第四話 それぞれの明日を選びます
「ミレイユ」
姉が私を呼んだ。
「はい、お姉様」
「私、あの方との結婚が怖かったのだと思うわ」
その声は小さかった。
けれど、今度は誰かに整えられた声ではなかった。
「怖いと言ってよかったのだと、今になって分かったの」
「では、今夜はお祝いですね」
「婚約破棄されたのに?」
「押しつけられた婚約がなくなった日ですもの。お祝いでいいと思います」
姉は呆れたように私を見た。
それから、少しだけ笑った。
その笑顔は、久しぶりに姉自身のものだった。
その時、ルーカス卿が戻ってきた。エドガーを別室へ連れていった後なのだろう。彼は私たちの前で足を止め、姉へ丁寧に一礼した。
「リリアーナ嬢」
「……ルーカス卿」
姉が名を呼ぶと、彼は少しだけ目元を和らげた。
「季節の便り以外でお声がけするのが、このような場になってしまい申し訳ありません」
「いいえ。先ほどは、ありがとうございました」
「私は職務を果たしただけです」
その言い方は、手紙の文面とよく似ていた。
大げさにしない。余計な意味を足さない。こちらの返事を急がせない。
「後日、事情聴取のためにお会いすることになります。今夜は、どうかお休みください」
それだけ告げて、彼は一礼した。
姉を励ますための言葉も、慰めるための約束も重ねなかった。
姉が今、自分で立っていることを邪魔しないためなのだと思った。
その距離の置き方を見て、私は少しだけ安心した。
父はまだ青い顔をしていたし、母は何か言いたげだった。ベルク伯爵家と侯爵家の縁がどうなるのか、明日から社交界でどんな噂が立つのか、考えるべきことは山ほどある。
けれど今は、姉が隣にいる。
しかも、少し笑っている。
なら、今日のところは勝ちでいい。
帰宅してから、父は「家のためだった」と説明しようとした。
私は、説明より先に約束を求めた。私たちの婚姻について、本人の同意なしに話を進めないこと。姉を侯爵家との交渉材料に戻さないこと。そして、今夜のように家の都合を理由に、私たちの返事を奪わないこと。
父は長い沈黙の末に了承した。母は泣いていたが、今夜ばかりは慰めなかった。
許したわけではない。
これまで通りに戻ったわけでもない。
ただ、同じ屋敷で明日を迎えるための境界線だけは、私たち自身の言葉で引いた。
翌日、王宮法務院での事情聴取は、思ったよりも静かに終わった。
エドガーは最後まで誤解だと言い張ったらしい。らしい、というのは、私は途中から廊下の長椅子で焼き菓子を食べていたからである。
姉が「ここから先は私が話すわ」と言ったからだ。
それなら、私は信じて待つだけでいい。
なお、エドガーが真実の愛と呼んだ相手については、正式な婚姻の意思確認すら行われていなかったらしい。
真実の愛にも、相手の同意は必要である。
当たり前のことだが、エドガー様には少し難しかったらしい。
待つだけでいいのだが、何もせず待つのは落ち着かない。だから焼き菓子を食べた。三つ食べた。証人として呼ばれた者に出されたものなので、たぶん問題はない。たぶん。
しばらくして、扉が開いた。
出てきた姉は、昨日より少し疲れた顔をしていた。けれど、目元はすっきりしていた。
「お疲れさまでした、お姉様」
「ええ。ミレイユも待っていてくれてありがとう」
「待つのは得意です。焼き菓子があれば」
「三つも食べたの?」
「証人の務めです」
「それは違うと思うわ」
姉が小さく笑った。
昨日までなら、笑う前に誰かの顔色を見ていたかもしれない。今の姉は、ただ少し呆れて、それから笑った。
それだけで、私は廊下の長椅子に座ったまま、少し勝った気分になった。
その時、ルーカス卿が廊下の向こうから歩いてきた。
彼は姉の前で立ち止まり、丁寧に礼をする。
「リリアーナ嬢。事情聴取、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
「一つ、個人的にお願いしてもよろしいでしょうか」
姉の指先が、ほんの少しだけ揺れた。
私は焼き菓子の皿を持ったまま、黙って見守ることにした。口を挟まない。私は空気の読める妹である。少なくとも、空気を読む努力はしている。
「落ち着かれてからで構いません。よろしければ、来週、お茶の時間をいただけませんか」
ルーカス卿はそう言ってから、少しだけ言葉を足した。
「もちろん、ご負担でなければ、です。お断りになっても、これまでの手紙や今日の証言には何も影響しません」
「何も、変わらないのですか」
「はい。お返事は、あなたが選ぶものですから」
姉はしばらく黙っていた。
それから、私を見た。
私は何も言わなかった。
今度は、私が答える番ではないと思ったからだ。
姉は小さく息を吸い、ルーカス卿へ向き直った。
「では、来週。短い時間なら」
「ありがとうございます」
ルーカス卿は、昨日エドガーを止めた時よりも、ずっと柔らかく笑った。
姉はその笑顔を見て、少しだけ目を伏せた。
私は焼き菓子をもう一つ取ろうとして、皿が空になっていることに気づいた。
残念である。
けれど、姉が自分で返事をしたのだから、焼き菓子一つ分くらいは我慢してもいい。
その帰り道、馬車の中で姉が私に尋ねた。
「ミレイユは、これからどうするの?」
「私ですか?」
「ええ。私のことばかり考えてくれていたでしょう」
そんなつもりはなかった、と言いかけて、やめた。
たぶん、そんなつもりはあった。
姉がエドガーに会う日の朝食を残すたびに、私は腹を立てていた。姉が菫色を身につけなくなるたびに、私はそのリボンを引き出しの奥から救出したくなっていた。姉が笑わなくなるたびに、私はあの男の髪を淡い桃色に染めてやりたいと思っていた。
もちろん、実行はしていない。
伯爵令嬢として、そこは踏みとどまった。
「そうですね」
私は少し考えた。
「しばらくは、誰かの“次”にならない練習をします」
「練習なの?」
「はい。私は何事も、練習してから本番に臨みたい性格ですので」
「昨日は、練習なしで断っていたわ」
「お断りの本番だけは、突然来ますから」
姉は目を丸くして、それから笑った。
その笑顔を見て、私は思う。
今日のところも、勝ちでいい。
お姉様は助かった。
そして私は、当然のように、自分の未来もまだ誰にも渡していない。
それで十分だ。
今は、十分すぎるくらいだった。
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次作「姉を離縁した義兄から、次の妻に私が指名されました――もちろん、当然のようにお断りします」が公開されます。 タイトル上のシリーズ「恋愛小説のはずでした」よりお読みいただけます。




