02
「…こちらこそ、よろしくお願いします。……ところで、あの、公爵様は…」
おずおずと頭を上げて問いかけると、サンディアルトはなぜか迷子の子供みたいな寂しそうな、何か言いたそうな顔で少しだけ首を傾げた。
そしていくら待っても、返答がない。
――これは。
「………」
脳内で先ほどの言葉と照らし合わせたフレディは、少し迷って言い直す。
「………えっと。さ、サンディアルト、さまは…どうしてここに…?」
「………」
「…あの…」
どうしてこんな展開になっているのか聞きたくて問いかけたのだが、やっぱり返事がなかった。
何を思っているのかもよく分からない真顔でじっと言葉もなく見つめられて、戸惑いながらも名前を口にしたのだが、真剣とも言えなくないその顔は崩れなかった。
もしかしてとらえどころを間違えたのか。
はたまた聞いてはいけないことだったか。
それならば答えずとも、と訂正しようとしたところに落ちてきたため息に、思わずびくりと反応してしまった。
「まあ、いまはそれでいいか」
なにか無礼なことをしてしまったかと思ったフレディのどきどきは、決して味わいたい部類のどきどきではない。
ひやひやしてしまうそれに若干萎縮していたけれど、落胆と共に吐き出されたため息はどうやらそういうものではなかったらしい。
小さく呟いた声はフレディにはよく聞こえなかったけれど、気分を害しているわけではない様子に、意を決して言葉を重ねた。
「あの…、なにかご用があって帰って来られているのでは…?」
ならばこんなところで油を売っていていいはずがない。忙しい身の上でも休息は必要だろうが、何か事情があって人前に出なかったのだというのならば、こんな所にいては本末転倒だと思った。
けれどそれを正面切って切り出すわけにもいかないと思ったフレディは、敢えて知らないふりをすることにする。
視察は体の良い口実らしいがそこには触れず、敢えて『公爵様は視察中』という噂しか知らないことにしようと決めたのだ。聞くところによると極秘も極秘のようだったし、自分が知っていていいことではないだろう。
あわよくばさっさとこの場を去ろうと思ったが故の判断だったのだが、なぜか当の本人は何のことか分からない顔で首を傾げている。
「? 帰るって?」
「え? ……えっと。公爵様は、今は仕事で国を空けていると伺っていたのですが、認識違いでしたか?」
一応の確認を込めて言ったフレディの言葉は、棒読みもいいところだった。
それでも何のことか計りかねていたサンディアルトだったが、少しして合点がいったのか、ああ、と言って納得したように頷いた。
「そっか。…君は賢いね」
「…はあ。ありがとう、ございます…?」
何かを悟ったような顔でにこりと微笑まれて、よく分からなかったがなぜか褒められたようなのでお礼を言う。
だが今の会話で、何がどう賢いになるのか全く分からない。故にフレディが首をひねってしまうのは仕方ないことだった。
「ううん、気にしないで。ちょっとあれ? って思っただけ。でも、うん。それで正解だ。本当に頭の回転が速いというか…、なんというか。アリィが言うとおりだ」
「アリィ…?」
さっきも出てきたその名前に、今度はしっかりと首を傾げる。
女性の名前だと分かるが、一体誰のことだろうと思ったフレディは何の気なしに問いかける。
その名前には自分も聞き覚えがあったからだ。
「アリィって誰ですか?」
自分の知っている人と奇しくも同じであるかを知りたくて聞き返した。
それに、日頃から『お綺麗な公爵様』と揶揄される彼の口から出た女性の名前に、ちょっとばかり興味がわいた。フレディだってそういう話が大好きな女性、という属性だって持ち合わせているのだ。
きっとその噂の所為だろうが、なんだか珍しいものを見た気分になったフレディは、少しだけうきうきした野暮顔で問いかけたのだが、反対にサンディアルトはなぜかぽかんとした呆気顔だった。
「……覚えていないの?」
「え?」
驚いたような顔で逆に問い返されてしまったフレディは、きょとんとする。
覚えてないとは、なにをだ。
「――いや、なんでもないよ。アリィは俺の、…親友だよ」
一瞬遅れてにこりと笑ってそう言われたフレディは、彼が何かを誤魔化したのだと分かったが、誤魔化されたことよりも親友という単語に少しだけ眉をひそめる。
(女性が、親友……?)
男と女の友情を否定しているわけではないのだが、その理屈はサンディアルトには通用しないと思った。
サンディアルトは友情という枠に収められているのかもしれないが、相手がいつまでもその枠に収めていられる訳はないからだ。何せサンディアルトは未亡人さえ、いや、どんな立場であれその隣を狙っている人ばかりなのだ。とてもではないがその言葉を素直には受け取れなかった。
そこではっと気がつく。
(もしかして、そういうこと?)
だから今、少し言い淀んだのだろうか。
彼はなぜだか『お綺麗な公爵様』とまで言われるほど身綺麗なのだ。そんなに言い寄られているならば女の人に不自由などしないはずなのに、なぜかその噂は一向に払拭されない。
噂は所詮噂だが、火のないところに煙は立たないとも言うではないか。
ということは、とフレディは閃く。
サンディアルトが身を窶しているのは、おおっぴらにできない道ならぬものなのではないだろうかと。
「………」
(…やめよう)
そこまで考えて、さっと熱が引いたように冷めた目になったフレディは自分を戒めた。
無粋な詮索だ。
だいたい何が嬉しくて人の道ならぬ恋を詮索するのか。サンディアルトがどこの誰とどうしていようと、フレディには関係ないことなのだ。
無粋も無粋、余計なお世話でしかない。
寧ろ知られたくないことならばそっとしておくことだ。
――そう思うフレディは考えもしなかった。
男であっても女のような愛称の人も存在するのだということを。
最も身近な実例を思いつきもしなかったフレディは、もうこの件には触れないでおこうとそっと蓋をすることに決めたのだった。
「――そういえば、さっき何を言いかけたのかな?」
聞いてもいい? と穏やかに聞かれた。
何のことかと思いかけて、そういえばさっき言いかけた言葉を遮られたのだった。律儀にもサンディアルトはそれを再び聞き返したのだ。
何気ない言葉だったから何もそこまで気にする必要は無いのだが、彼にとっては遮った事実が気になったのかもしれない。
そう思ったフレディは、少し迷って口を開く。
「…こう、サンディアルト様は、私が仕事をしているって分かっても変な顔しないんですね」
少し迷ったのは、自分のこの言葉にサンディアルトがどんな反応をするのだろうかという興味が半分と、言葉にして表していいのかという迷いが半分だった。
それと変な顔、と少し濁したのは、直接的な言葉を言うのは失礼かと思ったからだった。
彼は目下の人間にもきちんと礼儀を忘れない人間だ。自分が悪かったことはきちんと頭を下げることのできる人であることが分かった手前、そんな誠実な人を変な偏見に当てはめてしまうことを無意識のうちに躊躇ったからだった。
しかしサンディアルトは、そんなフレディの態度を特に気にする風でもなく首を傾げる。
「うん? 別におかしなことではないだろう? 働く必要がないからといって、働いてはいけないなんてことはないからね。それに、自主的にそういったことが出来るのはすごいことだよ。慈善事業は貴族の義務だけれど、賃金の発生する労働だって、それを行うことで国に貢献するということには違いないだろう。別に女性だからといって倦厭するようなことではないし、悪いことなど無いはずだ。何もおかしなことはないよ」
「………」
さも当たり前だというように優しげに肯定されて、フレディの方が言葉を失ってしまった。
そんな風に面と向かって、自分のしていることを肯定してもらったことは一度も無かったから。
今のは彼自身の価値観の話であって、フレディに対して言った言葉ではないことは分かっていたけれど、なんだか急に面映ゆかった。
けれど本来ならそう言ってくれる人がいて嬉しいはずなのに、今はその言葉を素直に喜べなかった。
自分は結局、彼の言う動機があってそれらを自発的に始めようと思ったわけじゃない。情けなくも逃げ出した先で培ったものだと分かってしまった今となっては、それさえも賛辞として受け取れなくなっていた。
どうやら、自分で思っていたよりずっとそのことを気にしていたようだ。
面映ゆさとは別の意味で徐々に下を向くフレディを少しの間じっと見つめた後、サンディアルトは何を思ったのかその手を取って自分の方に引き寄せた。
いきなりのことに驚く間もなくよろめいて、自然と距離が縮まる。そうして驚いて仰ぎ見ると楽しそうな声が降ってきた。
「ねえ、折角だからデートしようよ」
言いながら、サンディアルトはフードを被りなおしながらフレディの手を引いて歩き出す。
「…え…? え!?」
一瞬何を言われたのか理解できなくて呆ける。そして一瞬以上遅れて言葉の意味を理解すると、もう疑問しかなかった。
なにがどう折角なのかわからなくて戸惑うフレディをまったく気にせず、返事も待たずに向かう足先は、先ほどの商店通りだった。
「久しぶりに陽の光を浴びられてうれしいんだ。少し付き合って!」
嬉しそうで楽しそうにサンディアルトは言うと、フレディを連れて市場に入っていった。
驚きすぎてサンディアルトの言葉の意味を疑問に思うまでもなく、その言葉はフレディの耳を通り過ぎていた。
そんなフレディを余所に、サンディアルトの足はもちろん止まることはなかった。
彼の事情はよく知らないが、こんな風に当たり前に市場にいていいわけないと思うフレディは、なんの躊躇いもないその行動に声を抑えて訴えた。
「ちょっと、いいんですかっ? バレたら騒ぎですよ、分かってます!?」
彼の事情を抜きにしても、もしサンディアルトが街にいると分かれば、彼の行方を捜している人間すべてが殺到する。そう確信するフレディは気が気では無かった。
そして間違いなく一緒にいるフレディが問い詰められるに違いない。
これは予言に近い予想であることは、そんな格好をしている時点で本人だって分かってるはずじゃないのかと文句を言いたいフレディは、自分の態度が不敬に等しいことに気付いていなかった。
けれどそれさえも楽しそうに受け流すサンディアルトは、フード口を額あたりで押さえながらちらりと振り返り、気取った仕草で片目を瞑って見せた。
「大丈夫、絶対バレないから」
何がどう大丈夫なのかさっぱりだが、二枚目はそんな顔も様になるんだなぁと引きつる頬に、フレディの頭は考えることを放棄しそうな一歩手前だった。
その自信は一体どこから来るのだと疑いたくなるほど自信満々に答えたサンディアルトは、フレディの焦りもそっちのけで一般市民に混じって露店を物色し始めた。
その様は堂々としていて怪しさの欠片も無く、本当にこの人はこの一年足らず人前から完全に姿を消して生活していたのだろうかと疑うほどのものだった。
そして、物品屋だったり果物屋だったりと数件回って見たけれど、フレディの不安を余所に驚くことに本当に誰も気付いていないようだった。
一見最初と同じようにしっかりと目深に被ったフードが怪しすぎるのではないかと思ったけれど、サンディアルトの巧みな話術と柔和な声音のおかげか、意外にも店の人も周りの人間も好意的だった。
(…そうか)
フレディはその時自分の思い違いに気がついた。
きっと彼が多くの人に慕われているのは、顔が良いからなんかではないのだと。
もちろん不審者に到底見えない爽やかなそれも大きいのだろうが、それが見えなくてもこうして街の人間みんなに慕われるのは、偏にその性格故なのだ。
勝手な価値観で人を見下さない、前向きで否定的な言葉を吐かず、有言実行。そんな彼は接していてとても気持ちが良い。
時には改善したら良い点を指摘するその時だって指摘だけでは留まらず、どうしたらいいのかを提案するところまでをきちんと口に出す彼との会話は、とても有益だ。
博識な彼の知識量は、ほんの少し接しただけのフレディでも容易に感じ取れるほど感嘆物で、彼と接する人間はその博識さにも引かれるのかもしれないと思った。
老若男女問わず彼の話に耳を傾けるのはきっとそういうことだ。
けれどきっとそれだけではない、人を引きつける何かが彼にはあるんだろうと思ったフレディはじっとその様子を見つめ続けた。
顔が見えなくても不審がられないその姿を見て、フレディはなんだか申し訳ない気持ちに苛まれる。
結局自分も、この人の表面しか見てなかったということだ。
自分が被った不利益なことはこの人の所為ではないと分かっているのに、この人にも非があるだろうという思いが、心のどこかに巣くっていた。
勝手に思い込まれることがどれだけ面倒で、ままならないことか身を以て分かっていたはずなのに。
そう思ったら、本当に申し訳なくて自分が恥ずかしかった。
「………」
さっきだって、あんなことを聞いたのはどこか意地の悪い気持ちがあったからだ。
品行方正と言われていたって、彼だって上流貴族だ。貴族の女が働くという事実に、いい顔なんかするわけないと思う気持ちがほんの僅かだけど確かにあった。
(…謝らないといけないのは私の方だ)
そこでふと、あの自分の落とし物を拾ってくれた日のことを思い出す。
あの日だってそうだった。
人の波に押されてどうしようもなく困っているとき、なんの躊躇いもなく手を差し伸べてくれたのはこの人だった。
あの時に彼がどんな表情をしていたかなんてもう覚えていないけれど、この人だけだった。この人だけが、自分の為に膝を付いてくれたのだ。
みんなが見て見ぬ振りをする中で、この人だけはそうじゃなかった。
そのことがすごく嬉しかったはずなのに、どうしてそれを忘れていたんだろうかと、少しだけ残念に思ったフレディはかけられた声にはっと我に返る。
「な、なんですか?」
「うん? だから、これとこれ、どっちがいい?」
そう言ってサンディアルトが掲げて見せたのは、何の変哲も無い鉄板だった。
「……えっと…なにに使うので…?」
「ちょっとね。強度重視だから見た目はどうでもいいんだけど」
手よりも少し大きいくらいの二枚の鉄板を前に本気で悩んでいる様子のサンディアルトに、なんだか意外なものを見た気分になった。
金に糸目など付けなくて問題ないはずの人がそんな風に悩んでいることがおかしくて、思わず大笑いしそうになった口を手で隠す。
そんなフレディにきょとんとした顔で首を傾げるサンディアルトに対して、フレディはその右手に持っている方を指さした。
「強度だけを見るなら、その右手の青いのがいいですよ」
「そうなの?」
「はい。それは鉄ではないですが、このお店の青銅は鉄にも勝るほどの強度なんですよ」
「へえ」
感心したように右手に持っている青鈍色の板に視線を持って行くサンディアルトは、何を思ったのかじっと見つめるその目を真剣な眼差しに変えていた。
「刃物にするには向かないかもしれませんけど、補強や修繕に使うならそっちのほうがいいですよ。錆びにくいですし」
「なるほど。詳しいんだね」
本当に感心したように紡がれた賞賛に、面映ゆくなったフレディはほんの僅かに頬を染めた。変に飾らない言葉は、どうしてこんなにくすぐったく感じるのだろうか。
「いえ、別に詳しいと言うほどでは…。いろいろ話を聞いている内に自然と覚えてしまっただけで…」
褒められるようなことではないと言いきる前に、店の中から出てきたこの店の主である親父さんが、笑いながらフレディの言葉を肯定した。
「おう、ふーちゃんの言う通りだ。ウチの青銅は他よりもいい品を使ってんだよ。値は張るが、その分は保証するぜ?」
中年にさしかかった顔は厳ついながらも、不思議と人好きしそうな空気を持っているこの人は店に来たフレディにいつもいろいろと教えてくれていた。
見た目に寄らずとても親切で、そのおかげでフレディも今では他よりも良い包丁を使っている。
にっと歯を見せて笑った店主はそう言うと、フレディを見て続けた。
「ふーちゃん久しぶり。元気だったか?」
「はい、お久しぶりです。親父さんもお元気そうで何よりです」
「…? 知り合いなの?」
未だ座り込んだまま二つの板を見比べていたサンディアルトが、頭上で交わされる言葉に顔を上げた。
それを見て答えたのは店の親父さんだった。
「おう、ふーちゃんはウチの常連さんだよ。最近ぱったりだと思ったら、まさかふーちゃんが男を連れてくるとはなぁ…」
本当に感心したように言うと、さめざめしながらもにやついた顔をするその様に、思わずぎょっとしてフレディは慌てて訂正する。
「そっ、そういうのではないですっ、断じて! 違います…!」
青ざめる勢いで否定するフレディは、その台詞に不服そうな顔をするサンディアルトにまったく気付かなかった。というか、顔なんか大半が見えていないのだから気付かなくて当然だ。
そんなフレディは必死だった。
そんな誤解をされた日には、そしてそれが露見してしまった暁にはどんな目に遭うか分かったものではない。またぞろ無数の令嬢に囲まれてしまうではないか。
周りの人間が、たとえ彼が他称天の使いだと気付いていないのだとしても、フレディのそれはあらゆる事象による条件反射だった。
サンディアルトが悪いわけではない。それは分かっている。
しかし、これはもう仕方のないことだと思うのだ。
だがそれを照れから来る否定だと勘違いした親父さんは、相も変わらずにやけた顔を崩さず言い切った。
「いやいや照れるなよ。いやぁ、あのふーちゃんがねぇ。いやいや、何があったかは聞かねぇけどな? まあ、あれだ。よかったな!」
何がよかったのか知らないが、喝と言わんばかりの勢いでバシッと肩を叩かれたフレディは、よろけるほどのそれに痛みを感じるより訂正を優先させた。
「ですから、こう…いやいや。サ…――いやいやいや! この人は…」
位も名前も呼べないこの状況に、一人で苦悶したフレディははたりと停止する。
この人は、なんだ。




