07
「実は嬢ちゃんを連れて行けば金をくれるって言う人間がいるんだが、黙ってついてきてくれたりする?」
若干明後日の方向に悩みが向きそうになったフレディに、男は脈絡なくそう言った。
それが一歩前の言葉と何も結びつかなくて困惑したフレディは、反射的に拒絶の意を述べる。
「…は? なんで私が…」
そんな今日の晩飯は鍋にするわ、みたいな抑揚で言われても困る。だいたい誰がそんなこと言っているのだ。
そんな感情が顔に出ていたのか、男はそりゃそうだとおかしそうに笑った。
「まあ、そういう反応になるわな。オレも最初は、女の喧嘩に首突っ込むのなんか怖くて出来ねぇわと思って断ったんだが…、まあこっちにも色々事情があってな」
腰に手を当てて項を掻きながら、なぜかすこし呆れた顔で男はそう言った。嫌悪感露わに文句を言ったフレディに対しても特に気分を害した風でもなく、その顔には苦笑が浮かんでいた。
(…女?)
誰だろう、と思案するフレディの耳には男の都合などほとんど耳に入ってこなかった。
というか、これは本当に助けを請わないといけない展開のような気がしてきた。
(…いや、ないない。出来ればやりたくないし、それは今じゃない気がする)
墓穴を掘る結末しか見えない選択肢を秒で却下する。
(じゃあ、逃げるか…?)
しかしこれも現実的ではない気がする。
なんというか飄々としているように見えるけれど、見た目の粗野さといい屈強さといい、どれ取っても目の前の男には負ける未来しか見えなかった。比重が軽いから足の速さでは勝ると、根拠のない自信も持てるはずもない。…それならば。
(運に任せる……は、論外。)
最近の運の無さが一瞬で脳裏を駆け巡った後、一番頼れないものだと呆れた思いで切って捨てた。というか、運が良かったことなんか今生であったんだろうか。
一瞬でもそれを選択肢に入れたことを後悔した。それほどまでにいい思い出が浮かばない。
天佑神助など当てにはならない。というかそれは当てにするようなものでもないだろう。そう思うのはフレディ自身に運気がないからなのか、天佑を得たと言えるようなことが今までの人生で一度も無かった気がするからだ。
まあ、不遇を嘆いて我が身を祈ったことも、ないと言えばないのだが。
――だったら、やることは決まっている。
怖くないと言ったら嘘だ。しかし自業自得なこの状況で「わたくしなにも出来ないので誰かお助けになって」などという深窓令嬢のような考えは、微塵も浮かばないのがフレディという人間だった。
力がなくても怖くても、自分でなんとかしなくては。
それは基本的に、自分のことは自分でするという日常が当たり前のフレディが考え至る思考としては、至極当然のものだった。
(でも…)
それでも、ふいに湧いた考えに一瞬で不安に支配されそうになる。
――どうにも出来なかったら、どうすればいいのだろうか。
「…っ」
フレディがごくりと生唾を飲み込んだ時、今まで何を考えていたのか黙っていた男の足がジャリッと地面の土を踏み鳴らした。
「この森、思ってた以上にふざけたやつでなぁ。なにをどうしてもなんでかオレは外に出られねぇ。悔しいが、アイツがいねぇとなにも出来ねぇのとおんなじだ。だから今はこうして大人しくしてるしかないんだが、これが暇で暇で…。いやー、さすがのオレも馬鹿な選択したと後悔したぜ。甘く見てたわ。割に合わねぇし、…べつにそこまでの恩も義理もねぇしなぁ…」
ふと目を伏せて紡がれた最後の言葉は、いったい誰に向けられたものなのか。初めと違って落ちた声音に、不思議に思ったフレディが首を傾げると男はそんなフレディに困ったように笑いかけた。
「そんなもんだから、さっさとトンズラしようかと思ってた矢先のことさ。あの人がオレに話を持ってきたのは」
「……?」
何か引っかかる言い方に少し眉を寄せるフレディを余所に、吸えないほど短くなっていた煙草を捨てて新しいものを口に咥えながら男は言葉を続けた。
「まあ色々引っかかるところはあったけど、それどころじゃなくなってきたし…背に腹はかえられねぇと思ってな。…しかしまさかこうなるとは思わなかったっつーかなんつーか」
下を向いて煙草に火を付けていた男はそこで言葉を切ると、ちらりと視線を上げてフレディを見た。
その動作でもしかして今のは自分に向けられた言葉だったのかと気付いたフレディは、無意識に掌にある電灯を握りしめていた。
「ところで、嬢ちゃんはなんでこんな時間にこんなところまで一人で来たんだ?」
「…え?」
まさかそんなことを聞かれると思っていなかったフレディは、一瞬何を言われたのか分からなかった。
なんでと聞かれても。なんでだろう。
まるで暇つぶしの世間話のように楽しそうな笑みを浮かべる男は本当に愛想が良くて、獣のような野性味を滲ませているくせに愛嬌さえ感じてしまう。
しかしその言葉をどう受け止めていいか分からなかったフレディは、当然返事に困った。
別に大した理由があったわけではないし、と思ってから先ほど聞いた声の存在を思い出した。
理由があるとすればそれだが、この男との関係性が分からない現状でそれを口に出すほどフレディは愚かではない。そうなると理由などないと答えるしかないわけだけれど、自分が言われる立場でも信じられないような台詞を吐くことは躊躇われた。
考え迷った末、ちらりと男の様子を伺ってみる。
すると男はじっと煙を燻らせていた。どうやらフレディからの答えを待っているようで、どうしようかと焦りそうになった時ふと我に返る。
(いやいや! 別に正直に答えてあげる必要なんかないし! 悩む必要なんかないし!!)
「……寝付けなかったのよ。だから、風にでも当たろうと思って…」
我ながら言い訳にも聞こえないと思いながら、フレディはそう答えた。
初めはそう思っていたから嘘ではないし、そういうことがあってもおかしくないと無理矢理自分に言い聞かせて狼狽えないように心がけた。
すると男はそんなフレディを気にした様子もなく「ふーん」と言ったきり考えるように黙り込んだ。
その間も煙草を吸っては煙を吐き、を何度か繰り返した後、思い出したかのように口を開いた。
「ってことは、嬢ちゃんはこの辺に住んでんの? けど、この辺に貴族の家なんかないと思ったんだが…それか、わざわざ馬車でも用意してもらったのか?」
嘲るように付け足された言葉尻には、まるで「これだから貴族の女は」と言われたような錯覚を覚えた。
「…何を言ってるの?」
けれどフレディはそんなことよりも、なぜ自分が貴族だと断定されているのかそっちの方が気になった。
確かに間違ってはいないが、貴族でもない――だろう――見知らぬ男がなぜフレディのことを知っているのか。
しかしどうやらフレディが貴族社会でどういう扱いを受けているかまでは知らないようだった。どうでもよさそうに自らの質問を切って捨てたから。
「…ま、いっか。つーか、あの人知ってて言わなかったんだろうなー…、性格悪ぃったら…断られたことがそんなにもムカついたのかねぇ。自尊心の塊みたいなやつだな。ったく、恐れ入るよ。例え金持ちでもあーいう女だけはごめんだね」
呆れたように苦笑いを浮かべた男は肩を竦めて、しみじみとそう呟いた。
「嬢ちゃんもあんなのに目ぇ付けられて災難だなぁ、いったいなにやらかしたんだ?」
「……なにって…」
本当に困ったように浮かべる苦笑の中には、フレディを哀れんでいるような空気を感じられて、もしかしたらこの男に悪気は無いのかもしれないと思えた。金さえもらえれば深く考えずに物事を遂行する人だって存在して然るのだ。
けれどふと下げた視線が捉えたものに、一瞬で考えを改めた。
そこには静かに、なんでも無いことのように自らが腰に下げている剣の柄に手を添えている姿があった。
それはたとえば、ただの癖のようなものなのかもしれない。無意識下の行動でそこに意味なんかないのかもしれないけれど、今の状況で対面している者としては冗談でも笑えなかった。
そうだ。何も見ていないからといって、そのまま帰してもらえる保証なんかないんだ。
(というか、何も知らないでうっかり見ちゃう方が危ない気が……と、とりあえず、一旦頭の中を…)
整理したい。それが許される状況かはさておいて、切実にそう思った。
この人たちがここで何をしているのか、どうしてこんなところにいるのかは知らないが、今の言葉をそのまま受け取るならば、自分はどこぞの貴族から知らぬ間に相当に反感を買っていたということになる。しかし、いったい誰から。
(…思い当たる節がありすぎてどれか分からないわ)
いろんな不評を買っている自覚はあった。加えて自分の性格も、まあまあ正しく理解しているつもりだ。
「………」
女、といわれて一人浮かんだけれど、それこそ自尊心と虚栄心の塊のようなあの人がリスクを背負ってまで自分に報復するなんてあり得ない。彼女は――サンドラは、その先がどうなるかを考えられないほど迂愚ではないはずだ。
そこまで思って、すぐに考えを改めた。
――いやだめだ。彼女だという根拠も無いのに。
決定的な証拠がないのに、思い込みだけで決めつけるのは破滅を呼ぶだけだ。他に思いつかないからといって、可能性が皆無ではない。
恨みを買うという部分では可能性がありすぎて、もはやどれのことだか予想も付かないのだ。早とちりはよくない。
しかし連れてきてどうするつもりなのだろう。さすがにリンチにして終わり、ではないだろうことはなんとなく想像できるが、そうなるとご近所事件の範疇を超えるのではないだろうか。破落戸を雇っている時点で超えている気もするが、それは取りあえず横に置いておく。
別にその人の心配をしてあげるわけではないが、人ひとりがいなくなればそれなりの騒動になるのは当然だ。一応自分はアストメリア家の人間だし、家と断絶しているわけではない。伯爵家の人間が行方不明となれば、事が露見してしまうのは時間の問題だろう。そうなったとき、困るのは自分の方だと思うのだが。
(だとしたら上貴族の誰かかしら。自分ならもみ消せると、大きく出ても不思議ではない、ひと………)
「……」
何の気なしにそう思ってから気がついた。この考えは踏み込んではいけないところに一歩を踏み出しそうだということに。
気に入らないという理由だけならまだいい。どこかの誰かがフレディのことを気に入らなくて痛めつけてやろうというだけならば、そんなに大きな事ではない。幼なじみの犬猿が悪化して小競り合いをする、というような程度の話ならば可愛いものだ。
けれどこれはそれとは違うと直感が鳴いていた。
もしかしたら自分は看過してはいけないものを見過ごしていたのだろうか。
不意に気付いた自分の想像の不穏さに、冷や汗が出た。足下がぐにゃりと歪んだ気がして、一歩二歩とふらついてしまう。そのとき辺りを照らす街路灯に、トンと肩がぶつかった。
「――おっと動くなよ。怪我したくないだろ?」
その、フレディがふらついた僅かを男は見逃さなかった。
素早く一歩詰めたかと思ったら、腰に差していた剣を突きつけられていた。
その早業に一瞬ぎくりと身体を強張らせたフレディは血の気が下がったけれど、一瞬頭が真っ白になったことで逆に落ち着けた。
余計な考えを取り払って、目の前の男にだけ意識を集中させると見えてくるものがあった。
「………」
そうだ。とりあえず今はそんなことより、目の前のことをなんとかしなくては。
引いた足をゆっくり戻してから、フレディはじっと自身を見据える男を見返した。
相変わらず口元には愉楽の笑みが浮かんでいて、顔だけ見れば今の状況を楽しんでいるようだった。その顔からは何を考えているのかいまいち分からなかったけれど、逃がしてくれるつもりがないことだけは理解できた。
けれどいきなり死ぬようなことにはならないようだ。
男に殺気がないことがそれを証明していたし、暇を持て余したと言うこの人は本当にただ単に会話を楽しんでいるだけなのかもしれなかった。
「…じゃあ、質問はしてもいいのかしら」
それなら、とフレディは意を決して口を開いた。
「私を連れてこいってあなたに言ったのは女性ね? だとしたら、それはいったいどこの誰なのか教えてくれない?」
すっと目を細めたその笑貌は、見方によっては挑発的に歪んでいたかもしれない。ひょいと片方の眉を持ち上げて不思議そうな目をした男を見て、フレディが不意に思い出したのはアリアディスの言葉だった。
『無意識に喧嘩を売るな』
本当にどうしようもないといった顔で諭されたいつかの言葉が脳裏をよぎったフレディは、自分の視線が挑戦的になるときがあるらしいことを思い出す。なるべくそうならないように、穏やかに口を開いた。
「どうせそのうち分かるんだから、今教えてくれてもいいでしょう?」
突きつけられた切っ先から男に視線を移して首を傾げる。すると男は何がおかしかったのか、楽しそう哄笑した。
「ははっ、あんたなかなか肝が据わってんだな。普通この状況でそれ聞く? 怖いとかねーの?」
その意味を知らしめるように、突きつけた切っ先を僅かに動かして男は言った。しかし。
人に刃物を突きつけている本人にだけは言われたくない言葉だった。
「…じゃあ、怯えたら見逃してくれるの?」
けれどそんなことで引き下がるフレディではない。怖がることしか出来ないなら、とっくの昔にそうしている。
怖くないわけないだろうと呆れた気持ちもあったけど、それを悟られるのは非常に悔しくて嫌だっただけなのだ。だがなによりこの状況は自業自得だという事実が、それを表に出す事を許さなかった。
そんなフレディは、大して表情を変えることなくことりと首を傾げる。
無表情にも見える顔で平静にそう紡ぐフレディは、剣を突きつけられている状況にもかかわらず男の態度にすごく苛ついていた。けれど自分だけでなんとかしないといけない現状では、少しでも平和に事を運ぶために縋れるものにはなんでも縋っておきたいと思っていた。アリアディスの助言を思い出せたのは一つの僥倖だと思う。
「……そーだな。その通りだ。可愛げはねぇけど、その判断は正しいよ」
しかしそんなフレディに男は満足そうに笑って頷き、ゆっくりと剣を下げた。
相変わらず怠そうに動いているが、さっきの一瞬でその空気は見せかけだと気付いてしまったフレディは一つ長く息を吐いた。
もうこうなったら腹をくくるしかない。
この状況で方向も定まらないまま逃げ出す臆病さも、みっともなく泣き喚く情けなさも、どちらを晒すのもフレディの矜持は許さなかった。
それにそんなことをしたところでなんの解決にもならないと分かっているから、畏怖は深呼吸一つで胸の奥に押し込んでおいた。それでも震えそうになる足に力を入れて、ぎゅっと拳を握る。
(見逃してくれる気がないのなら助けを請うのはなし。したって無駄だ。それなら――)
逃げる。それしかない。
なんとかここから逃げることが出来なかったら、明日はないと思った。
そんな状況で、それでも無意味に何かに縋るほどフレディは甘えた性格ではなかったし、目の前の事実を受け入れられないほど阿呆でもなかった。
…いや、もしかしたらその方が良かったかもしれない。ひ弱でお馬鹿な令嬢を演じたら、同情が買えるだろうか。――そう思ったけれど、いきなりシフトチェンジは無理だった。
そもそも、ひ弱な令嬢はこんな時間にこんな場所になど絶対来ない。無駄に冷静なフレディの頭は自身の考えを即座に否定した。
妄想にも浸れないとは、なんとも悲しい脳である。
しかし悲しいがそれで良かったかもしれない。意を決するように一つ大きく息を吸って口を開いた。
「それで? 私の質問には答えてもらえるのかしら」
話の先を促すようにそう言うと、男は思案するようにじっとフレディを見据えた。フレディもそれ以上を催促せずじっと出方を待ってみる。すると男は短くなった煙草を捨てて、また新しいものを咥えて火を付けはじめた。
「そうだな、…知ってどうすんの? 殴り込みにでも行くのか?」
おかしそうに笑うその声に嘲りはなくて「そっちの方が面白そう」くらい思っていそうに聞こえて、フレディは少しだけおかしくて笑ってしまった。
「別にそういうわけじゃないけど…普通、自分が捕縛対象だなんて言われたら、一体どこのどいつがそんなこと言い出したのかは気になると思うわ。身に覚えがなければなおさらね。でも、分かったからってべつに報復しようなんて思わないわよ」
「そうなの?」
「ええ、興味ないもの」
「興味ない?」
ひょいと片方の眉を持ち上げて、不思議そうに首を傾げる男を見据えてフレディは続けた。
「そうよ。だって、意味ないじゃない。なんのためにそうしたいのか知らないけれど、気に入らない程度の話なら報復をしようがしまいが、私に対するその認識が変わるわけではないでしょう? そういう人は、苛立ちをぶつける場所が欲しいだけよ。相手にしないのが一番だわ」
「…ふーん」
「なによ」
ふんふんと頷きながらにやついた顔でじっと見られるのが不愉快で、思わず不機嫌な声が出た。
「いや、ずいぶんと貴族のお嬢様らしからぬ考え方をするんだなって思って。ああ、悪い意味じゃないぜ。褒めている」
「だから、なんで私を貴族だと…」
「そう聞いたからだ」
「……だれに」
すぐに切り返したフレディの言葉に、男は含み笑うだけで何も言わなかった。にやりと口元を笑みの形に変えた男の目は、何を見てそんな色をしているのだろう。
けれど男のその表情を見たフレディは、即座にこの質問には答えてもらえないことを理解した。
「ま、貴族の家しか探さなかったのはこっちの落ち度だけどな。ぬくぬく育ったお綺麗なお嬢様が家から出るときは、男漁りに行くときだけかと思ってたからさ」
先入観ってのは怖いねぇと苦笑いながら、男は煙草の灰を地面に落とす。
結構な侮辱だが、フレディは大して気にしなかった。半分は当たっていると思ったし、男のその仕草を見ながらフレディが考えていたのは別のことだったから。
(まったく、これでは埒があかないわ)




