伝説の始まり
――大魔王ビッグ・ベン。
アウラシア大陸北方、シュベーリア地方。
そこに突如として現れた大魔王は、圧倒的な力で魔族を従え、人間の町や村を次々と滅ぼしていった。
北方の城塞は陥落。
ソォン王国軍は敗走。
王国北部の半分は、わずかな期間で魔王軍の支配下へと落ちた。
人類に残された時間は、もう長くない。
誰もが、そう思っていた。
だが――。
絶望の中で、女神は四人の人間を選んだ。
光り輝く聖剣パンパースを操る勇者――ムーニー。
黄金色の魔力をまとい、斬りつけた者を蝕む魔剣ブリブリブリンガーを操る剣聖――グーン。
攻撃から支援まで、あらゆる魔法を使いこなす賢者――メリーズ。
回復と防御魔法を極めた聖女――オヤスミ。
この四人こそ、人類最後の希望。
魔王を討ち、人類を救う英雄たち。
――そうなるはずだった。
◆
「ポコおねえちゃーん!」
「はいはい。どうしました?」
ソォン王国南西部。
王都から遠く離れた山間の小さな村で、少女ポコは一人の少年を迎えていた。
ポコ。
薬の知識にかけては、村の誰も敵わない薬師である。
そんな彼女の前で、少年は涙を浮かべながら腹を押さえていた。
「ポンポン痛いー!」
「あらあら。またですか?」
ポコはしゃがみ込み、少年のお腹にそっと手を当てる。
「何か悪いものを食べました?」
「…………」
「どうしました?」
「……食べてない」
「本当ですか?」
「…………ちょっとだけ」
「何を食べたんです?」
少年は気まずそうに視線を逸らした。
「……お供え物」
「…………」
ポコは深いため息をついた。
「また神様のお供え物を食べたんですね?」
「だって、おいしそうだったんだもん!」
「だからといって、食べていい理由にはなりませんよ」
「……ごめんなさい」
「ちゃんと謝れたなら、きっと神様も許してくださいます」
ポコは少年の頭を優しく撫でる。
「それより今は、神様より先に、このお腹を治しましょう」
「うん……」
「では――」
ポコは少年のお腹に手を当てた。
「痛いの痛いの、とんでけー」
「痛いの、とんでけー……」
少年も真似をする。
その瞬間だった。
――カン、カン、カン、カンッ!
村中に、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。
「……え?」
ポコの表情が変わる。
穏やかな昼下がりを切り裂くように、村の外から怒鳴り声が響いた。
「魔物だ!」
「北の街道に魔物の群れが出たぞ!」
「村長を呼べ!」
村の空気が、一瞬で変わった。
少年が怯えた顔でポコを見上げる。
「お姉ちゃん……」
「あなたは教会へ行ってください」
「ポコおねえちゃんは?」
ポコは立ち上がり、薬箱を手に取った。
「私は薬師ですから」
そして、いつものように微笑んだ。
「怪我をした人がいるなら、助けに行かないといけません」
◆
村の中央へ向かうと、すでに大勢の村人が集まっていた。
「北の街道から魔物の群れが来ている!」
「数は分からん!」
「女子供は教会へ!」
村長が必死に指示を飛ばしている。
だが、この村に兵士はいない。
いるのは農民と職人。
老人と子供。
まともに戦える者など、ほんのわずかだった。
そして――。
「グルルルル……」
村の入口から、低い唸り声が響いた。
土煙の向こう。
巨大な影が姿を現す。
二本の角。
鋭い牙。
血走った赤い目。
「オーク……!」
一体。
二体。
三体。
その後ろから、さらに魔物たちが姿を現す。
「逃げろ!」
悲鳴が上がった。
村人たちが一斉に逃げ始める。
だが――。
「……あ」
ポコは気づいた。
逃げ道の先にも、魔物がいる。
「まずい……」
完全に包囲されていた。
一体のオークが、ゆっくりとポコへ近づいてくる。
その視線が、ポコの薬箱へ向いた。
「薬師か」
「……はい」
「薬を持っているな」
「ええ」
オークは自分の腹を押さえた。
「治せ」
「……え?」
「人間との戦いで負傷した者がいる」
オークは剣を抜いた。
「治せなければ、この村を焼く」
「…………」
怖い。
逃げたい。
それでも。
目の前に怪我人がいる。
薬師として、それを見捨てることはできなかった。
ポコは小さく息を吐く。
「……分かりました」
そして薬箱を開いた。
「治療します」
「ポコおねえちゃん!」
遠くから少年の声が飛んできた。
ポコは振り返り、笑った。
「大丈夫ですよ」
そして、もう一度だけ言う。
「私は薬師ですから」
そのときだった。
――ドォォォンッ!
空から何かが落ちてきた。
「な、なんだ!?」
土煙が一気に舞い上がる。
そして――。
煙の向こうから、一人の青年が現れた。
豪華な装備。
堂々とした立ち姿。
そして、その手には――。
眩い光を放つ聖剣。
青年は魔物の群れを見渡した。
「……ようやく見つけた」
オークたちが一斉に武器を構える。
「何者だ!」
青年は聖剣を肩に担いだ。
「俺か?」
不敵な笑み。
そして――。
「女神に選ばれた勇者――ムーニーだ!」
「勇者……!」
村人たちから歓声が上がった。
人類最後の希望。
魔王を討つため、女神に選ばれた英雄。
誰もが、そう思った。
「うおおおおおおおっ!」
ムーニーが魔物の群れへ突撃する。
――ズバァァン!
――ドガァァン!
オークが吹き飛ぶ。
別の魔物が宙を舞う。
その圧倒的な力に、村人たちは息を呑んだ。
「す、すごい……!」
さすが勇者。
これなら勝てる。
誰もが、そう思った。
だが――。
「…………」
魔物をすべて倒したムーニーは、なぜか地面をきょろきょろと探し始めた。
「…………?」
ポコが首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「いや」
ムーニーは真剣な顔で答えた。
「この辺に、俺のパンツが落ちてるはずなんだ」
「…………」
村人全員が固まった。
「…………はい?」
「いや、女神から聖剣を授かったときにな」
ムーニーは悪びれもせず説明する。
「勢い余ってパンツまで脱げちゃってさ」
「…………」
「だから、もし見つけたら――」
ポコは満面の笑顔で言った。
「勇者様」
「はい」
「まず服を着てください」
「……あ」
ムーニーが自分の下半身を見る。
「…………」
「…………」
「見なかったことにしてください」
「無理です」
即答だった。
「村人全員が見ています」
「ですよねー……」
人類最後の希望。
勇者ムーニー。
その第一印象は――。
最悪だった。
◆
「まだ来るぞ!」
誰かが叫んだ。
森の奥から、地響きが響く。
「グルルルル……!」
木々をなぎ倒しながら、一体の巨大な魔物が姿を現した。
「オーガ……!」
ムーニーの顔から笑みが消える。
「なるほど」
聖剣を構える。
「こいつが親玉か」
オーガが巨大な斧を振り上げた。
――ドンッ!
一瞬で距離が縮まる。
「速い!」
ムーニーが聖剣を振る。
――ガキィィィン!
斧と聖剣が激突した。
「ぐっ……!」
押されている。
ムーニーの足が地面へ沈む。
「勇者様が……!」
村人たちが息を呑む。
そのとき。
「ムーニーさん!」
ポコが叫んだ。
「左です!」
「え?」
「オーガの左足!」
ムーニーが一瞬だけ視線を落とす。
確かに、踏み込みが甘い。
「なるほど!」
ムーニーが笑った。
「助かった!」
聖剣を引く。
オーガの巨体が前へつんのめった。
「なっ――!」
「せいやぁぁぁぁっ!」
――ズバァァァァンッ!
聖剣がオーガを切り裂く。
巨体が吹き飛び、地面を何度も転がった。
そして――動かなくなった。
「うおおおおおおおおっ!」
村に歓声が響いた。
「勇者様だ!」
「勇者様がオーガを倒したぞ!」
ムーニーは照れくさそうに笑う。
「いや、俺だけの力じゃないですよ」
そしてポコを見る。
「彼女のおかげです」
「……私?」
「俺は剣を振ることしかできない」
ムーニーは笑った。
「でも、戦いを見る目はあんたのほうが上だ」
ポコは少しだけ驚いた。
勇者。
ただ強いだけの人だと思っていた。
けれど――違う。
自分より優れたものを認める。
人の力を借りることを恥じない。
「……変な人ですね」
「よく言われます」
「褒めてません」
「それもよく言われます」
ポコは思わず笑った。
そのとき――。
――ヒヒーン!
街道の向こうから、馬の嘶きが響いた。
一頭の黒馬が駆けてくる。
その背から、一人の男が降り立った。
長い黒髪。
鋭い眼差し。
そして背中には、禍々しい魔剣。
「……あれは?」
ポコが尋ねる。
ムーニーは苦笑した。
「剣聖グーンだ」
「勇者ムーニー」
グーンが近づいてくる。
「また女神から授かったパンツを紛失したそうだな」
「……誰から聞いた?」
「女神からだ」
「女神ぃぃぃぃぃっ!」
ムーニーが頭を抱える。
グーンは深いため息をついた。
「魔王を倒す前に、まず自分の下着を管理しろ」
「それは俺も反省してる!」
ポコは思った。
――本当に、この人たちが人類最後の希望なのだろうか。
しかし。
その疑問を口にする暇はなかった。
グーンが突然、北の空を見上げたからだ。
「……来る」
「え?」
全員が空を見上げる。
北の山々。
その向こうから、巨大な黒雲が迫っていた。
雷鳴が轟く。
大地が震える。
そして――。
『――人間どもよ』
低く、不気味な声が響いた。
ムーニーの表情が変わる。
「この声……」
グーンが魔剣に手をかけた。
「魔王か」
黒雲の向こう。
巨大な影が姿を現す。
膨大な魔力が空を覆った。
『我が名は――』
魔王が両手を広げる。
『大魔王ビッグ・ベン!』
――ついに。
人類最大の敵が、勇者たちの前に姿を現した。
全員が身構える。
魔王もまた、こちらを睨みつける。
『…………』
「…………」
『…………』
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
そして――。
『ぐっ……!』
魔王の顔が苦痛に歪んだ。
「……?」
『ま、待て……』
「何を?」
『い、今は戦えん……!』
「は?」
『すまん! ちょっとだけ待ってくれ!』
魔王は踵を返した。
『トイレに行ってくる!!』
「…………」
「…………」
「…………」
人類最後の希望たちは。
ただ呆然と、その背中を見送った。
◆
「……魔王さん」
ポコは森の奥を見つめた。
「かなり苦しそうでしたね」
「そこを心配するの!?」
ムーニーが叫ぶ。
「だって、お腹が痛いのは辛いですよ?」
「敵だぞ!?」
「でも患者ですよ?」
「患者じゃなくて魔王!」
ポコは薬箱を抱え直した。
「では、薬を持っていきます」
「待て待て待て!」
「はい?」
「魔王を治療する気!?」
「薬師ですから」
ポコは当然のように答えた。
「病気や怪我に、敵も味方もありません」
「…………」
グーンが腕を組む。
「この娘、本当に薬師か?」
「俺には聖女より聖女らしく見える」
ムーニーは遠い目をした。
「……俺たち、本当に魔王を倒せるのかな」
「さあ?」
ポコは首を傾げた。
「でも――」
北の空を見上げる。
その表情には、迷いがなかった。
「まずは、お薬を届けてあげましょう」
こうして――。
人類最後の希望たちと、大魔王ビッグ・ベンの戦いは。
世界史上類を見ないほど、間の抜けた形で幕を開けた。
そして、誰も知らなかった。
このとき魔王の腹痛を治すために持ち込まれた――たった一包の薬が。
やがて。
人類と魔族。
両者の歴史を、大きく変えることになるなど。
――まだ、誰も知らない。




