第二章(5)
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朝、イチコが目を覚ました時には、小屋の中にマオの姿はなかった。
(おかしいな、だいたいいつも、私の方が先に目覚めて、マオ様を起こすのに)
今日はいつもより早く目覚めて、すでに祈祷場にでも行ったのであろうか。もっとも、イッキがあんなことになったのを考えると、ゆったりと眠れるような気分でないのも頷ける話だ。
戸を開けて、外を見渡してみた。やはりマオの姿は見当たらない――と思ったところで。
「イチコ」
とひっそりと名を呼ばれた。はっとして見ると、小屋の角に隠れるような格好で、マオがこちらに顔を覗かしていた。
「マオ様!?」
とイチコは驚いた声をあげた。マオは神妙な顔をしている。あまり大きな声を出さないで欲しいようだ。イチコはマオの方へと歩いていった。
「一体、どうしたのですか?」
といいながら角を曲がったところで、イチコはまた驚いた。理由の一つはマオの格好だ。マオは、普段のような装飾品を身に纏っておらず、いたって簡素ないでたちであった。そして、もう一つの理由。マオの後ろに、ここにいられるはずのない人間、イッキが立っていたことである。
「イッキさん、許してもらえたのですか?」
「まさか。あのイゾウめが、そんなことをするはずがなかろう。わらわが連れ出したのじゃ」
「連れ出したって――」
「真夜中に忍び込んだ。立っていた門番は、霊力で眠ってもらっての」
「そんなことして、大丈夫なんですか?」
「大丈夫ではないじゃろうな。もし見つかったら――」
イッキは不安そうな顔を浮かべていた。一方で、マオは覚悟を感じさせるような、潔い表情で、イチコにこう切り出した。
「イチコ、しっかり聞け」
「はい」
「朝までイッキと話して決めた。このムラには愛想が尽きた。山を越えて、二人幸せに暮らせる新天地をを探すつもりじゃ」
「――へ?」
唐突なマオの話に、イチコは呆けた声で返した。あまりに突拍子がなさすぎて、夢を見ているかのような気分でいたのだ。マオは続けて言った。
「わらわが居なくなった後は、イチコ、そなたが巫女の役を継げ」
「私が、巫女の、役…………えええええええっ!?」
イチコは急に現実に戻されたように、大きな声をあげた。
「しーっ! 他の者に気づかれたらどうする」
マオは自分の口元に指をあててイチコを制した。ここいらは集落からも離れていて、あまり他の人々が来ることはないが、念には念を入れたいのだ。イチコは少し声を落としながらも、慌てる気持ちは抑えられずに言った。
「マオ様の代わりなんて、私には無理です!」
「そんなことはない。前より、わらわの後を担えるのは、そなたしかおらんと思っておった。自分では気づいておらぬじゃろうが、そなたは大きな力をそなたの中に宿しておる」
「まさか。何を根拠に――」
「これまで、何気なく考えたり動いたりしたことで、意外にいい方向に事が進んだり、自分でも思わぬことを口に出してしまったりした経験があったじゃろう」
イチコはこれまでの自分の経験を思い出して、確かにそうかも――という気持ちになった。山に行った時もイチコが何気に興味を示した場所で、たくさんの収穫があった。また、先日ヒブリと会った時、イチコは彼にまるで肉親であるかのような親しみを感じた。考えてみれば、それも何か意味があったのかもしれない。近い将来、ヒブリや彼の血縁者と深くつながるような何かが――。
「イチコ、そなたは未来を察知し、より良い方に向かおうとする力が備わっておる。その潜在能力は、わらわよりも大きいかもしれぬ」
「いきなりそんなことを言われても」
とイチコは言ったが、マオは揺るぎないまなざしでイチコを見ていた。
「このムラは、近いうちにヒノイリノクニに取り込まれる。かねてより、使者たちが度々ムラに来ているのは、そのためじゃ。とはいっても、ヒノイリノクニはとても友好的じゃ。ムラの民の幸せに尽くしてくれるじゃろう。むろん、イチコにも。そなたがあちらのクニの男子に興味をもったのも、それを感じ取ってのことかもしれんな。
じゃが、もしイゾウたちがおかしな動きをすれば、すべてが台無しになってしまうかもしれぬ。そうならないためにも、正しき方向に皆を導くことが肝要じゃ。イチコ、そなたにその役目を任せる」
「でも――」
マオにそういわれたところで、イチコには自信が出ない。まだ年端も行かない子供に大国との大事を任せるとは、なんと残酷なことだろうか。だが、マオの気持ちは強かった。この大役をこなせるのは、他の誰でも、自分でもない。イチコしかいないと、本気で信じているのだ。イチコもマオのそんな気持ちを感じ取っているからこそ、明かな拒否の言葉は出せなかった。マオは自らの大幣をマオに渡し、手を彼女の頭にぽんと置いた。
「案ずるな、わらわの霊力を、そなたに分けてやる」
マオの手から温かなものがイチコの頭に伝わり、彼女自身の全身に広がっていくのを感じた。緑色の炎に、全身が包まれているような感覚だ。いつぞや、トワリに言われたように、これもただの思い込みなのだろうか。ただ、マオからもたらされるエネルギーが、自分の内面に密やかに眠っていたエネルギーが混ざり、イチコの全身を流動してゆく――。
――その時、イチコの眼前に、あるビジョンが流れてきた。未来に起こり得る数々の現実。光景が断片的に頭の中に浮かんでくる。
イチコはただ唖然となった。
マオは手をイチコの頭から離し、優しく微笑んだ。
「さて、わらわたちはそろそろ行くぞ。この山を越えた先には、それなりの規模を誇るクニがあるという。そこがきっと、イッキとわらわにとっての安住の地になろう」
さらばじゃ――と言い残して、マオはイッキとともに、小屋の裏手から森の方へと入っていった。イチコは先ほど脳裏に浮かんだ光景があまりに衝撃的で、マオとの最後の挨拶を十分に交わせなかった。
ただ、呆然となりながらも、一言呟いた。
「大変だ……」




