第三話 婚約を破棄された側として申し上げます
「ミレイユを、私の代わりにしないでください」
広間が、もう一度静かになった。
姉の声は小さかった。
けれど、私にはちゃんと聞こえた。たぶん、この広間の誰よりも。
母が呆然とした顔で姉を見る。
「リリアーナ、あなたは今、混乱しているのよ」
「はい。混乱しています」
姉は素直に頷いた。
それがかえって、強く見えた。
「でも、混乱していても分かります。私が婚約破棄されたからといって、妹が代わりになる理由にはなりません」
「リリアーナ」
エドガーが、少し甘い声を出した。
あの声だ。
姉が菫色のリボンを外した時と同じ声。
「君は傷ついている。だから、そんなふうに意地を張るんだ。ミレイユは君よりも私に合っている。君だって、妹の幸せを願うなら――」
「私の妹は、あなたと結婚しても幸せにはなりません」
姉は、今度ははっきりと言った。
エドガーの顔が、強張った。
「君は婚約を破棄された側だ。今さら私の選択に口を出せる立場ではない」
「そうですね」
姉は一度、目を伏せた。
ほんの少し前までなら、そこで黙っていたはずだった。
でも、今は違った。
「では、婚約を破棄された側として申し上げます。私にあれだけ漏らしていたのに、妹に切り替えて大丈夫だと思っていたのですか?」
エドガーの顔から、わずかに色が引いた。
「な、何の話だ」
「婚礼後、私の持参金で侯爵家の負債を埋めること。私の実家から追加支援を引き出すこと。婚礼準備費の一部を、あなた個人の借財返済に回すこと」
周囲がざわめいた。
エドガーの顔色だけが、はっきりと変わった。
姉は、静かに息を吸った。
「それから、ミレイユのことを“少し躾ければ面白い妻になる”とおっしゃっていたこと」
私は一瞬、目を閉じた。
なるほど。
やはり、お断りして正解だった。
「リリアーナ!」
エドガーが怒鳴った。
姉の肩が、びくりと震える。
でも姉は、下がらなかった。
「私は、聞いていました。ずっと」
「証拠はあるのか」
「あります」
姉は、手元の小さな夜会用の鞄を開いた。
そこから取り出されたのは、数通の手紙だった。婚約者同士のやり取りとしては見慣れた封蝋。けれど、エドガーの顔を見れば、それがただの恋文でないことはすぐに分かった。
「あなたは私に、何度も書いてくださいました。結婚後の家計について、私の持参金の使い道について、父にどう話を通すべきかについて。私は、それが婚約者として必要な相談なのだと思っていました」
姉は少しだけ唇を噛んだ。
「でも今は、そうではなかったのだと分かります」
「貸せ!」
エドガーが手紙に手を伸ばした。
「そこまで」
低く重々しい声が、広間の奥から響いた。
振り返ると、王宮法務院の銀章をつけた老紳士が、ゆっくりとこちらへ歩いてきていた。濃紺の礼服の裾も、白い手袋も、少しも乱れていない。
「侯爵令息。証拠となり得るものに触れないでいただきたい」
老紳士についていた護衛騎士たちが、音もなくエドガーの周囲に立った。
そのうちの一人、まだ若い騎士が、姉の震える手元を一瞬だけ見た。
ルーカス卿だった。
母方の遠縁で、姉と季節の便りを交わしている王宮勤めの騎士。夜会で顔を合わせることはほとんどないけれど、姉の机に置かれた端正な筆跡の差出人として、私はその名を覚えていた。
けれど彼は、ここで親しげな顔をしなかった。
何も言わなかった。
「何をする。私は侯爵家の嫡男だぞ」
「存じております」
老紳士は、少しも声を荒らげなかった。
「ですので、正式な場で伺います」
私は心の底から思った。
署名する前で、本当によかった。
老紳士は姉の前で足を止めた。
「リリアーナ嬢。その手紙を、こちらで確認してもよろしいかな」
姉は迷ったように私を見た。
私は頷いた。
姉は、手紙を差し出した。
老紳士はその一通を開き、数行に目を走らせる。読み進めるほど、その表情が静かになっていった。
怒っている人は声が大きくなる。
本当にまずいものを見つけた役人は、声が低くなる。
「侯爵令息」
「これは、違うのです。婚約者同士の軽い相談で」
「婚姻契約において、相手方の持参金を自家の負債補填に充てる意図を隠していた疑いがあります。加えて、婚礼準備費の流用。婚約相手の変更を申し出た直後に、その妹君へ婚姻を求めた経緯も含め、事情を聞かせていただく必要がある」
老紳士は、姉の預けた手紙へ視線を落とした。
「持参金は婚姻に伴う財産移動です。借財返済に充てるなら、契約書に明記されていなければなりません」
「私は侯爵家の嫡男だぞ」
「先ほど伺いました」
老紳士は手紙を畳み、護衛騎士へ目配せした。
「続きは正式な場で」
エドガーの顔が、目に見えて歪んだ。
「待て。これは誤解だ。リリアーナ、君は私を陥れるつもりか」
「いいえ」
姉の声は、まだ少し震えていた。
それでも、さっきよりずっとまっすぐだった。
「私は、聞いたことと、持っていたものを差し出しただけです」
「黙れ! 君はいつもそうやって、物分かりのいいふりをして――」
「証人への威圧はお控えください」
ルーカス卿が、エドガーの言葉を断ち切った。
濃紺の制服に銀の肩章。まだ若いけれど、声は落ち着いていた。彼はエドガーの前に半歩出て、それ以上姉へ近づけないように立つ。
「これ以上続けるなら、事情聴取の項目が増えます」
エドガーは、口を閉じた。
騎士はそれ以上エドガーを見ず、姉に向き直る。
「リリアーナ嬢。後日、正式にお話を伺うことになります。ですがその前に、今夜はよくお話しくださいました」
姉は、少し驚いたように瞬きをした。
「私が、ですか」
「ええ。ご自分を守るためだけではなく、妹君を同じ場所へ立たせないための証言でした。立派です」
姉の唇が、小さく震えた。
褒められることに慣れていない顔だった。
エドガーは、法務院の騎士に両脇を固められて連れていかれた。
父は、何か言いたげに口を開きかけて、閉じた。
母は姉のそばへ寄ろうとして、けれど姉が一歩だけ私の方へ寄ったのを見て、足を止めた。
広間のざわめきは、まだ収まらない。
それでも、少し前とは違っていた。
好奇の視線だけではない。
姉を見る目に、わずかに敬意が混じっていた。
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最終話『それぞれの明日を選びます』へ続きます。




