒を剣に見立てて振り回し、小石を並べて家を作り、誰が一番速いかと走り比べもした。転んで膝を擦りむいたときには、泣くものかと思ったのに涙が出た。隣で一緒に転んだ友達が、先に泣き始めたのを見て、つられてしまったのかもしれない。家へ帰れば母親が傷を洗い、父親は痛いところに触れないよう、そっと頭を撫でてくれた。
年下のきょうだいもいた。まだ言葉ははっきりせず、何を欲しがっているのか分からないことも多かったが、後ろをついてくるのは少し嬉しかった。自分の方が大きいのだから守ってやらなければ、と思う。もっとも、抱き上げようとして二人まとめて転び、母親に叱られたこともあった。
そんな毎日が、これからも続くものだと思っていた。
ある日、熱が出た。
初めは寝ていれば治ると思った。前にも具合が悪くなったことはあったし、そのときは何日かでまた外へ出られたからだ。ところが、今回はいつまで経っても身体が熱く、起き上がれば目が回る。食事の匂いを嗅いだだけで吐き気がして、喉が痛むので水を飲むのもつらかった。
窓の外から、友達の声が聞こえた。
遊びに行きたかった。もう熱は下がったのではないかと母親に尋ねてみたが、額に置かれた手は離れず、「よくなったらね」と言われた。
ならば明日はどうだろう。明日が駄目なら、その次の日でもいい。
そう考えていたのに、いつの間にか昼と夜の違いさえ曖昧になっていた。父親が枕元で何か話している。返事をしたいが、声を出すだけで疲れてしまう。いつも後ろをついてきたきょうだいの姿も見えなかった。
次に目を開けたとき、母親がそばにいた。
手を握ってくれている。それも、痛くなるほど強く。母親は何度も名前を呼んでいたが、どうして泣いているのか分からなかった。
大丈夫だと言ってあげたかった。熱が下がったら外へ出られるし、また一緒に歩ける。あの子とも遊んでやらなければならない。
けれど、唇が動かなかった。指に力を込めても、握られた手は少しも動かせない。
母親の顔がぼやけていく。
まだ帰りたくなかった。いや、ここが家なのだから、帰る必要などないはずだった。ただ、もう一度元気になって、みんなと過ごしたかった。
最後まで残っていたのは、手を包む温もりだった。
◇
目が覚めたとき、天井に木の梁が見えた。
さっきまで寝ていた部屋とは違う。窓の位置も、光の差し込み方も違っていた。外からは何かを叩く乾いた音が聞こえ、その音に覚えがあることに気づいて、エルネストはようやく自分がどこにいるのか考え始めた。
手を持ち上げようとしたが、思うようにならない。掌は小さく、腕も短い。さっきまで握ってもらっていた手を探したくても、どちらへ伸ばせばよいのか分からなかった。
「エル?」
グレタが寝台へ近づいてきた。
「目が覚めたのかい。気分はどうだい?」
母ちゃんだった。
よく知っている顔と声だ。頬へ触れる手の大きさも覚えている。それなのに、たった今までそばにいた母親とは違っていた。
「……かあ、ちゃん」
「ああ、ここにいるよ」
グレタは笑って頭を撫でてくれた。
この人が母ちゃんだ。間違いない。では、あの家にいた人は誰だったのだろう。父親も、きょうだいも、友達もいた。病気になる前は毎日遊んでいたし、治ったらまた遊べるはずだったのに。
エルネストは辺りを見回した。あの家へ帰らなければ。そう思ったものの、どこへ行けばいいのか分からない。寝台の周りには見慣れたものが並んでいるのに、あの家の戸口だけがどうしても見つからなかった。
「……おうち」
「ここだよ。エルの家だろ?」
違う、と言いたかった。けれど、そう言ってしまうと、目の前にいる母ちゃんまで違う人になってしまう気がした。
ここも、自分の家だった。
二歳のエルネストには、その二つをどう説明すればよいのか分からなかった。あの家の窓から聞こえた声も、膝を擦りむいたことも、最後に手を握ってくれた母親の顔も、まだはっきり覚えている。今はグレタの手が頬に触れている。それなのに、あの手を二度と握れないことも、どこかで分かっていた。
「……ゆめ?」
言葉を探してようやく尋ねると、グレタは少しだけ黙った。
「ああ。夢を見てたのかい」
「……ゆめ」
そういうものなのだろうか。
夢だったのだろうか。だとすれば、目が覚めてもなお、あの人に会いたいと思うのはどうしてだろう。
考えようとして身体を起こしかけたが、肘が支えきれずに崩れた。頭の中では手をつけば起き上がれるはずなのに、力を込めるほど腕が震える。
「こら、無理するんじゃないよ」
グレタが身体を支え、そっと寝かせ直してくれた。
「いつものだろ。今はゆっくり寝てな」
額に触れた手は温かかった。
あのときの手とは違う。それでも、その手が離れないでいてくれることが嬉しくて、エルネストはしばらくグレタを見つめていた。
◇
暗く湿った場所に、小さな身体がいくつも寄り合っていた。
生まれたばかりの身体には、細い脚が何本もあった。地面に触れると、土の向こうから微かな震えが伝わってくる。明るい場所は落ち着かず、石の陰へ潜ればようやく身体を休められた。
腹が減れば柔らかなものを齧り、危険を感じれば狭い隙間へ潜る。誰かが近くを通れば、姿が見えなくても地面の揺れで分かった。匂いにも違いがあり、そこに食べ物があるのか、ほかの生き物がいるのかを知るには十分だった。
身体が育つと、生まれた隙間は窮屈になった。そこで少し離れた石の下へ移り、餌を探して暮らすようになった。そこも暗く湿っていたが、身体を丸めて休むだけの広さはあり、外から何かが近づけばすぐに奥へ逃げ込めた。
雨が降るたびに、土の匂いが変わった。地面の奥まで水が染み込む日もあれば、すぐに乾く日もある。餌を求めて石の下を這い回るうちに身体は大きくなり、やがて、以前のようには動かなくなった。
近くに餌があっても、そこまで歩くのが億劫だった。脚を動かそうとするたびに力が抜ける。少し休めばまた動けるだろうと石の下に潜り込んだが、休んでも楽にはならなかった。
地面が震えた。
誰かが近くを通ったらしい。少し前なら、すぐにその気配を追ったか、危険だと思って逃げただろう。けれど、脚はもう動かなかった。
暗く、静かな場所だった。
最後に感じていたのは、湿った土の匂いだった。
◇
次に目を開けたとき、エルネストは脚を動かそうとした。
寝具がわずかに揺れる。だが、足元から伝わってくるはずの地面の震えはなく、いくつもあった脚も見当たらない。動いているのは二本だけだった。どうして足りないのだろうと考えかけ、今度は自分の手を見た。
腕が二本。先には指がある。頭に触れれば黒い髪に手が引っかかる。
そうだった。自分はここにいるのだ。
ベウラルク村。グレタとヨハンの家。そして、自分の名前はエルネスト。三歳になっても、ときどきこうして別の場所から戻ってくるのだということだけは、少しずつ分かってきていた。
「……また夢か?」
声の方を見ると、ヨハンが寝台のそばに座っていた。
「うん」
「どんな夢だった?」
エルネストはすぐに答えられなかった。
暗い場所だった。土の匂いがして、いくつもの脚で地面を歩いた。ほかの生き物が近づけば、足元を伝わる震えで分かった。そこで暮らしていたときは、何一つ不思議ではなかったのに、今こうして言葉にしようとすると、何から話してよいのか分からない。
「……あし」
「足?」
「いっぱい、あった」
言いたいことはそれだけではなかった。けれど、うまく伝えられないのだから仕方がない。
ヨハンは布団の端から覗いている二本の足を見て、それから息子の顔に視線を戻した。何か尋ねたいことがありそうだったが、結局、頷いただけだった。
「そうか」
それ以上は聞かず、掛け布を直してくれた。
エルネストは布団の中で手を握ってみた。指先はゆっくり曲がり、弱々しく掌に触れる。以前、鳥の身体から戻ったときには、それさえできなかったように思う。
それなら、少しくらい起き上がれるだろうか。
肘をつくと、肩が少し浮いた。だが、そこから先へ力が続かず、寝具へ倒れ込んでしまった。もう一度試そうとすると、大きな手が背中を支え、元の場所へ寝かせ直した。
「寝てろ」
「……動ける」
「動けるのと、寝なくていいのは別だ」
「………」
何も言い返せなかった。実際、少し動いただけで身体はひどく重くなり、眠っていたいのか起きていたいのか、自分でもよく分からない。
ヨハンは額に触れてから、椅子を引き寄せて腰を下ろした。どこかへ行くつもりはないらしい。
エルネストは天井を見上げた。
眠っている間、知らない場所で知らない身体になっている。生まれて、食べて、歩いたり飛んだりして、ときには家族と暮らし、最後には死んでしまう。そこまでを過ごしたあとで目を開けると、いつもこの家にいる。
どれも夢なのだろうか。夢なら、どうしてあれほど長い間生きていたことを覚えているのだろう。
答えは分からなかった。
ただ、ここに戻ってきたことだけは確かだった。今は二本しかない腕も、自分の名前も、隣に座る父ちゃんのことも、ちゃんと覚えている。
エルネストはもう一度指を握り、掛け布からそっと手を伸ばした。
ヨハンはその手を取ると、何も言わずに握り返してくれた。




