三話「深淵」
深淵。
アリスの頭にその言葉がよぎった。
子供のころ、父の書斎で読んだ本を思い出した。
内容もタイトルもうろ覚えだが、その中に出てきた深淵は本当の穴ではなく。
人間の心の闇を映し出していた。
男は誰も信じられなくなり、
最後には、自ら深淵へ飛び込んだ。
物語の最後。
深淵は男を食べ、
「まずい」とゲップをした。
これを読んだアリスは、眠れなかった。
今、目の前にある穴は、本当の深淵。
アリスは昔、井戸の中に石を落として、跳ね返ってくる音で穴の深さを確かめる
遊びをしていた。
他の女の子は、小さな人形とお粗末なお茶会を開いていた。
記憶から意識を引き戻した。
試しに近くに落ちていた大きめの石を穴の中に落とした。
落とした石は、深淵に吸い込まれ、
すぐさま、暗闇と同化した。
アリスはその場に座り込んで、音の反響を待った。
いつまでたっても、アリスが求めていた音は帰って来なかった。
穴は深い?
それとも、底なんてないのかな?
深淵を見るのが恐ろしくなり、とっさに空を見上げた。
夕日が沈み、空は橙色に染まっていた。
「綺麗!!」アリスは夕日を眺めて、久しぶりにそう感じた。
心の深淵が浄化される。
そんな感覚だった。
夕日が沈みかけて、あたりが紫色に染まり始めた。
アリスは、唐突に、家に帰らなければと現実に戻った。
皆が心配しているかな。
これを機会に、きっぱりと結婚を断ろう。
そう決心した。
家にどうすれば帰れるか。
真剣に思考をめぐらした。
まず、一番の問題は、あの巨大な熊。
そして、崖から落ちたのだから、登らなくちゃいけない。
うーん、そうね。
あたりも暗くなったし、とりあえず、寝よう。
どこかに隠れる場所を見つけて、帰り道は何とかなるかな?
アリスは立ち上がり、この場を去ろうとした。
心地よい風が吹き。
アリスのドレスを揺らめかせる。
風の勢いが強くなり、アリスは目を閉じ、腕で顔を覆った。
やがて、風が弱くなった。
腕を下げ、足を一歩進めた。
また、風。
しかも、強風。
まるで、アリスをその場所にとどめるように吹いた。
風は強く吹き、
アリスの耳元でビュウビュウと唸った。
「こっちに、いらっしゃい」と女性の声が耳元で微かに聞こえた。
アリスの右腕は人に引っ張られるかのようにして穴の方に引きずり込まれた。
必死に体を動かして抵抗した。
疲れ切っていたためか、力が出ない。
見えないが、何かが腕を引っ張っている。
アリスはとうとう力に負けて、穴に落とされた。
耳元で、「楽しんで!」と女性の高らかな笑い声が聞こえた。
「ギャーーーー!!」
アリスは、
深淵に喰われた。
深淵の描写、気に入っていただけたら嬉しいです。




