第二章(3)
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「また近いうちに来る」
と長に告げ、ヒノイリノクニの一行は帰っていった。
使者たちが去ったところで、ムラの要人たちにとっては悩ましい問題が過ぎ去ったわけではない。しかし、庶民にとっては、いつもの日常が戻ってきた形になる。
この日は、男どもが表の方角の山に狩りに出かけ、その間に女子供は裏の山の方角に山菜や木の実の採集することになった。イチコも採集に参加した。
今回は特に成果が高く、皆で持ってきた甕すべてが満杯になるほどの収穫があった。そして、それはイチコのおかげといっても、過言ではなかった。
山道を歩いていて、「こっちが気になる」と彼女がいう方に行ってみると、大量の木の実が実っていたり、山菜やなどが多く生えていたりした、ということが度々あったのである。
あまりに収穫量が多く、それぞれの集落への分配や、冬を過ごすための備蓄分を差し引いてもまだ余りがあった。それは、この場にいた皆で分け合うことにした。
イチコも、山ぶどうなどの木の実をたくさん分けてもらえたので、自前の小さな壺にそれを入れて、るんるん気分で祈祷場に向かっていた。マオ様に食べてもらおう――と思ったのである。山ぶどうはマオの好物なので、きっと喜んでくれるに違いない。
祈祷場に帰ってきて、戸を開けようとした時、中から何やら話し声が聴こえてきた。
話の内容までは分からないものの、声の主の一人は、どうやらマオのようだと分かった。だが、普段の威厳のある話し方とは違って、この時の彼女の声は甲高く、ヒステリックな様相があった。もう一人は、マオよりも幾分か声が低く、男性であると思われる。
(一体、どうしたんだろう――)
イチコは思いながら、そっと少しだけ戸を開けて、隙間から中を覗く。意外な光景に目を見開いた。
神棚の前で、まさにマオが男の首元に腕を絡め、自身の身体をその者に密着させようとしていた。そして、その男とは、長の孫・イッキであった。
「いけません、マオ様……!」
イッキは自分に寄り添おうとするマオの身体を掴み、引き離した。マオは悲しそうな表情を浮かべた。
「なぜじゃ、何ゆえに、わらわを拒む」
「あなた様はムラで最も崇高なお方です。私ごときが抱くわけにはいきません」
「何を言う。そなただって、ムラの権力者の孫ではないか。お互い釣り合わぬ身分ではない」
「ですが、ここは神前です」
「気にすることはない。神棚など、ただの飾りじゃ。わらわは心で神とつながっておる」
「でも、ムラの人たちに知られたら」
「構わん。わらわだって祈祷師や巫女の以前に、ひとりのおなごじゃ。そなたも知っておるじゃろう、わらわのそなたに対する気持ちを。そして、そなたも気持ちは同じはずじゃ。さあ、わらわを強く抱きしめてくれ。この唇に接吻してくれ――」
その時、室内にゴトッという音が響いた。
「――誰じゃ!?」
マオがこちらを向いた。
「イチコ――!?」
名を呼ばれても、イチコは動けずにいた。驚きのあまり、手から落としてしまった壺と、中からこぼれた山ぶどうを拾い上げることもなく、ただ呆気にとられて固まってしまっていた。
イッキは緊張した面持ちでトモエたちを見つめていたが、やがてがたりと立ち上がり、「すみません、失礼します!」
と急いでマオのもとを去り、イチコのそばを通って、一目散に祈祷場を出て行った。
「……恥ずかしいところを見られてしまったの」
マオはイチコから顔を逸らして言った。顔が紅潮している。イチコはマオのもとへと駆け寄った。
「知りませんでした。マオ様とイッキさんがそんな関係だったなんて」
「このことは誰にも言わないでくれるか」
「もちろんです。言いません」
イチコはきっぱりと応えた。巫女が恋愛をしてはいけない――これがムラの掟であると、マオから聞かされていた。とすれば、二人の関係がムラじゅうに知られることは、イッキにとっても喜ばしくないことに違いない。イチコは、マオのことはもちろん、彼女が愛する人間にも、不幸な思いはして欲しくはなかった。




