04
物思いに耽っていると、ふいに名前を呼ばれて引き戻される。
「はい」
なんだか真面目な空気を感じて、無意識に居住まいを正すフレディに、アマリアは優しい眼差しのまま言葉を紡いだ。
しかし紡がれたその言葉に、フレディは固まってしまった。
「これからもサンちゃんと仲良くしてあげてね」
「は…」
反射的に、はいと返事をしそうになって、慌てて息を止めた。
この穏やかに優しい空気と公爵夫人という肩書きに呑まれて、否定するという気持ちが薄れている気がする。公爵家の人間に無礼をはたらいてはいけないという気持ちを差し引いても、まずい。
なんだか知らないうちに変な約束を取り付けられていそうになる。
恐るべし、ディリア公爵家。
サンディアルトもそうだが何か特殊な魔力でも持っているのだろうかと疑いたくなってしまうほど、あらがえない何かを感じるのは耐性がないフレディだけなのだろうか。
しかし、ここはしっかり気を確かに持たなくては。
そう心に決めて、毅然に否と応えた。
「いえ、私なんかと懇意にしていたらあまりよくないと思います」
「あら、どうして?」
心底不思議といったように首をかしげられて、またしても反応に困る。
「どうしてって…」
それと同時に、以前同じことを言ったフレディに対して同じ反応を見せたサンディアルトを思い出して、彼は母親似なのかな、とまた意味のないことを考えた。
――いやいや。今必要なのはそんな情報ではない。
「公爵夫人は先ほど――」
「もう、そんな他人行儀じゃいやだわ。アマリアって呼んで?」
にこりと優しい笑みを作りながらも有無を言わせない空気を漂わせ、アマリアはフレディにそう言った。
その言葉に不思議な既視感を覚えたフレディだったけれど、逆らわない方が良いと思った格下の貴族気質は素直な反応を見せたようだ。少したじろいだけれど全く反論の気持ちは沸かなかった。
「……あ、アマリア様は、先ほど私を噂で知っていると仰いました。碌な噂でないことは分かっていますが、だからこそそんな人間と親しいくしてるなんてサンディアルト様のためにならないと思うのです。良い縁があっても逃げてしまうのでは…」
言いかけて、いや、そこは自分が言わなくていいことかと思ったフレディはその先を噤んだ。
しかしふと気がつく。慈悲深く平等だと評される彼が、フレディのようなご破算にも優しいとなれば逆に株が上がるのではないだろうか。
しかし、それはサンディアルト側の問題だ。フレディ側の意見――主にフレディのみの意見だが――としては、その後こっちに来るかもしれない人為的被害が問題だった。
夜会にも舞踏会にも行かないフレディが他の令嬢と接する機会などほぼ皆無だが、この間のサンドラのような場合もある。それに、このままの状態でいれば飼育所まで押しかけてきて彼に集るなと文句を言われそうな気がしなくもない。
汚いと罵る令嬢たちがあの場所に来ることはないだろうから、あくまでも気がするだけだが用心に越したことはない。
…それ以前に、サンディアルトがいると分かれば複数の令嬢たちが張り込むために押しかけてくるようなことになるのだろうか。想像したら怖かった。それだけは嫌だ。
平穏に過ごすことを第一位に考えると改めて心に誓ったフレディにとって、そこは断固として守りたい最後の砦だった。
サンディアルトのためといいながら、所詮自分のことが第一なのだ。しかしいきなりそれは口に出来ない。卑怯だと思うが、虚偽はないので許して欲しいと思う。
けれどアマリアはそんなフレディに、心底意味不明だというように首をかしげる。
「そんな人間って、どんな人間なのかしら?」
「え?」
「貴女はどんな人間なの? 噂ではない、貴女の言葉で聞きたいわ」
にこりと微笑む顔はどこか挑戦的で、可愛らしいだけと思っていた雰囲気が一瞬にして崩れていった。
それを見たフレディは、――チャンスだと思った。
一度きゅっと口を引き結んでから、フレディは口を開いた。
「……私が事実どういった人間なのだとしても、周りが持つ評価がすべてだと思います。確かにそこには、事実を知らずに吹聴する声もあるでしょう。ですがそれを払拭しきれないということは、やはり私が『そういう人間』なのだと思います」
フレディに好意的で、そうではないのだと釈明してくれる声すらない事実が、すべてを物語っているように思う。でもフレディは、別にそれを頼んではいないし望んでもいなかった。
そしてそれは、親しい友人すら作ろうとしなかった自分の行動の結果でもあった。
それを少し後悔することもあった。けれど。
「見もしない人がする噂を一つずつ消していきたいとは思いませんし、実際そんなのは無理な話です。そもそも、いちいちそうではないのだと言って回らないと理解が出来ない相手に取り合っている暇は、正直、私にはありません。私は、そういった人たちのために生きているわけではありませんから」
いつどこで何をしていても、望まない噂というのはなくならない物だ。だったら、そこに費やす時間に意味などあるのだろうか。
悩むことが無意味だとは言わない。けれど、答えが出ないことをいつまでも悩む必要もないと思う。
だって自分の価値を決めるのは、他人ではないから。
自分が譲れないと思うことのために、持てる力を使うこと。自分が大切だと思うものを大切にすること。そのための努力なら惜しまない。
自分が取る行動の結果で他人が評価を下すなら、その価値を決めているのはやっぱり他人ではなく自分自身だ。
誠実にありたい人に真摯に接するのだって、その人によく思われたいから。それだって同じことだろう。
そこまで思って、あ、と気がついた。
サンディアルトが言っていたことも、それと同じことだと今気がついた。
『貴女が信じても信じなくても、俺の気持ちは変わらない』
『心を開いてもらえるように、貴女のことを知りたい』
そう言っていたサンディアルトの言葉は、フレディに対して真摯でいようと努力をしてくれていた結果だったのだと唐突に気がついて、一気に申し訳ない気持ちが膨らんだ。
どうせ気の迷いだと、ろくに取り合わなかった。どうせすぐにどうでもよくなると。
彼の目は嘘をついてはいなかったのに。
それを分かっていながらフレディが取った態度は、フレディを嘲笑している人たちよりもずっと質が悪い。
そういう早合点はもうやめようと思ったのに、結局同じことを繰り返してしまっている。そう思うと情けなくて仕方がなかった。
「……」
けれど彼が言ってくれるほど自分のことを好きになれないフレディは、やっぱり信じ切れないでいる。
そこまで言ってもらえる物を、自分は持っていないから。
だから信じたいのに信じ切れない。保証がないことが、たまらなく怖いのだ。
だったら初めから受け入れなければいい。そう思っていた。
でもそれは、自分は良いかもしれないけれど、相手にとっては全然よくない。
やっぱり自分は疑心暗鬼に支配されているらしい。どうしてか分からないけれど、嘘を言っていないと分かっていても信じ切ることが出来ない。
そんなフレディが一番に望むのはたった一つだけだった。
「…私は、豪華な食事も綺麗な服も、宝石も、なにもいらないんです。名誉も権威もいりません。ただ、いつまでもあの子たちが…騎竜たちが幸せであってくれれば、それでいいんです」
「………」
少し伏し目がちに脳裏に浮かぶ光景を視ていたフレディは、アマリアがその言葉にどんな顔をしたかなんて気にもしなかった。
言葉もなく目を見張るアマリアのその顔に浮かぶのは純粋な驚きだったけれど、フレディはそんな顔色には気づかない。
「…そう」
ちいさく呟かれたその声にようやく視線を上げると、そこにあったのは最初と同じ穏やかで優しい顔だった。
「ふふ、貴女はすごく真っ直ぐなのね。私が聞いていたとおりの人だわ」
「え…?」
思わず目を見張ったフレディは、思っていた反応と違って首を傾げる。
いったい誰から聞いたらそんな解釈になるのだろうか。
「貴女がどの噂のことを言っていたのかは、まあ何となく分かるけれど、私が聞いていたのはそれじゃないわよ。私が話を聞いていたのは、夫からだもの」
「え、ディリア公爵閣下から、ですか…?」
「ええ」
迷いなく肯定されてさらに驚いた。
いったいなぜそんなところで自分の話題など出ているのだ。おかしいだろう。
基本的に貴族の集まる場所には行かないフレディは、彼らと出会うことはないに等しい。それでも出ないといけないときは出ていたけれど、それだって二年以上も前の話だ。
そのときだって、ほとんど壁の花だったフレディが会話をした人など両の手で足りるほどだった。その中にディリア公爵閣下も入っているが、たった一度きり。それもたった一言二言交わしただけで心に残るようなものではなかったはずだ。
だというのになぜだ。
「うふふ、でも安心したわ。貴女みたいな子がサンちゃんの側にいてくれて。だって、サンちゃんの周りに来るのは胸しか能がないような子ばっかりだったんだもの。それじゃあお母さんとして、この家を任せてあげるのは頷けないわ。可愛らしく媚びるだけではやっていけないもの。…まあ、サンちゃんはそういう子には興味ないみたいだけれど」
そう続いた言葉に、フレディは唖然とするしかなかった。
決してフレディが望んで側にいるわけではないのだが、しかしその単語にも反応しなかった。いや、出来なかった。
嫌われるチャンスだったのにとか、正直に口を開いても忌避されなかった驚きとか、そんなのよりなにより、その毒の乗った辛口に唖然としたのだ。
そうして言葉もないフレディの手を横から、ついっと取ると包み込むように両手で握られた。
「貴女が思っていたとおりの人で嬉しいわ。サンちゃんはあんまり気の利かない子で申し訳ないけれど、見放さないであげてね」
「…………」
アマリアのその視線がフレディの荒れた手に注がれる。
けれど何のことを言っているのか分からなかったフレディは、その申し訳なさそうに潜められた眉に首を傾げた。
サンディアルトほど気の利いた人間もそうそういないと思うのだが、彼に対して気が利かないなんて言えるとは。さすが母親。――そんなことしか思ってなかった。
「――母上。援護してくれているのか、貶めているのか、どちらかにしてくれませんか?」
首を傾げるフレディの肩に、声と共にぽんと背後から手を添えられる。
突然のことにぴくりと僅かに反応したフレディとは対照的に、平然としたアマリアはサンディアルトのその言葉に、ふふふと不敵に笑った。
「あら。もちろん応援しているわよ? でも偽っては駄目よ。素直に、ありのままが一番だわ。ずーっと一生、偽っていられるわけないもの。いつかバレてしまうなら、最初から取り繕わなければ良いのよ。それで縁がないのなら、それまでと諦めることも大切よ」
「別に取り繕っても偽ってもいません。ただ必要ないことは言わなくてもいいと思うのですが」
「あら、これは必要なことよ? 気が利かない、なんて女性からしてみたら大問題だわ。騎士であっても女性には優しくなきゃ駄目。無骨でも、無頓着じゃ駄目よ。わかった?」
こちらに向かって、ねえ? と笑って紡がれた言葉に、フレディは自分の失敗を悟った。
そして唐突に思い出す。
(…そうだった。ディリア公爵家ってちょっと変わった人ばっかりなんだっけ…)
その噂が事実だと身をもって体験したフレディは、嬉しいやら悲しいやら複雑な気持ちでいっぱいになった。
小一時間ほど降り続いた雨が上がって、日の光が暗い雲の間から差し込んできた。
お茶を飲んでお菓子を食べて話をしていると、一時間なんてあっという間だった。
中でもディリア家のお抱えのパティシエが作ったというお菓子が美味しすぎて、思わず食べ過ぎそうになるのを我慢するのが大変だった。
「じゃあ、フレディちゃん。ぜひまたいらしてね。その服、よかったらまた着てくれると嬉しいわ」
「あ、えっと…、ありがとうございます。本当に、何から何まですみませんでした…」
申し訳ない気持ちに偽りなく、風呂にまで入れて貰ってしまった事実は恥ずかしさしかなかったフレディは小さくなりながら頭を下げる。
けれど、また来てねとにこにこした笑みを向けられるのは、なんとも応えづらかった。
だから曖昧に微笑み返すしか出来なかったフレディは、送ると言って聞かないサンディアルトを何とか押し止めて一人で帰路についた。
どこを通ってきたか記憶にないが、ここがディリア邸だという事実が現在地を明確にしていたので特別困りはしなかった。
門兵に頭を下げてお礼を言い、迷うことなく目の前にある通りを進む。
打って変わって強く照り返す日差しに、お肌に悪いからと貸してくれた――半分押しつけられた――日傘を差してしばらく歩いたところで、フレディはふと顔を上げた。
「……?」
なにやら話し声のような、言い争いのような声が微かだけど聞こえてきたのだ。
そこで顔を上げたフレディは、自身の左側に見える建物が何かを顔を上げて初めて理解した。
見上げる建物は大きくて、庭も広い。正面からではなく裏口に近いこの場所でも、結構な広さだということがわかった。
庭を覆う植物は青々としているが、建物に使われている深い色合いの壁は真夏のような強い日差しは少し不似合いに思えた。
(そうだ。たしか王都にあるディリア邸とシンフォニア邸って近かったんだっけか)
フレディの実家であるアストメリア邸はほぼ反対方向にあるため、ほとんどこちらに来たことはなかったのだが、いつだったかそんなことをうらやましいわと言っていた人がいた。
家が近いのはただの偶然で羨ましいも何もないだろうに、変なことを気にするんだなとどうでもいいながらに思った記憶があった。
まあ、偶然を装って会いやすいと言われればそうだが、年頃の娘があまりの頻度でふらふらと出歩くのは体裁が宜しくないだろう。そう思ったフレディは心底不思議だったのだが、フレディ以外の令嬢はその女性の言った「羨ましい」に一様に同意していた。
自分の欲しいものを手に入れるには多少の体裁など気にしないという意味だと気づいたときには、そのたくましさに心底感心したものだ。
「――…が違うじゃないかっ、協力すれば僕の…――」
昨今の令嬢のたくましさに思いをはせていると聞こえてきた声に、ちらりと視線を向ける。
今度ははっきり、通る人がつい目を向けてしまうほどの音量だった。
フレディもつい反射的に視線を向けてしまったのだが、目に入ったその人物に思わず目を眇める。
「……イーサン様…?」
シンフォニア邸の裏口、主に使用人が使う出入り口の側にある二つの影があった。一人はシンフォニア邸の使用人だろう。そしてもう一人は、貴族のような装いをした男だった。
なにやら揉めているらしい、その男の方はフレディもよく知る人物だった。
すっと目を細めてよりはっきりとその姿を確認しようとしたフレディだったけれど、遠すぎてよく分からなかった。
男の方――イーサンは苛立った様子だったけれど、開け放たれた扉から一歩も出ずに話を聞いているメイドは、行儀よく前で手を合わせて立っている。その様はイーサンとは対照的で、とても落ち着いて見えた。
その様を見て、フレディはなによりも違和感を覚えた。
イーサンはすでに爵位は返上しているはずだ。言ってみれば平民と同じ位の人間が、侯爵家のしかも裏口にいるなんて深く考えなくてもあやしさしかない。
一瞬人違いかと思ったけれど、どうやらそうでもないようだ。
あのセンスのない髪の色。この間の夜会で見たイーサンの頭と同じ色だし、苛立ったときに見せる彼特有の癖が全開だった。
こうして貴族街をふらふらすることは、爵位を返上した人間にとって不名誉なレッテルを貼られる原因を自ら作っているようなものだろうに、いったい何を考えているのだろうか。
どうやら妻帯者であるらしいイーサンが、こんなところにいるというのも変な話だ。
本来ならふらふらしていないで、家族を守るために尽力するべきだろうに。
(…そういえば)
とふと思う。地方を治めるグレマー男爵の私邸だった王都の家はどうなったのだろうか。
取り壊しになったとか、管理者が代わったとか、そんな話も聞いたことがない。そんな大事になれば、さすがのフレディも爵位返上の事実位は知っていただろう。
ふいに舞い降りたその疑問に考え込んだのは一瞬だけで、まあ別にいいかと思った。
イーサンにもシンフォニア家にも、正直に言ってフレディはあまり興味がなかった。
サンドラにもついこの間、近寄った――正確には近寄ってきただが――故にひどい目に遭ったのだ。元々苦手なタイプだし、進んでお近づきになりたい相手ではなかった。
人様の家のもめ事に首を突っ込むつもりもないフレディは、気になりながらも早々にその場を立ち去ろうと前を向く。その瞬間。
――ちらりと視線を上げたメイドと目が合った気がした。
「…っ」
はっきり見えなかったけれど、彼女が冷たいまでの無表情だったことはなぜか理解できて、思わずぱっと傘を前に倒して視界を遮った。
別に悪いことをしたわけではないのだが、なんだか今ここにいることを知られてはいけない気がした。
幸いフレディは立ち止まっていなかった。ここはそれなりに人通りがある道だし、ただの通りすがりで故意に話を聞いていたとは思われないだろう。
それを幸いと飽くまで平静を装って、そそくさとその場を後にした。
――後から思えば、このとき不審に思った気持ちを捨て置かなければよかった。




