03
「あ、あの……」
「はい。なんでございましょう」
湯殿に浸かったフレディの髪を少し楽しそうな空気を出しながら洗う使用人に、おずおずと声をかける。
彼女はフレディと同じくらいの若い娘で、先ほどいち早くサンディアルトの手から傘を受け取った人だった。
「ほ、本当に、自分で出来ますので…」
「奥様にくれぐれも粗相のないようにと言われております。ご容赦くださいませ」
そう、にべもなくばっさりと切り捨てられる。
うう、と小さく零すと、少し申し訳なさそうな顔をした彼女には何の非もない。
人様の家に来てまず初めにすることが入浴だなんて、申し訳ない以上に羞恥がわき起こる。せめて一人で、と思って口にした言葉も一刀両断されてフレディは小さくなるしかなかった。
「本当に、お綺麗ですね」
「え?」
為す術なく小さくなっているフレディに気づいた彼女は、気を利かせて話題を振ってくれた。
いきなり振られた話題に首を捻って横目に後ろを見ると、彼女の視線はフレディの髪に注がれていた。
「肌もお白いですが、この髪もとても不思議な色で、きらきらしていて…まるで宝石みたいです」
ふふ、と楽しそうに紡がれた言葉に、思わずぽかんとする。
そんなことを言われたのは初めてだった。いや、確かにサンディアルトはよくそんなことを言っているが、所詮男性の言うことだ。多少は盛っているだろうと思っていたフレディは、彼の言うことをあまりまともに受け取っていなかった。
同性からの思ってもいなかった言葉になんと返していいか分からないフレディは、気恥ずかしさも相まって下を向く。
すると黙り込んでしまったフレディに対して、彼女は己の失言を悟ったのか慌てて謝罪をした。
「も、申し訳ありません。出過ぎたことを申しました」
そう言ったきり黙ったまま手を動かす彼女に、出過ぎてなんていないと言おうと思うのに胸の奥がくすぐったくて言葉にならなかった。
きっといつもだったら、そんなことはないと彼女の言葉を否定していたと思う。
けれど、その言葉に嘘偽りがないのは、彼女の目を見れば分かった。本当に愛おしそうに優しく触ってくれるから。
だからフレディは少しだけ迷った末、口を開く。
「…あ、あり、がとう…。貴女の目も、とても綺麗だわ」
「……。とんでもない。もったいないお言葉を。でも、ありがとうございます」
一瞬目を見張った彼女は、嬉しそうにふわりと優しく微笑んだ。その顔に、なんだかどきどきしたフレディは頬を染める。
同じような年頃の女性から、フレディがいつも向けられていた妬みと蔑みの視線とは違う。彼女の顔は本当に嬉しそうで、それがとても心に響いたのだ。
嬉しいのは彼女なのに、なぜか自分が嬉しい気持ちになった。
確かに彼女は使用人だし、不躾な視線を客人に向けたりはしない。でも、その嬉しそうな顔は心からのものだと分かった。
そんな風に居心地の悪い気持ちでもぞもぞしていると、湯に浸かるフレディの後ろで彼女は作業の終了を告げた。
そうして体を拭いたあと部屋で提示された服を見て、フレディはぎょっとする。
「あ、あの…それはいったい…」
「? はい。こちらをお召しいただくようにと仰せつかっておりますが…お気に召しませんでしたか…?」
そう言いながらも彼女が用意している服は、どう見ても貴婦人が着る洋服だった。
普段着だが少し豪華なそれは、フレディが苦手なフリルもリボンも必要以上に存在せず、とても淡い色をしている。
薄いライムグリーンのそれは、全体的に明るい印象を受けるが腰回りは深緑色の布が使われていて、優しい印象を受けるもとても落ち着いた色彩をしていた。
フレディが実家にいた時でさえ着たことのない雰囲気の服に、すこし心が引かれた。自分に似合うかどうかはさておいて、純粋に可愛いと思ったのだ。
けれど瞬時にその考えを捨てる。
「い、いえいえ! お気に召す召さないじゃないです! こんなのお借りできません…!」
「そ、そうはおっしゃいましても……。これがお嫌でしたら、他の物をご用意いたしますので少々お待ちくださ――」
「そうではなく! あ、貴女の着ているのと同じ、お仕着せをお貸しいただければ十分ですっ」
この服が気に入らなかったのだと解釈を誤ったメイドが、別の物を持ってくると言いかけたところで待ったをかける。
他の物だって同じだ。
だってそれは、公爵夫人の物だろう。
恐れ多くて借りるなんてとてもではないが出来ない。いや、すでに風呂まで借りおいて何を言っているのだという話だが、それはそれこれはこれだった。
そもそも、ドレスは他人に貸すことを想定して作っていない。一度身につけてしまえば「洗いましたから」と言ってお返しするのも憚られる代物だ。
一見シンプルな物ほど生地は高級だと知っているフレディは、実質貰うこととイコールになると分かっていて、はいわかりましたとは言えなかった。
そう思って必死に辞退を申し出たフレディの言葉に、今度はメイドの方が目を剥いた。
「そんな! なりません! 大丈夫です。絶対に似合いますからっ」
そういう問題ではないのだ。
似合う似合わないで遠慮したわけではない。だが、そう言って力説する彼女の迫力に思わずたじろいだフレディは、結果、気迫負けしてしまった。
自分で気がついたときには頷いてしまっていたのだ。なんて意志が弱いのかと、自分が情けなくなる。
そうして為すがままになったフレディは、おろおろしながら成り行きを見守っていた数人に囲まれてあっという間に出来上がった。
その姿を見て、入浴を手伝ってくれたメイドが満足そうに微笑む。
「よくお似合いですわ」
「…それはどうも…」
そうお礼を言ったフレディの顔は、物悲しい空気を出していた。
(うう、結局押されに押されて着てしまった…。でも)
ちらりと視線を上げて姿見に映る自分の姿を見やる。
そこに映る自分を見て、フレディは満更でもない気持ちになった。
自身の薄い青色をした髪に緑の色彩をとったドレスは似合わないのではないかと思ったけれど、これがなかなかどうしてしっくり来ていた。
公爵夫人よりも少し背格好が大きいフレディが着るには無理があるんじゃないかと思っていたが、そこはさすがと言うか、メイドたちはプロだった。
少し短くなる丈から靴が見えても、両脇に伸びる生地の長さがそれをカバーしていてちっとも変に見えない。靴も綺麗に磨かれていて、ドレスに似合った靴ではないが泥だらけで変ということもなかった。
この間のパーティーで久しぶりに着たあのドレスは窮屈で仕方なかったのに、今はそんなこと全く感じない。盛装と普段着ではもちろん違うが、そこには彼女たちの腕と配慮が感じられて素直に感心した。
思わず鏡に映る自分の姿をじーっと見ていると、メイドの一人が「では参りましょう」と言って部屋の扉を開けた。
――参る? どこに?
どうしてこんなことになった。
勧められた椅子に座ったフレディは、なによりも先にそう思った。
「――まあ、やっぱり。とっても似合っているわっ」
フレディの姿を見るやいなや頬を染めて手を合わせるアマリアと、そんな自身の母に同意するように頷くサンディアルトと三人で囲むティーテーブルは、今は雨に濡れない場所に躱されている。
フレディはいたたまれない気持ちでいっぱいになりながら、その勧められた椅子に腰を下ろしていた。
可愛い可愛いと言ってくれるアマリアの方こそ可愛らしい雰囲気で、どう返せばいいのか分からなくてフレディは俯くしか出来ない。
「あ、あの、服…。ご用意いただいて、ありがとうございます」
もうここまで来たら、この行為はありがたく受け取っておく方がいいだろうと結論づけたフレディは、申し訳ないと思うことを止めにした。
そうして笑顔でお礼を言ったフレディの選択は、正しかったようだ。アマリアは嬉しそうに微笑んで、その言葉を受け取ってくれた。
「あら、いいのよ。そんなの気にしないで? 貴女にお仕着せなんか着せられないもの」
ふふふ、と楽しそうに笑ったその言葉に、フレディは半笑いのまま固まった。
おそらく彼女は「お仕着せを貸してください」と言ったフレディの言葉を聞き知っていたのだ。多分メイドが申し訳なさそうなフレディの態度を伝えたのだろうが、なんだか令嬢にあるまじきことだと言われているようで、思わず反応に困ってしまった。
全く嫌みを感じさせない顔と声音に、どうするのが良いのか分からなくて一瞬背筋が冷たくなる。
嫌みのつもりはないだろうが、その口にしづらそうなこともさらりと言ってのける度量に意味もなく平伏しそうな気持ちになった。
さすがサンディアルトの母親。彼と同様、見た目と中身がミスマッチすぎてどうにも落ち着かない。
「そうかな。俺は使用人姿の貴女も是非見てみたいものだけれど。…残念だな、せっかくのチャンスだったのに」
言っておけばよかった、と本気で残念そうに眉尻を下げている真剣顔のサンディアルトにフレディは思わず突っ込む。
「なんのチャンスですか…」
全く分からない。しかしそこでふと気がついた。
サンディアルトがそう言ってくれていたら、進んでお仕着せを持ってきてくれていたかもしれないという事実に気づいたフレディは、遅すぎる提案にじとっとした視線を向ける。
けれどその視線を、自身の言葉に対する胡乱の視線だと思ったサンディアルトは妖しげな笑みを浮かべた。
「主人と使用人という響き、聞くだけでそそられるだろう?」
「…いや、だろうって…。疑問系で言われても…」
どうしろというのだ。その言葉の意味に気づいたフレディは肯定も否定も出来なくて、少しだけ恥ずかしさに頬を染めながら途方に暮れるしかなかった。
ちらりとアマリアを盗み見るも、彼女は聞こえていないかのように優雅にお茶を飲んでいる。
「まあ、貴女だったらどんな格好でも素敵だけれど、俺はいつもの格好が一番好きだな」
「…う゛…、ぉ…っ」
驚異の微笑みを向けられて、そのあまりにもきらきらしたその様にフレディは思わず赤面する。喉の奥から変な音が零れた。
それを見たサンディアルトは、とても嬉しそうに目を細めるのだ。
最近ではいつもこんな調子で唐突にペースを持って行かれてしまう。そしてフレディが何も言えなくなることが嬉しいのか楽しいのか、いつも満足そうな顔をする。そこには勝ち誇った空気も嫌みな嘲笑も存在しなくて、本当にどうしたらいいのか分からなくなるのだ。
「――失礼いたします」
なんだか恥ずかしくなったフレディが俯いて、落ち着け落ち着けと心の中で呪文を唱えていると、メイドの一人が声をかけてきた。
「お話中申し訳ありません。サンディアルト様、旦那様がお呼びです」
行儀よく頭を下げてそう言ったメイドに、サンディアルトは分かっていたけれど落胆した、というように肩をすくめる。
「ああ、やっぱり来たか…。うーん。行かないと駄目?」
「はい。そう言うだろうが有無を言わすな、と承りました」
「はは、そうか。分かったよ。――じゃあ行ってくるけど、フレディ。何を言われても母上の言うことは半分程度――いや、半分以上流しておいて問題ないからね」
「え、と…」
今生の別れではあるまいし、眉尻を下げて寂しそうにするサンディアルトにどう反応を返していいか分からなかった。
おまけにそんな無礼なこと出来ない、というフレディの心を読んだように付け加えられた言葉には、思わず突っ込みそうになるほど困った。
「変なこと言われたらちゃんと、いつもみたいに言い返していいんだからね。言われっぱなしだとあっという間に取り込まれちゃうから気をつけ――」
「もう、いいから早く行きなさいな。心配しなくても、フレディちゃんは私がちゃーんとおもてなししますから安心なさい」
「……それが心配だと言っているのですが」
ぼそりと言ったサンディアルトの言葉を、アマリアはきっちりかっちりスルーした。
(うーん。似ている…)
受け流し方がサンディアルトとそっくりだと思ったフレディは、改めて二人が親子だと言うことを納得した。
というか「いつものように言い返せ」とは何事か。そんな暴露はいらない。
噂の、と言われてしまった時点でフレディがどういう人間なのか若干バレてしまっているような気がしないでもないが、それはそれだ。息子の口から直接聞くのとはわけが違う。
呆れたように息子を追い出すアマリアの反応が気になって、ちらりと視線を向けても彼女は息子の言葉など気にしていないのか特に変わった様子はなかった。
「まったくもう…。半年以上も音信不通だったのだから、ちょっと顔を見せるくらい文句を言わなければいいのに…ごめんなさいね、フレディちゃん」
パタンと扉が閉まる音を聞いた後、その扉を見ていたアマリアは呆れたように笑った。
けれどはあ、とため息を零しながらの言葉にフレディは心底驚いた。
「…音信不通、だったのですか…?」
確かに門兵といい使用人といい、皆一瞬だが驚いたような顔をしていた。思い出せば、クルトは初め久しぶりに彼に会ったような物言いをしていた気がする。
「ええ。貴女も最近の噂くらい聞いたことあるでしょう? ディリア卿サンディアルトは、半年ほど前から一切他人の前から姿を消した。今どこで何をしているのか、誰も知らない。会いたくても会えない。そして、彼に会いたい人たちが彼の部下に話を聞くと、一様にこう言った。『国外を視察中です』と。…まあ、概ねこんなところかしら? どこまでが真実かは知らないけれど、死んではないという便り以外不通だったのは本当よ。それだって、ちょうど帰ってこなくなって半月ほどたった頃に一度きりだったかしら。私たちも今日久しぶりに会ったくらいだもの。いなくなるときもいきなりだったけれど、帰ってくるのもいきなりだったわねぇ」
間延びしたような語尾で言ってうふふと笑う様は、本当に不思議なくらい嫌みがなかった。
可愛い人は何をやっても可愛いのだなと、変なところで感心していたフレディだったけれどふと我に返る。
「一度きりって…心配ではなかったのですか?」
今までずっと家にいた人間が、いきなり帰ってこなくなったら普通は心配する。忙しい身の上のサンディアルトがどういう頻度で屯所と家を行き来していたのかは知らないが、この家に住んでいるというのなら、彼女の反応はあまりにも薄いのではないかと思った。
そう問いかけるフレディに、アマリアは不思議な顔できょとんとした。
「うーん…まあ、もう子供ではないのだし。多少家を空けるくらいなんでもないことだわ。あの子にはあの子の生活があるのだし、そこにいちいち親が介入しなくてもいいのよ。たとえ親子でも、必要な距離間を保つって大切なことよ。それに、なんの理由もなく人を不安にさせるような子でないことは、ちゃんと分かっているもの。何かあったときにきちんと行動できる子だということもね。だから心配は…あまりしていないわね」
ふふ、と笑う顔は息子を信頼している母親の顔だった。
「それに、もし遊び歩いていたり、色々やらかしちゃったんだとしても、後でつけを払うのは自分自身だわ。自業自得、というやつです。それを無条件で助けてあげるほど、我が家は甘くないのですよ?」
得意げに口元で人差し指を立てて片目を瞑るその顔には、可愛らしくもありいたずらっ子でもあるような笑みが浮かんでいた。
その顔に、フレディは思わず笑みを零す。
「信頼、されているんですね。サンディアルト様を」
そうはならないと、信じていないと出来ないことだと思った。
フレディがそう言うと、アマリアは優しく微笑んだ。
「あら、当然よ。私お母さんだもの。貴女のお母様だって、同じだと思うわ」
「そう…ですね」
そう言われて、自身の母を思い浮かべる。
言われてみれば、フレディが引きこもって森にばかり行っていても父も母もそれに文句を言ったことは一度もなかった。
ただ、やらないといけないことはきちんとやりなさいと、そう言い置いただけ。
何がやらないといけないことかは自分で考えろと言われているのは分かったけれど、それを突き放されたと思ったことはない。
いつも周りをよく見て、後ろから支えてくれていた母。
社交界で上手くいかなくても、泣きつきもしないどころか文句も言わなかったフレディが勝手に引きこもったとき、それとなく慰めてくれたことはちゃんと気づいていた。
今だって仕事をすることを文句も言わずに黙ってくれている。本当はそんなことするなと思っているだろうが、それでも口を噤んでくれているのだ。
それはすごくありがたいことだった。
「ねえ、フレディちゃん?」




