第三話 次に選ぶものは、私たち自身のものです
姉が小さな鞄ひとつで帰ってきてから、二か月が過ぎた。
私たちは父の屋敷を出て、祖父が王都に持つ小さな別邸で暮らしている。
小さいといっても、伯爵家の基準である。
寝室は五つあり、庭には温室まであった。
姉は最初、その広さに戸惑っていた。
「私たち二人で使ってよいのかしら」
「お祖父様は、ご自分の書庫が狭くなることの方を心配していました」
「それなら、少し安心したわ」
姉はそう言って笑った。
帰ってきた日の、作ることさえつらそうだった笑顔とは違う。
まだ頬は細い。
けれど蜂蜜入りの茶は、毎朝一杯飲めるようになった。
夜中に目を覚ますことも減った。
何より、朝起きた時に「今日の予定は」と誰かのための仕事を探さなくなった。
その代わり、自分で予定を決めるようになった。
午前は離縁に関する書類の確認。
午後は庭を歩き、疲れたら休む。
気が向けば刺繍をし、気が向かなければ何もしない。
最初の一週間、姉は「何もしない」ということができなかった。
椅子へ座っても五分で立ち上がり、花瓶の位置を直し、使用人の当番表を確認し、台所の在庫まで数えようとした。
祖父は三日目に、別邸の家令へ命じた。
「クラリスが仕事を探し始めたら、茶を出せ」
それ以来、姉が帳簿へ手を伸ばすたび、どこからともなく茶と菓子が現れる。
「私、監視されているのかしら」
「大切にされているのだと思います」
「少し方法がおかしくない?」
「お祖父様ですから」
離縁の清算は、姉が予想していたより大きなものになった。
マティアスが公爵家の帳簿を調べると、姉の持参金の一部が領内事業へ流用されていた。
姉名義で購入された調度品は、公爵家の資産として登録されていた。
さらに、姉が三年間管理してきた複数の事業について、正式な委任状も報酬記録も存在しなかった。
「奥方として当然の仕事だと、誰も疑わなかったのでしょう」
マティアスは書類を机へ並べながら言った。
「ですが、当然で済ませるには規模が大きすぎます」
街道の修復。
薪の配給。
商会との債務整理。
領都の穀物価格を安定させるための共同倉庫。
姉が「少し手伝った」と話していた仕事は、どれも公爵領の暮らしを支えるものだった。
ヴィクトルは親族会議で、その内容を説明できなかった。
数字を尋ねられると姉がまとめた報告書を読み上げ、判断の理由を問われると「妻が細部を処理していた」と答えた。
その妻を、役に立たないとして離縁した翌日のことである。
先代公爵は、会議の途中で一度だけ額を押さえたという。
ヴィクトルは当主権限を停止された。
公爵家は当面、先代公爵と親族会議による共同管理となり、姉の財産は返還されることになった。
父もまた、祖父から領地経営の監査を受けている。
私たちを家から追い出すと宣言したことについては、正式に撤回する手紙が届いた。
ただし、最後にはこう書かれていた。
『家族なのだから、いつまでも意地を張らず戻ってきなさい』
姉と私は並んで読み、同時に手紙を伏せた。
「戻る?」
「お姉様は?」
「戻らないわ」
「では、私も」
返事はマティアスに任せた。
家族だからこそ、直接話さない方がよい時もあるらしい。
ある午後、先代公爵が別邸を訪ねてきた。
以前より少し疲れて見えた。
「クラリス嬢。謝罪だけでは済まぬことは承知している」
姉は応接室で、静かに向き合った。
「ヴィクトルは当主を退く。少なくとも、今のまま戻すつもりはない」
「はい」
「公爵領の管理について、一つ頼みがある」
私は思わず姉を見た。
先代公爵は、その視線に気づいたらしい。
「妻として戻れという話ではない」
「それでしたら、先ほどお茶をこぼすところでした」
「すまなかった」
先代公爵は本気で頭を下げた。
「領内の共同倉庫と街道管理について、クラリス嬢が残した仕組みを正式な制度にしたい。だが、記録だけでは判断の意図が分からぬ箇所がある」
姉はすぐには答えなかった。
「公爵家のために働いてほしい、という意味でしょうか」
「違う」
先代公爵は言い直した。
「対価を払い、期限を決め、業務の範囲を書面にしたうえで、助言をお願いしたい」
マティアスが契約書の案を差し出した。
姉は一頁ずつ確認する。
報酬。
期間。
業務時間。
病気や疲労による中断。
契約を終える権利。
どれも、妻だった頃には一度も与えられなかったものだった。
「今すぐ決めなくても構わない」
先代公爵は言った。
「断っても、返還される財産や離縁条件には一切影響しない」
姉は長いあいだ契約書を見つめた。
それから、私を見る。
「私が決めていいのね」
「当然です」
私が答える前に、マティアスが言った。
「あなたのお仕事ですから」
姉は少し驚いた顔をした。
やがて、契約書を机へ置く。
「三か月だけ、お引き受けします」
先代公爵が頭を下げた。
「感謝する」
「ただし、領地へ戻るつもりはありません。こちらから必要な資料を確認し、現地の担当者へ指示を出します」
「それでよい」
「私が作った仕組みを、ヴィクトル様の功績として発表しないことも条件に加えてください」
「もちろんだ」
姉はペンを取った。
署名する手は、少し震えていた。
けれどそれは怯えではない。
自分で選んだ仕事を、自分の名前で引き受ける緊張だった。
契約が始まると、姉は以前とは違う働き方をした。
午前中に二時間だけ書類を見る。
昼食を取り、庭を歩く。
疲れた日は、翌日に回す。
誰も急かさない。
誰も、妻なら当然だと言わない。
マティアスは週に二度、資料を届けに来た。
彼は姉が説明する間、決して言葉を遮らなかった。
分からないところは分からないと認め、姉の判断を記録し、帰る前に必ず次回までの作業量を確認した。
「多すぎませんか」
ある日、姉が尋ねた。
「何がでしょう」
「私への仕事です。以前は、もっと多かったので」
「以前が多すぎたのではありませんか」
マティアスは、ごく当然のことのように答えた。
姉はしばらく黙った。
それから、小さく笑った。
「そうかもしれません」
三か月後、共同倉庫の制度は公爵領全体へ拡大された。
街道の修繕費は、問題が起きてから集めるのではなく、毎年少しずつ積み立てる仕組みになった。
薪の配給記録には、初めてクラリス・ベルネールの名が正式な考案者として記された。
姉は契約を終えた。
先代公爵は延長を申し出たが、姉は一度断った。
「少し休んでから、次を考えます」
「そうしてくれ」
誰も引き止めなかった。
断っても、姉の価値は変わらなかった。
その日の夕方、マティアスだけが別邸へ残った。
「契約の件ではなく、個人的なお願いがあります」
姉の肩がわずかに固くなる。
マティアスはそれに気づき、すぐに一歩下がった。
「不快でしたら、この場で断ってください。今後の仕事にも、離縁手続きにも影響しません」
「まだ何も聞いていません」
「では、申し上げます」
彼は真面目な顔で姉を見た。
「今度、仕事の書類を持たずに、お茶へお誘いしてもよろしいでしょうか」
姉は瞬きをした。
「お茶、ですか」
「はい。帳簿も契約書も持参しません」
「何を話すのですか」
「それは、当日考えます」
姉が私を見る。
助けを求める顔ではなかった。
ただ、誰かに決めてもらう癖が少しだけ残っている顔だった。
私は何も言わなかった。
姉は自分で考えた。
「一度だけなら」
「ありがとうございます」
「でも、蜂蜜入りのお茶がある店にしてください」
「探しておきます」
マティアスが帰った後、姉は窓辺に立った。
「エリアーヌ」
「はい」
「私、少しずつ取り戻しているのかしら」
「何をですか」
「好きなものを好きだと言うこと。嫌なものを断ること。疲れたら休むこと」
私は姉の隣へ立った。
「取り戻すというより、選び直しているのではありませんか」
「選び直す?」
「公爵夫人だった三年間も、お姉様の人生です。なかったことにはできません。でも、次に何を選ぶかは、お姉様のものです」
姉は庭を見た。
春先には何もなかった花壇に、淡い黄色の花が咲いている。
「では、まず蜂蜜入りのお茶を選ぶわ」
「大切な選択ですね」
「それから、明日は何もしない」
「たいへん立派です」
「明後日は、刺繍を再開しようかしら」
「それもよいと思います」
姉は笑った。
今度の笑顔は、誰かの妻として整えられたものではなかった。
帰ってきた日の、疲れ切った笑顔でもない。
姉自身が選んだ、姉の笑顔だった。
小さな鞄ひとつで帰ってきた姉は、少しずつ自分のものを増やしている。
仕事。
名前。
休む時間。
好きな甘さ。
そして、これから誰とお茶を飲むか。
もちろん、私の未来も同じである。
誰かが勝手に用意した席へ座るつもりはない。
たとえそれが、公爵夫人の椅子であっても。
次に選ぶものは、私たち自身のものだ。
それ以外は――もちろん、当然のようにお断りします。
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