第二話 私の妹の話です
「まだ条件を話していない」
ヴィクトルは、ようやくそれだけ言った。
「条件を聞けば、姉を離縁した翌日に、その妹と結婚したくなるのでしょうか」
「感情的になるな。これは両家にとって悪い話ではない」
「私にとって悪い話です」
「いずれ公爵夫人になれる」
「昨日までお姉様が座っていた席でしょう」
「クラリスには務まらなかった」
「いいえ」
私は姉を見た。
膝の上で重ねられた指が、わずかに震えていた。
「お姉様に務まりすぎたから、あなたが耐えられなかったのでしょう」
ヴィクトルの顔から笑みが消えた。
「口を慎みなさい」
「妻として導く前からこれです。やはり私は不向きですね」
「エリアーヌ!」
父の声が飛んだ。
「公爵閣下のお申し出だぞ。少しは家のことを考えなさい」
「お父様は、昨日離縁されて戻った娘の前で、もう一人の娘を同じ家へ嫁がせるおつもりですか」
「同じではない。お前なら、クラリスより上手くやれるかもしれん」
姉の顔から、さらに色が消えた。
母も慌てて言葉を重ねる。
「クラリスが悪いと言っているわけではないのよ。でも夫婦には相性がありますから。エリアーヌならヴィクトル様にも臆せず意見を言えますし――」
「意見を言いすぎたから、お姉様は離縁されたのでしょう」
母は口を閉じた。
「それとも私は、意見を言うふりをしながら、最後には必ずヴィクトル様に従えばよいのですか」
「これは家同士の問題だ」
父の顔が赤くなる。
「お前一人の気持ちで断ってよい話ではない」
「私の結婚なのに、私一人の気持ちは関係ないのですか」
「伯爵家の娘として生まれた以上、当然の責務がある」
「では、その責務を果たすために、お姉様の次は私を差し出すのですね」
「差し出すとは何だ!」
父が机を叩いた。
「そこまで言うなら、この家から出ていけ!」
「承知しました」
考える時間は要らなかった。
「お姉様も連れていきます」
「エリアーヌ……」
姉が息を呑んだ。
私は姉の手をそっと握った。
姉は私の手に縋るのではなく、強く握り返してきた。
「お父様」
姉が顔を上げた。
声は小さかった。
それでも、昨日よりずっとはっきりしていた。
「エリアーヌを、あの家へ嫁がせることには反対です」
「クラリス、お前は黙っていなさい。これはもう、お前の話ではない」
「私の妹の話です」
姉の言葉に、応接室が静まった。
父は、まるで姉が口を挟んだこと自体が信じられないという顔をした。
「お前が公爵夫人として務めを果たしていれば、こんなことにはならなかった」
姉の指が、私の手の中で強張った。
私が父を睨むより先に、姉がゆっくりとヴィクトルを見た。
「私が務めを果たさなかったのではありません」
「何だと」
「私が果たしていた務めを、あなたはご自分のものだと思っていただけです」
ヴィクトルの眉が動いた。
「領地の収支を整え、使用人の配置を見直し、滞っていた商会への支払いを整理したのは私です。崩れた街道の迂回路を決めたのも、冬の薪を各地区へ配る順番を作ったのも」
「妻として当然のことだ」
「では、私がいなくなっても、当然のようにお続けください」
姉は初めて、ヴィクトルの言葉を途中で切った。
「エリアーヌを代わりに差し出す必要はありません」
ヴィクトルの頬が引きつった。
「君は自分を過大評価している。公爵家という後ろ盾があったから、商人も役人も君の話を聞いたのだ」
「そうかもしれません」
姉は否定しなかった。
「でも、あなたは私が何をしていたのか、ご存じなかった」
「細かな実務まで当主が把握する必要はない」
「では、私を離縁しても何も困りませんね」
姉の声は静かだった。
だからこそ、逃げ道がなかった。
「離縁の条件については、今後、代理人を通してください。私が持参した財産、婚姻中に私名義で取得した品、未払いとなっている管理報酬についても、すべて確認します」
「管理報酬だと?」
「私の働きが妻として当然のものだったのか、公爵家の実務を担ったものだったのか。第三者に判断していただきます」
ヴィクトルが立ち上がった。
「誰に吹き込まれた」
「誰にも」
姉は私の手を握ったまま、まっすぐ前を見ていた。
「今、決めました」
その時だった。
「よく言った」
応接室の扉の向こうから、低い声が響いた。
杖をついた祖父が入ってくる。
領地の別邸で療養しているはずの前伯爵、ローラン・ベルネールである。
その後ろには、灰色の髪を短く整えた若い男がいた。祖父の法務顧問を務めるマティアスだ。革の書類鞄を抱え、室内を一目見ただけで状況を理解したらしい。
「お、お父様。なぜこちらへ」
「孫娘が離縁されて帰ったと聞いた」
祖父は父を一瞥した。
「にもかかわらず、息子夫婦が何をしたかと思えば、もう一人を後釜に据える相談とはな」
「家のためです」
「家のために娘を使うのではない。娘を守るために家がある」
「しかし、公爵家との関係が――」
「そんな関係なら切れ」
祖父は杖の先を床へ打ちつけた。
「家格にしがみつくあまり、家族を失う愚か者へ家督を譲った覚えはない」
父の顔が青ざめた。
ヴィクトルは不愉快そうに立ち上がる。
「これは両家の問題です。前伯爵とはいえ、すでに隠居された方が口を挟むことでは――」
「両家の問題だから、もう一人呼んだ」
祖父が振り返る。
廊下から、背の高い老紳士が現れた。
白髪を後ろへ撫でつけ、古い公爵家の紋章が入った杖を持っている。
ヴィクトルの顔が凍った。
「父上……」
「今さら父と呼ぶな」
先代公爵アルブレヒトは応接室へ入り、祖父の隣に立った。
二人は目を合わせると、短く頷いた。
「久しぶりだな、ローラン」
「もっと楽しい用事で会いたかったものだ、アルブレヒト」
「まったくだ。君の孫娘を追い出したうえ、その妹まで妻に望んでいると聞いた時には、さすがに耳を疑った」
「私は耳より、育て方を疑ったがな」
「返す言葉もない」
二人はそれだけ交わすと、同時に自分の息子へ向き直った。
「さて、こちらの馬鹿は、娘を二人とも取引材料にしようとした」
「こちらの馬鹿は、妻の働きを自分の力と勘違いし、追い出した翌日に妹を求めた」
「どちらが重症だと思う」
「甲乙つけがたいな」
父とヴィクトルの顔が、ほとんど同時に引きつった。
先代公爵は姉へ向き直った。
「クラリス嬢。まず、我が家の者が君へしたことを詫びる」
「先代公爵様が謝られることではありません」
「家督を譲ったのは私だ。見る目がなかった責任はある」
それから先代公爵は、ヴィクトルへ冷たい視線を戻した。
「お前はクラリス嬢を離縁した理由として、公爵家を次代へ残す義務を挙げたそうだな」
「はい。私は当主として――」
「では、当主を退け」
ヴィクトルの口が止まった。
「何を……」
「公爵家を次代へ残すためだ」
先代公爵は静かに言った。
「自分より有能な妻を追い出し、その妹なら支配できると考える男に、家を任せるわけにはいかん」
「私は正式に家督を継いだのです。いくら父上でも――」
「正式に継いだから、何をしても許されると思っていたのか」
先代公爵の視線が、マティアスの抱える書類鞄へ向いた。
「親族会議を招集する。クラリス嬢が整えた帳簿を自分の功績として提出した件、領内事業の決裁過程、離縁に伴う財産処理。すべて改めて調べさせる」
「帳簿など、妻が管理していただけです」
「その妻を追い出したのだろう」
祖父が鼻を鳴らした。
「ならば一人で説明してみせろ」
ヴィクトルの顔から血の気が引いた。
先代公爵は続いて父を見た。
「それから伯爵殿。両家の関係を心配されているようだが、心配は無用だ」
父の表情に、わずかな希望が浮かぶ。
「では、今後も公爵家との――」
「君を介さずとも、ローランとは友人だ」
希望は一息で消えた。
「クラリス嬢とエリアーヌ嬢が望む限り、二人との縁も切るつもりはない。君が娘たちを家から追い出すなら、こちらで保護しよう」
「それは……」
「困るかね」
父は答えなかった。
「困るのだろう。娘たちを駒として使えなくなるからな」
祖父が言った。
応接室が静まり返る。
私は姉の手を握ったまま、祖父と先代公爵を見た。
二人が来てくれたことはありがたい。
けれど、私の答えは二人が来る前から決まっていた。
「お祖父様。私はヴィクトル様との結婚をお断りします。公爵家が守ってくださらなくても、父に勘当されても、その答えは変わりません」
祖父は少しだけ目を細めた。
「分かっている。だから来た」
先代公爵も頷いた。
「自分で断った者を、後から守るのが年寄りの役目だ。代わりに決めることではない」
隣で、姉がゆっくりと息を吐いた。
「私も、ヴィクトル様のもとへ戻るつもりはありません」
姉はヴィクトルを見る。
「離縁の条件については、改めて代理人を通してお話しします」
「クラリス」
ヴィクトルが姉の名を呼んだ。
昨日までなら、姉はその声に振り向いたかもしれない。
けれど今は、私の手を握ったまま、まっすぐ前を見ていた。
「感情的になるな。条件については二人で話し合える」
「ええ」
姉は頷いた。
「ですから、代理人を通してください」
祖父の後ろに立っていたマティアスが、静かに一礼した。
「承りました。以後のご連絡は、私がお受けします」
ヴィクトルは初めて、姉ではなく、その言葉を記録する他人を見た。
姉の声はもう、夫が聞き流してよいものではなかった。




