06
――何かが聞こえた気がして、フレディはふと目を覚ました。
「…」
ぱちりと目を開けて耳を澄ます。
一番に聞こえてきたのは、あの後一緒に布団に入ったハクの穏やかな寝息だった。
いつものように抱きしめて眠るその小さな身体は規則正しく呼吸をしていて、初めて会ったときよりも少しだけ硬度が増した鱗は適度に冷たく、ひんやりとした感触は暑い夜にはとても心地よかった。
まだ夜は深く明かりのない部屋は真っ暗だった。今日は月も薄くて、明かりと言えるものはほとんどない。
偶に聞こえるのは梟の鳴き声か、さほど大きくないその声も静寂の中でははっきり聞こえてくる。でもそれは静かな夜を邪魔しない、違和感のない自然な声でフレディの耳まで届いていた。
特に変わりない夜の気配に、ただ変な夢でも見たのかなと思ったフレディは、寝直そうとごろりと寝返りを打つ。すると不意に、また何かが聞こえてきた気がした。
狼が吠えた後に凪ぐ木々の音のような、妙な感じだった。
あの豪雨が嘘のように今宵の空は静かで、風も眠っているのだろうかと思うほどしんと静まる空気に、一見とても穏やかな夜なのに何か落ち着かない。
「………」
別に何も変わったことはない。思い過ごしだと目を瞑って再び眠りにつこうと試みたけれど、どうも目が冴えてしまって眠気は戻ってこなかった。それでもしばらくそのままじっとしてみたけれど、どうにも落ち着かない。
そこでフレディは、少し外の空気でも吸ってこようとそっと起き上がった。
眠るハクを起こさないようにと、静かにベッドから降りるとフレディは椅子に掛けていた上着を羽織った。
ついでに近くの林の辺りでも様子を見てくれば、きっとこの変な違和感は払拭されるだろうと、そんな軽い気持ちだった。
そうして、足下が分かる程度の灯りを放つ小さな電灯を持って向かった場所、山に続く林の入り口には一目で見て分かる荒らされた後があった。
「…えっと」
それは荒らされたというより、通りやすいように不要なものを押しのけたといった方が正しいかもしれない。不格好に刻まれた枝の切り口は疏らで、間違っても手入れをされたよう見えなかった。
人の来ない町外れにこんな痕跡があるなんて変だ。
何もないと思っていただけに驚いて、一瞬で眠気が飛んだフレディの頭が一番に考えたのは、これがいったいどういう目的でこうなったかということだった。
この林は飼育所の建物のすぐ側から街の反対に向かってずっと先まで伸びている。どちらかというとフレディがよく足を運ぶ丘の方に近いのだけれど、山の入り口でもあるこの場所はいつだって人の気配などなかった。山の上まで覆っている木々を夜に見上げると、大人でも不気味に感じるほど鬱蒼としている場所だし、採れる物もなければ獣だって出る。当たり前だが誰もここには足を運ばない。
フレディがよく竜を連れて行く丘と近しい場所を通っているけれど、あまりこちらに近寄らないフレディが足を踏み入れるのはこの辺りが精々だった。噂では国境付近まで続いている深いものだというし、ここは昔から妙な噂が絶えないところで有名だった。
それは噂の域を出ない話だけれど、警備隊が定期的に見回りをしている場所でもある。よって、安全を唱える場所ではないことが想像できるが、なにがあってそうなっているのかはフレディはよく知らなかった。
こっち側には近寄るなと初めに案内されたとき上司に念を押されていたフレディは、気にもしなかったというのが正しいかもしれない。気にしなかったのはそう言われたからというよりも、ここの空気感に対する無意識の警戒だったのかもと今では思う。
初めから思っていたし、今見ていても思う。ここはなんだか近寄りがたい雰囲気がとても強いのだ。
自分だけがそう思うのかもしれないが、子供の頃から森に遊びに行くために家を抜け出していたフレディだったけれど、ここにだけは近寄ったことがなかった。気味が悪い感じがしていたし、子供心に山が来るなと言っているようにも見えていた。
山の上へ上へと伸びる木々が黒々としていて怖いと感じてもいたし、一緒にいた動物たちもここへは入りたがらなかったから。しかし、今は特になんにも感じなかった。
山の頂上を見上げても――闇夜でなにも見えないが――気持ち悪いとは感じなかった。まあ不気味ではあるが。
やっぱり子供のよく分からない感性のせいだったのかと、何の気なしに視線を落とすと、手にしていた明かりに照らされて不格好に隆起する地面が視界に入った。
なんだろうと明かりをかざして見た瞬間、思考がぴたりと止まる。
そこには通りやすく切られた背の低い枝葉のすぐ側に、足跡があった。
雨で泥濘んだ土に強く残る真新しい無数のそれを見て、フレディの中に初めて不安が生まれた。
「…これは」
それは明らかに人間の足跡だった。しかも一人二人のものではない。
いったい誰がこんな町外れの辺鄙なところに来るというのだ。濡れた土を踏んだということは、あの雨の後ここに誰かが来たということになるけれど。
しかし切られた枝を見ると、昨日今日切られたものでないことは明らかだった。僅かに成長が見られるその切り口にちらりと視線を向けて、じっと考える。
「…やっぱり、あのときちゃんと言っておくんだった…」
普通に考えても、警備隊の仕業でないことは明白だ。彼らは山に上がる正規の道を知っているし、そもそもこんな無造作に植物を切る必要性などない。
ぽつりと小さく独り言ちたフレディの脳裏に浮かぶのは、ハクと出会った時のことだ。
ハクが引っかかっていたあの罠、あれは新品同然だった。刃は錆びておらず、壊れてもいない。罠の設置に朽ちたところは一つもなくて、あれが置かれたのはごく最近だということが容易に想像できるものだった。
実はあの後そのことを不審に思ったフレディは、罠を見つけた場所に足を運んでみていた。けれどおかしなところは特になくて、そのあとすぐに摂取した情報の量と範囲があまりにも膨大ですっかり忘れていた。だから当然、アリアディスに報告なんかしていない。
今更自分の間抜けさにため息を零してみてもなにも解決はしないのだが、もっときちんと考えておけばよかったと後悔した。
自分の居住している近くにそういったことをする人間が来ていたということなのだから、深く考えなくても気持ちが悪いことだと分かるのに。
こんなことだから、アリアディスにももっと気をつけろと叱られるのだ。一瞬落ち込みそうになったけれど、今はその時ではないと気持ちを切り替える。
どちらにしろ自分の憶測なんか意味はない。今ここに不審者の足跡があるという事実だけで十分だ。
そう思ったフレディは、早々にここを離れようと思った。
こんなのを自分の考えだけで追求してもいい方向になど絶対に転ばないと分かっているし、無謀なことをするほど自分の能力に自信など持っていない。自分に出来るのは、素知らぬふりをして上司に報告することだけだということをきちんと理解していた。
――この瞬間は確かにそう思っていたのだ。
だから、早いところ戻って明日にでもアリアディスに報告するのが得策だ。そう思ってくるりと踵を返した瞬間、ガサガサッと近くで何かが動く音が聞こえてきた。
「!」
まさか今、何かがすぐそこにいるのかとびくりと肩を揺らしたフレディは、とっさに手に持っていた小さな電灯の光を手で覆った。
明かりの薄れた暗闇で息を潜めて音のした方に集中すると、なにやら小さく声が耳に届いた。遮る音のない静かな夜では、それは小さくても鮮明に耳に入ってくる。
「いてっ、こいつ咬みやがった」
「――っこの、大人しくしやがれっ」
「おい、お前らうるせぇぞ。いくら町外れだからって気い抜くんじゃねぇよ。静かにしろ」
「だってこいつ思いっきり咬んだんだよっ」
それは一人ではない、複数の人の声だった。犬のような鳴き声も一緒に聞こえてきたけれど必死に吠えているその声と呻くようなそれに、非道な行いをしているということは見なくても理解できた。
「…っ」
思わずやめろと叫びそうになった。
口を開き掛けて、寸での所でぐっと歯を噛みしめる。今自分が出て行ってもなんの解決にもならないと、ぎりぎりのタイミングで思い出した。
でも、そんな手段しか執れない自分が歯がゆかった。言葉に出来ない悔しさにぎゅっと手の中の電灯を握って耐えていると、不意に他にもなにか気配を感じた。
「…?」
感じたというか、匂いが風に乗って漂ってくるようなそんな不思議な感じだった。
確かに少し風はあるが、木々が凪ぐほどのものでもない。いったい何だろうと後ろを振り返った。
それは単なる勘だと言われればそれ以外の何物でもなく、注意して暗闇を見ても何かが見えるわけではなかった。
そうしてしばらくじっと気配の行方を捜していると、男たちの声は次第に遠のいていった。
声のした方を伺えば、遠のく声の中に街へ行くという類いのものが聞こえてきた。確かに声が消えていった方向には街へ降りる道があると記憶しているフレディは、おそらくこのまま街の宿にでも行くのかもしれないと思った。だとしたらそこに今自分が出来ることはなにもない。
それなら、と少し考えたフレディは気になった方向を少し調べてみることにした。
別に何かが見えたわけではないし、こんな時間に急ぐことでもない。明日上司に報告するのが最善だということもきちんと分かっている。にもかかわらず、まるで引き寄せられるように林の奥へと足を向けた。
なるべく音を立てないようにと思っても草を踏む音は消せないし、舗装されていない道は木と雑草のパレードだった。
思いの外早く林のような木々の連なりから森へと姿を変えた辺りは、一層に気味の悪さを増したがそれでもフレディは足を止めなかった。
自分の勘だけを頼りに足を進めていたフレディが「結構歩いたなと」何の気なしに思って、とある一歩を踏み出したとき、違和感を覚えた。
「…なに…?」
不思議な感じだった。例えるならいきなり朝と夜が反転したような、暑さと寒さが入れ変わったようなそんな奇妙な感じがした。
けれど実際には夜は夜のままで、雨上がりで少し肌寒い湿った空気は変わっていない。
まるで人の敷地に無断で立っているような居心地の悪さを覚えて、足を止めたフレディは自分が持っている明かり以外なにも見えないと分かっていても左右に視線を走らせた。
そこは特に気になるものがあるわけでも、景色が変わった場所でもない。ただ同じように道なき道に犇めくように木々があるだけ。
改めて明かりを掲げて辺りを見回した時、その鬱蒼とした空気に初めて不安を覚えたフレディは一瞬だけ引き返そうか考えた。
今立っているのは林の部分を疾うに過ぎ去り、森と言ってもいい場所だ。さらに奥に進むと山になっているこの森林は、本当の本当に誰も手を入れていないのだ。ここまで来てみてそれを初めて理解した。
けれど人の手が入らないのには、なにもないから手を付ける必要が無いというだけの話ではなくそれなりの理由がある。おそらく妙な噂からも、その理由からも、ここに竜の飼育所を作ろうと考えたのかもしれないが、それがいいことばかりではないと改めて理解した。
(…ここ、国境が近いって噂、本当なのかも。でもだとしたら、誰が管理してるんだろう…)
無人、なんてことはないだろう。いくら人の寄らない気味の悪い場所とはいえ、それでは安心して生活できない。でも、この辺に屯所があるなんて話も聞いたことがなかった。
言うほど近くはないのだろうか。それならばこの辺で人の動きがないのも理解できるが、フレディが記憶している中では、この山を登る正規の道は街の裏手にある一本だけのはずだった。
それとも山を越えた先に村でもあるんだろうか。しかしそんな話は聞いたこともない。
(そもそもどうして、アリアン様は山には近寄るなと言ったのだろう。わざわざ釘を刺すということは相応の理由があるんだろうけど…)
ここに人が近寄らないのは、町外れで得になるものが何もないからだけではない。単純に気味が悪いからとか獣が出るからとか、そんな話でもないらしい。それがなんなのかフレディは知らないけれど、気になったフレディはその昔、兄に理由をせがんだことがあった。
けれど明確なことを教えてはくれなかった。それこそお化けが出るからとかなんとか、子供だましの理由ではぐらかされた気がする。
しかしどんな理由を並べようと、令に違わない者ばかりということはそれ以上の理由がそこにあるのは明らかだった。
もしそれに胡坐をかいているのならば、平和呆けもいいところだと文句を言いたい。なにも争いを起こす者だけが不法なことを考えている訳ではないのだ。
そう思うフレディの脳裏に、先ほどの獣の声が蘇った。その痛々しく聞こえた声にきゅっと眉を寄せたフレディが、次に考えたのは騎竜たちのことだった。
彼らに危害が及ぶのだけは絶対に許さない。
竜種は希少種だ。それはこの国だけの話ではなく、近隣諸国ももちろん、世界中が認識していることである。非常に由々しきことだが、飛竜の角や白竜の鱗はいまでも高い値で売買されているのが現実だった。
ただ昔ほどそういった話を聞かなくなったのは、単純に絶対数が限りなく零に近くなったからだ。新たなものを生み出せない以上、供給には限界がある。けれどそれこそが貴重な物だとその価値を爆発的に引き上げているというのだから、如何ともしがたい話ではあるのだが。
自分のいる飼育所ではそういった話は聞かないし、絶対にさせない。けど、自分たちが見ている竜が世の全てではないかもしれないと考えるフレディは、外にも僅かでも存在しているのではないかと思っていた。
でなければ今でもそんな話が囁かれていることが妙な話だし、もし仮にここで横流ししている人間がいるのなら、アリアディスが見逃すわけがない。フレディ以上にそういったことに潔癖なアリアディスは、彼らから取った古い鱗でさえ売り捌くことをよしとしなかった。
財務大臣たちは今でもそのことに渋い顔をしているけれど、フレディはアリアディスのその判断は正しいと思っている。
味を占めればきっと今以上のものを欲しがるに違いない。そう言って首を縦に振らないアリアディスが、竜たちを大事に思っているのは言われなくても知っていた。だからもし、この場所が竜たちにとって安全ではないというならば手を打っていないわけがない。
でもだったら、あの林の入り口はどういうことなのだろう。それがさっきのあの人間たちの仕業なのか、もしくは別人の仕業か。
怪しい奴らがぞろぞろといられても迷惑だが、幸いと言っていいのか、フレディがいる家屋の方面に彼らが来た痕跡は無い。そんな不審者が近寄った痕跡があれば自分が気付かないはずが無いし、罠のたぐいが真新しいことを鑑みても、まだそんなに被害は大きくないのかもしれないと思った。
それならば変な好奇心など捨てて、明日アリアディスに報告するのが一番いい。
「……」
けれど騎竜たちに被害が及ぶかもしれないとなれば、黙ってなんとかしてくれるのを待っているなんて出来なかった。不安や恐怖よりもこの不明瞭な事態を確かめたい気持ちの方が大きくなって、迷った末フレディは足を前に進めた。
前に意識を向けると、さっき感じた不思議な感覚はなくなっていた。目の前には変わらず少し気味の悪い暗闇が広がっているだけ。なぜあんなことを思ったのか不思議なくらい今はなにも感じなかった。
――それが良くないと言えば良くなかった。
いったいどこまで進んだのか分からないくらい進んだ頃、少しだけ辺りがぼんやりと明るいことに気がついた。なんだろうと少し視線を下げたときに、僅かに傾斜し始めていた地面にはっとする。
知らないうちに山の入り口付近まで来てしまっていたらしい。少し登ってしまってから気がついたが、考えていた以上に深い場所まで来てしまっていたようだった。
こんな時間に山に入るのは普通に考えても自殺行為だし、それに。
なぜだろう、この山は登ってはいけない気がした。
これ以上はさすがに駄目かと諦めたフレディが元来た道を戻ろうと踵を返したとき、ぼんやりとした明かりの正体を見つけた。少し見下ろした先に、明かりの元がある。
いったい何だろうと考えたけれど、こんな奥まで足を運んだことが初めてだったフレディは、この森林の奥は思っていた以上に鬱蒼としていることを初めて知った。
こんなところに好んで足を踏み入れる人なんか、それこそ究極の引きこもりかこそ泥くらいだろうな、と思いながら特に深く考えずにその明かりの方へ足を向ける。
静かにそっとそこに近づくと、そこは少し開けた場所になっていた。明かりの正体は一本の街路灯で、元々持ち運びの可能な物らしい一灯式のそれは周辺を煌々と照らしていた。その街路灯の側にはいったいどこから入れたのか、少し大きめの一台の荷車があった。
闇夜に慣れた目には痛いほどの白昼色の光を手で遮りながら、深く考えずにそこへ一歩足を踏み入れた。
「――こんなところにこんな時間、一人で来るのは危ないぜ? お嬢ちゃん」
「…!」
すぐ後ろから聞こえてきた声に驚いたフレディは、何かを考えるより先に前に走った。
明かりの元である背の高い街路灯の側まで来ると、急いで声のした方を振り返る。するとそこには一人の男が立っていた。
影になっていてその姿は不明瞭だけれど、ふわりと煙草の匂いを漂わせる男の背がかなり高いことだけは分かった。
「こんばんは、お嬢ちゃん。こんな時間にこんなところにいったい何のご用だ?」
そう言ってフレディとは対照的に、のんびりと邪魔な草を手で避けながら出てきた男は、なぜかフレディの顔を見るなり驚いた顔をした。
野蛮な傭兵、という単語がぴったりな風貌の男は呆けたようにじっとフレディの顔を見たまま動かない。なんだろうと思ったフレディも動くに動けず、よく分からないまま見合っていると男は不意にごそごそと懐を探り出した。
(…今の内に逃げるべき? なんか探してるっぽいけど、待ってあげる必要なんかないしな…いやいやでも、方角的にあの人がいる方に行かないと無駄に迷いそうな気がする)
どっちから来たのかだいたいの方角は覚えているけれど、そこから外れると無事に帰れる気がしなかった。
こんな時間に森で遭難など洒落にもならない。そもそも自分が遭難したとして、いったい誰が助けてくれるというのだ。
…考えたら悲しくなった。やめよう。
「おー、あったあった」
そう言って目当ての物に視線を落とす男の顔は、夜中森の中という場所に不釣り合いなほど暢気に陽気だった。あまり興味なさそうに、手に持った紙切れに視線を向ける男は目にかかる前髪を邪魔そうに掻き上げた。
煙草の匂いがした、と思ったとおり男の口には煙草が咥えられていたけれど、いったいいつから咥えていたのだろうか、もう吸えないんじゃないかというほど短くなっている。
それなりに距離があっても煙草の匂いがするのに、真後ろに立たれるまで気付かなかったなんて間抜けすぎる。静寂に安心して、気配が動かない空気に安堵していた。
きっと自分が妙に感じた気配はただの気のせいだと、そう思い込んでいた。
(…くっ、最近妙に人と接する機会が多かったせいだわ)
引きこもって生活していたこの二年ほど、上手くいけば一月平気で人と会わなくて済むなどざらだった。それはとても快適だったのだが、そんな自分だけという空間は、時にいろんな事に敏感になる。自分が立てるもの以外の音や気配、物の配置や消えている物、それらの変化に必要以上に反応を示していたように思う。それがこの体たらくとは。
気をつけよう、といったい何に気をつけるのか自分でもよく分からないまま心に誓ったフレディは、やっぱりまだ寝ぼけていたのかもしれない。
とりあえずもう帰ります、と目の前の不審な男に普通に進言しそうになったくらいだったから。
「―――青紫色に青い目…」
後から考えればきっとこのときフレディは、冷静なようで混乱していたのだ。でなければさすがのフレディもこの状況で「じゃあ帰ります」とはならなかったと思う。しかしこのときは普通にそれを口に出すことに微塵も躊躇いがなかった。
けれど開き掛けたそれを遮るように、目線の高さまで持ち上げていた紙切れをじっと見ていた男がぼそりと呟く。
「え?」
なにを言われたのか聞き取れなかったフレディは首を捻ったけれど、そんなフレディに向かって男はにやりと笑みを浮かべた。
蛍光球の街路灯は白昼色で、遜色ない明かりの下ではっきりと見えるフレディ自身と手の中の紙切れを、交互に一瞥してその笑みを一層濃くした。
「なるほど、嬢ちゃんか。や-っと見つけたぜ。まさかこんな街外れにいるとはなぁ。どの貴族の屋敷を覗いても見つからねぇわけだ」
「………」
(…それは、どういう意味?)
どくんと一つ大きく心臓が跳ねた気がした。
自分を知っているような口調に、見比べるように目の前のフレディと交互に見やる紙切れ。自分の気のせいでなければ、その紙切れは――。
ここに来て初めて、危機感が背筋を這って上がった気がした。
これはもしかしなくても非常にまずい状況なのでは。そう思ったフレディの顔は、無表情の極みだった。
自分にとって不穏な方に進みそうな気配を感じて、寝ぼけてる場合じゃないと悟ったフレディは内心冷や汗ものだった。
明らかにフレディを知っているような口調で話す男は瞬間、すっと笑顔を消して真顔になる。そうして無表情で戸惑うフレディをそっちのけでぽつりと呟いた。
「…つーか」
男は真顔のまま目の前のフレディを頭からつま先まで眺めて、もう一度、指先でぞんざいに扱う紙切れを見る。
「…?」
不躾な視線にフレディが眉を寄せると同じくして、男はまるで難しい問題を前にしたかのように眉を寄せた。
「違いすぎじゃね? ああいや、顔は一緒だが…この写真で分かれっての、無理あるぜ。どんなやつでも、この娘さんって言われたら貴族の家しか探さねぇよなぁ」
難しそうに眉を寄せたまま、くつくつと喉奥で笑う男の口調はどこまで行っても陽気なままで、状況が状況なだけに違和感しかない。
若干失礼なことを言われている気がするが、とりあえずその辺は無視することに決めたフレディは今この状況をどうするかだけを考えた。――けれど。
こんな時、どうするのが正しいのかフレディには分からなかった。
――助けを請うのか? …何もされてないのに?
いや、何かされてからでは遅いのか。




