第一話 姉が小さな鞄ひとつで帰ってきました
姉が離縁されたと聞いた時、私は胸を撫で下ろした。
これでもう、姉はあの家へ戻らなくていい。
そう思った直後、玄関に立つ姉を見て、安堵した自分を少しだけ恥じた。
三年前、嫁いでいった時には馬車二台分あった荷物が、今は小さな鞄ひとつになっていた。
薄灰色の外套は雨に濡れ、頬は以前よりも痩せている。髪はきちんと結われていたけれど、右側だけ少し崩れていた。公爵夫人だった姉なら、人前へ出る前に必ず直していたはずだ。
「ただいま、エリアーヌ」
「お帰りなさい、お姉様」
受け取った鞄は、あまりにも軽かった。
公爵家で過ごした三年間まで、最初から存在しなかったことにされたような軽さだった。
「お部屋はそのままです。すぐに暖炉を入れさせます。温かいものも用意しますね。スープと、蜂蜜入りのお茶と、それから――」
「エリアーヌ。そんなに一度に言われても、全部は入らないわ」
姉は困ったように笑った。
以前なら、もっと自然に笑ったはずだ。
今は笑顔を作ることさえ疲れるらしい。
「では、まずお茶にします」
「ええ。ありがとう」
私は姉を昔の部屋へ案内した。
窓辺には、姉が嫁ぐ前に使っていた刺繍枠が残っている。棚には途中まで読んだ詩集が並び、化粧台の引き出しには、薄青い髪紐がそのまま入っていた。
姉は部屋を見回し、それから小さく息を吐いた。
「何も変わっていないのね」
「変えませんでしたから」
「私が帰ってくると思っていたの?」
「帰ってきてもいいように、です」
姉は何か言おうとして、やめた。
代わりに椅子へ腰を下ろし、両手を膝の上で重ねた。
その指先は、以前より細くなっていた。
離縁されてよかったはずがない。
姉は三年間、妻としてあの家に尽くした。
領地から届く帳簿を確認し、夜会を取り仕切り、使用人同士の争いを収め、病に伏せた義母に代わって屋敷を守った。
公爵領では二年前、春先の長雨で街道が崩れた。姉は商会ごとの荷馬車を組み替え、食料が止まらないよう迂回路を作った。
昨冬には、領都で薪が不足した。姉は山林を持つ家と交渉し、貧しい家へ優先して配る仕組みを整えた。
その報告は、すべて「ヴィクトル公爵の適切な判断」として王都へ届いた。
姉自身の名前は、どこにもなかった。
姉の夫だったヴィクトルは、姉を殴りも怒鳴りもしなかった。
ただ、姉が何かを成し遂げるたび、それを当然のように自分の功績へ加えた。
姉が疲れていれば、妻が夫を支えるのは当然だと返した。
熱を出して寝込んだ夜でさえ、翌朝の来客名簿を整えるよう、寝台の脇へ書類を置いたという。
休みたいと訴えれば、公爵夫人とは誰にでも務まるものではないと責めた。
実家へ帰りたいと願った時には、君は私の妻なのだから、もう少し家のことを考えろと言った。
姉の方が身勝手であるかのように。
そうして姉は、いつしか自分の希望を口にしなくなった。
だから離縁の知らせが届いた時、私はひどく安堵したのだ。
姉が失ったものを思えば、喜べない。
けれど、姉そのものを失わずに済んだ。
侍女が運んできた蜂蜜入りの茶を、姉は両手で包んだ。
一口飲んで、目を閉じる。
「甘いわ」
「蜂蜜を多めに入れました」
「そうではなくて……」
姉はもう一口飲んだ。
「こんなに甘いものを、久しぶりに飲んだ気がするの」
「公爵家には蜂蜜がなかったのですか」
「ヴィクトル様は、甘い飲み物は頭を鈍らせるとおっしゃっていたから」
私は返事をしなかった。
返事をすると、あまり伯爵令嬢らしくない言葉が出そうだった。
姉は茶を半分だけ飲み、昔の寝台で眠った。
私はその横顔を見ながら、毛布をもう一枚掛けた。
夜が更けても、姉は何度か目を覚ました。
廊下の足音を聞くたびに身を固くし、枕元に置かれた書類を探すように手を動かした。
ここには何もない。
明朝までに整えなければならない名簿も、夫の機嫌を損ねないための言葉もない。
それを身体が理解するまでには、少し時間がかかるのだろう。
翌朝、義兄だったヴィクトルが我が家へやって来た。
離縁に伴う財産の整理をするためだと聞いていたが、父と母は朝から姉の心配ではなく、公爵家との関係ばかりを気にしていた。
「公爵家との縁が完全に切れるのは困る」
父は応接室を行き来しながら、何度も同じことを言った。
「お姉様は、もう公爵夫人ではありません」
「分かっている。だから困っているのだ」
父にとって姉の結婚は、姉の人生ではなく、我が伯爵家と公爵家を結ぶ紐だったらしい。
切れたなら、別の結び方を探せばよい。
そんな顔をしていた。
母は母で、姉にもう少し華やかな服を着るよう勧めていた。
「離縁されたからといって、みすぼらしい姿を見せてはなりません。こちらにも非があったと思われます」
「非があったのは、私なのでしょうか」
姉が静かに尋ねると、母は目を逸らした。
「そういう話ではありません。ただ、世間というものは――」
「お母様。お姉様は昨日、帰ってきたばかりです」
「あなたは黙っていなさい、エリアーヌ」
母は私をたしなめたが、姉に着替えを強いることは諦めた。
やがてヴィクトルが到着した。
三年前、姉を迎えに来た時と同じように、濃紺の上着を隙なく着こなしていた。
けれど姉を見る目には、もう夫としての体裁すら残っていなかった。
「クラリス。昨日のうちに無事着いたようだな」
「おかげさまで」
「突然の離縁となったことは申し訳なく思っている。だが、互いのためにはこれが最善だ」
突然決めたのは自分なのに、互いのためと言えるのだから立派なものだと思う。
「私には、公爵家を次代へ残す義務がある。君では、その役目を果たせないと判断した」
姉の指先が、膝の上で重なった。
「領地経営について口を出しすぎるうえ、使用人たちも君を頼るようになりすぎた。妻が夫より前へ出るのは好ましくない」
私は耳を疑った。
姉が役に立たなかったのではない。
役に立ちすぎたから、気に入らなかったらしい。
「それで、お姉様を離縁なさったのですか」
「エリアーヌ嬢。これは私とクラリスの問題だ」
「私の家で、私の姉に向かって話していらっしゃいますので」
「相変わらず、はっきり物を言う」
ヴィクトルは、なぜか満足そうに笑った。
あまりにも分かりやすい嫌な予感がしたので、できれば気のせいであってほしかった。
「だが、それも悪くない。私は今回のことで、自分の妻に必要なものが分かった」
分からなくてよい。
少なくとも、私を見ながら分かってほしくはない。
「クラリスは優秀だった。だが、妻としては自分の考えを持ちすぎていた。その点、君なら若い。これから公爵家にふさわしいよう導くことができる」
父が足を止めた。
母が目を見開いた。
姉だけが、真っ青になった。
「気の強さも、正しく使えば魅力になるだろう。エリアーヌ嬢。クラリスとの離縁後、君を私の妻として迎え――」
「お断りします」
最後まで聞く必要もなかった。
ヴィクトルは口を半ば開いたまま、しばらく動かなかった。




