01
さんさんと日が照る中、フレディは俯きがちに活気づく街を歩いていた。
ギースの歯に衣着せぬ物言いのおかげか、気分は朝のキノコ事件のときと大分違って上を向いていた。
あんなに至らない部分を容赦なく突きつけられたのに、不思議と落ち込んではいなかった。そこも彼のすごいところかもしれないと思う。
今では、姉に言い返してよかったとさえ思えているのだから不思議なものだった。
確かに言い過ぎたことは謝るべき所だろうが、それはまた今度にしようとすんなり思えたことが、心が軽くなった証拠だろう。
それは偏にギースのおかげに他ならなかった。
今度、ギースにもお礼をするべきか考えながら市場を歩いていると、ふいに一人の人が目に留まる。
「…?」
その人はこの暑い中フードを目深に被っていた。
人の波に流されないしっかりした佇まいのその人は、濃い緑色のローブのフードを頭に被せている。あれでは絶対に前なんか見えていないと言い切れるほど目深に被ったフードの所為で、目元どころか顔の大半が隠れていた。
けれどその背は周りの人の頭一つ分ほど飛び出ていて、それだけでその人が男であることが分かった。
その姿を見た瞬間、フレディの胸になぜか言い知れない不安が過ぎった。
会いたくない人に会ったような、会ったことで平和が終わりを告げそうな…、上手く言い表せないが関わってはいけないと本能が告げていた。
危険人物に感じる違和感とは別物の不安を覚えたフレディは、そんな不思議な気持ちを少しでも静めようと胸のあたりを擦っていると、ふいにフードの男が顔を上げた。
「!?」
フードのせいで目なんか見えていないのだが、なぜか目が合った気がした。
瞬間、フードの下に見える口元がぱっと輝いたような楽しげな笑みの形に変わる。そして何を思ったのか人の波を避けるようにこっちに足を進め始めたようだった。
一瞬気のせいかと思ったけれど、距離が詰まるにつれてそれが事実であることが分かる。一応自分の真後ろに人がいないか、振り返って確認もしてみた後であるのだ。
しかし自分に向けられている意思だと理解した途端に、なぜか逃げなくてはと思ったフレディは、自分のその思考に従って回れ右をした。
飽くまで普通に、平静を装って、今来た道を引き返す。
店の建ち並ぶ通りは人通りが多く、夕刻前のこの時間は特に顕著だ。そんな中人の波に押されながら歩いていると、いきなり視界が陰った。
「――わっ」
走っていたわけでも急いでいたわけでもないのだが、足下ばかり見ていたせいで気付かなかった。その所為で、音もなくすっと前に出てきた人にドンッと盛大にぶつかってしまった。
態とかというほど半身どころではない面積で真正面に出てくるから、当然回避できるわけはなく。しかし結構な勢いでの体当たりだったにもかかわらず、その身体はぴくりともしなかった。
頑丈なその腕に肩を抱き留められたおかげで、跳ね返ることも転けることもしなかったけれどその瞬間、抱き留められた体制のままフレディはぴたりと動きを止めてしまった。
なぜなら、目の前のでかい図体から香った匂いには覚えがあったからだ。
ぱっと反射的に至近距離からその顔を見上げると、フードの下にあった顔が見て取れる。
布に遮られ陰の落ちるその顔には、あの日フレディに見せたのと同じ朗らかな笑顔があった。
「やあ、フレディア嬢。そんなに慌てると危ないよ」
そうしてフレディの肩を支えたまま、彼は素知らぬ顔でそう口にした。
その態度にフレディはなんとも言えない虚ろな目になる。
タイミング的に明らかに背を向けたのは態とだと分かっているはずなのに、穏やかに笑んだままそんなことを言うものだから、気まずい気持ちでいっぱいのフレディはちょっと青い顔で押し黙るしかできない。
そして、そんなことは取るに足らないことと思っているのかどうなのか、硬直しているフレディを特に気にする様子もなく、目の前の人――サンディアルト・ディリアは終始笑顔だった。
というか、明らかな距離があったのに、なぜ踵を返した自分の前になんでもない顔で立っていたのだろうか。回れ右をして十歩も歩いていないはずだ。
走った風でも慌てた風でもなく、ごくごく自然な装いなのが疑問でしかたないのだが。
そんなことを思っていると、いつの間にか手を引かれて歩を進めていたらしい。人の波から外れた場所まで誘導されていた。
その最中も崩れないその表情に、もうこの人の笑顔はパーソナルなのだと思うことに決めたフレディは、その口から発せられた言葉にぽかんとしてしまった。
「ごめんね」
「…は?」
サンディアルトは少しだけ逡巡した後に、困ったような顔でそう言ってフレディに謝罪をしたのだ。
けれど何のことか分からなかったフレディは、無意識に素っ頓狂な声が口から零してしまっていた。それはほとんど無意識の反応だったのだが、すぐさまはっと我に返る。
公爵様に向かってこの態度はないわ、と今度は別の意味で青ざめたフレディこそが謝ろうと思った時降ってきた微かな笑い声に、それは遮られてしまう。
「アリィに聞いたんだ。この間の夜会でも大変だったって」
「あ…」
「見つからないように気をつけたつもりだったんだけど…ごめんね、まだちょっとああいう場というか、人前に出るわけにはいかなくて…」
そうして彼が謝罪したのは、あの日その後どうなるか分かった上で姿を消さざるを得なかったのだということだった。
そういえば、とフレディはそう古くはない記憶を呼び起こす。
サンディアルトが人前に出なくなったという噂を、フレディが耳にしてからもう随分立つ。そしてそこには、いろいろ複雑そうな理由があったということを思い出した。
そこで目の前にいる人の姿を、改めて上から下へと眺める。
今日の出で立ちも、白いシャツの上に外套を羽織るだけというこれ以上ないほど軽装だった。その外套も深い緑色の地味なもので、人の目を避けたい心象の表れのような格好だと言える。
まあ彼の場合、普通に顔をさらしていればそんなの無意味なのだろうが、だからこそそこまで目深にフードを被っているのだろうと思った。
けれどそれだけでは彼の醸す、無条件で人の目を引きつけるほどの特別な雰囲気は払拭しきれないような気がするフレディは、やっぱり不思議な気持ちが大きかった。
なぜなら驚くほどに、その場に溶け込んでいたように感じたからだ。強いていうなら、フードを被って歩いていることを不審がられていたかもしれないが、誰も彼をサンディアルトだと認識はしていなかったようだった。
だから少し怪しくても、それを被っているのは正しい選択だと思ったフレディは内心納得していた。しかしこうも思う。
(普通の格好より不審者姿の方が穏便に過ごせるとはどういうことなの)
改めて彼の異常さが垣間見えた気がして、若干目が据わりかけてしまった。
まあそれで平和に事が運ぶならそれでも良いか、と自分の呆れた気持ちに蓋をしたフレディはもうこのことは考えないことにした。
けれどそんなフレディの心の内など知らないサンディアルトは、なんの躊躇いもなく被っていたフードを背中に落とす。
「………」
そうして顕わになった彼の顔を見て、フレディは僅かに目を見張った。
そこにはあの日見た光に煌めく鶸色も、青緑色の瞳も存在しなかったからだ。
真っ黒な髪に、茶の浮かない黒曜石みたいに真っ黒な瞳に変わったそれを見て、思わずぽかんとしてしまった。
ふわふわと風に揺れる緩く波打つ柔らかそうだった髪は、今は僅かにその痕跡を残しているだけですとんと真っ直ぐ下へ落ちている。ずっと見ていると吸い込まれそうになるような、不思議な色の目も今はその面影さえない。少し下がった目尻に縁取られた、温和そうな雰囲気だけが変わらずそこにあった。
それらの印象的な色と形が変わるだけで、こんなにも印象というものは変わるのかと驚いた。
言葉も無く驚いていると、知らず知らず促されて足を進めていたらしいフレディは、気がつけば市場の中にある噴水広場のベンチ側まで来ていた。
市場の通りが盛況する今の時間帯、この広場にはほとんど人がいない。そんな中足を止めたフレディは、変わらずじっとその顔を眺めていた。
確かにこれなら、一見してサンディアルトだと分かる人はいないかもしれない。顔の作りはそのままだが、彼の一番の印象といえばきらきらと光を受けて輝いて見える、その髪の色と、優しそうだけれど意志の強さを感じる青緑色の瞳が大きいのだ。
現にまばらではあるが広場の道を行く人たちは、この人が誰だかまったく気付いていないようだった。
右へ左へと周囲を一見したフレディは、この人と一緒にいてこんなになにもないことが新鮮で意外で、そして不思議だった。
そうして再び戻した視線の先で、顕わになったその顔に浮かぶ本当に申し訳なさそうな表情に、フレディはやっぱり意外なものを見る目で凝視してしまった。
次彼に会ったら、とりあえず逃げようと思っていた気持ちなんかいつの間にか吹っ飛んでいた。それほど驚いたのだ。
髪の色がどうとかではなく、立場も実績もこんなに立派な人がそんな些細なことで頭を下げるなんて思わなかった。それも自分の落ち度ではないことで。
なんだかこっちの方が申し訳ない気持ちになったフレディは、戸惑ったように否定をするしかなく少し気まずい思いで口を開く。
「そ、れは…、別に公爵様が謝るようなことでは…」
「ううん、今回だけじゃないよ。…君には本当に、申し訳ないことをしたと思っているんだ」
一体何のことをいっているのか、それでもサンディアルトは取ったままだったフレディの手をじっと見つめたまま、辛そうな顔でそう言った。
意味が分からないフレディは首を傾げるしかできなかったけれど、そんなフレディの顔色に苦笑したサンディアルトはぱっと話題を変える。
「そういえば、少し元気になった? だいぶ顔色がいいね」
「え、ええ、まあ…」
背中を押されて近くにあったベンチに座るように促されて、なぜか素直に腰を下ろしたフレディはさっきから疑問だらけだった。
なんで落ち込んでいたことを知っているんだろうかという疑問が過ぎったけれど、そういえばあの夜、みっともないところを見られたのだという事実を思い出して急に恥ずかしさが沸いてきた。
「…あの、あの時は助けていただいて、本当にありがとうございました」
恥ずかしさを誤魔化すように少し口早にお礼を言うと、サンディアルトはきょとんとした。
まるでそんな言葉が返ってくると思っていなかったかのような反応にフレディは首を傾げたけれど、すぐにいつもの穏やかな笑みに戻った。
その顔はすごく嬉しそうに見えて、フレディは思わず赤面する。
良い面で微笑む、というのはそれだけで凶器かと思ってしまったフレディはこれ以上その顔を見ていられなくて、不自然にならないようにゆっくりと視線を斜め下に落とした。
「どういたしまして。あれから変なことはないかい? 飼育所とか大丈夫?」
そんなフレディを余所にあれからどうだと問うその声は少し低くて、本気で心配そうにするものだから、思わずおかしくて笑ってしまった。
「イーサン様もそんなに暇じゃないと思いますけど。というか、公爵様。私の仕事のこと知ってたんですね」
「え? あ、ああ、うん。まあね。一応騎士団と騎竜団っておんなじ建物にあるし、基本的には協力体制だからね。それに、飼育員の問題は騎士団でも人ごとではなかったから…」
「ああ、そういえばそうでした」
サンディアルトの困ったような気まずそうな表情に、フレディの脳裏にある言葉が蘇った。
フレディが来なければ、豚箱はごめんだと押しつけあう騎士たちの中から誰かが選ばれていたかもしれないのだ。
彼らが飼育所を豚箱と呼んでいるのは周知のことだったけれど、上にいる人間からしてみれば部下がそんな暴言を吐いていた事実は恥以外の何物でもないかもしれない。
フレディはあまり気にしていないけれど、騎竜はこの国では重要案件だ。国政を担う人間や部署のトップは、そこに携わっている人間の名前くらいは知っていて当然だった。
フレディは裏口でもなんでもなく、正規の手続きをして雇われているのだから当然である。
フレディが不名誉に有名なことを除いても、サンディアルトがフレディの仕事のことを知っていても何ら不思議なことは無かった。
まあ、フレディの名前と顔が合致している事実をサンディアルトが持っていたということには驚いたけれど、考えてみれば数年前に一度顔を合わせたことがあるのだ。
けれどフレディが本当に気になったのはそこではなかった。
「…公爵様は――」
「ねえ」
それを聞きたくて口を開いた途中に遮られて、瞬時に口を噤む。それと同時にフレディは感じた驚きを霧散させようとぱちぱちと数回瞬く。
(…意外だ)
勝手な印象だが、人の言葉を遮るような人ではないと思っていた。
この前だって口ごもるフレディを急かすでもなく、きちんと自分から発言するまで待ってくれていたように思う。その顔に焦りや急かすような空気は存在せず、だからこそその行動が意外だった。
しかし、それほどまでに言いたいことがあったのだろうと思ったフレディは、その遮りを受け入れたのだが。
「なんでしょうか」
「そういえば自己紹介してなかったね」
「――は?」
いきなり唐突な切り返しに、今度こそ胡乱な目で無礼な態度を取ってしまった。
まあ確かに、面と向かって紹介された記憶はないが彼ほど有名ならば自ら名乗らなくとも知っていると思って会話をしていたところで、なんら不思議ではない。というか、そういう体だと受け取っていたのだが。
今更? という言葉が、きっと今のフレディの顔に書いてあったに違いない。
だが彼の不満はフレディの疑問とは違う、明後日の方を向いていた。
「だから俺の名前を呼んでくれないんだと思ったんだけど、違った?」
「………えっと」
特に負の感情もなくさらりと紡がれたその発言を、どういう意味に捉えたらいいのか分からなかった。
思わず、ひくりと頬を引きつる。
「……面と向かって自己紹介はされてないです」
どうしていいか分からなかったから、とりあえずそう答えてみた。
するとサンディアルトはうん、と一つ頷いて右手を左の胸に置いた。
そうして驚くほど綺麗な礼をすると、淀みなく言葉を紡ぐ。
「じゃあ改めて、サンディアルト・ディリアだ。今は訳あって代わりを務めてもらっているが、騎士団の副総長を務めている。君にはぜひ、親しみを込めてアル、と呼んでほしいな」
――何故。
だれもが天の使いだと称する笑みを浮かべたサンディアルトに相反して、ほぼ無表情だったフレディはまずそう思った。
このときのフレディは、サンディアルトの発言が意味不明すぎてその笑みに紅潮さえしなかった。寧ろさっきの赤面のほどが結構な勢いですっと引いていった。
無礼なのは百も承知で、何言ってるんだと言いそうになってしまったのだ。自分にそんな溢れんばかりの微笑みでそんなセリフを吐いて、一体何の得になるのかさっぱり分からない。
フレディだからそんな心配はないが、これがもしその辺の若い令嬢だったらどうする。きっと欣喜雀躍として、あることないこと触れまわっていることだろう。
その事実に彼自身は気付いていると思っていたのだが。
そしてどう発言していいか迷ったまま唖然として数秒、はっと我に返ったフレディは自分の方こそ名乗らなくてはいけない事実に気がついた。
知っている知らないの話では無く、礼儀の問題だ。サンディアルトが今自己紹介をするとしてくれたのだって、きっとそういうことだ。
そう信じて疑わないフレディは、本当はただ単純に彼がフレディに公爵様と呼ばれるのが気に入らなかったからだったなんてことは夢にも思わなかった。
立ったままだったサンディアルトに、向かい合う形で立ち上がったフレディは姿勢を正して、同じように礼を返す。
「…え、と、フレディア・アストメリアと申します。今はアリアディス様の下で、子竜たちの世話をしています」
一瞬どう名乗ろうか迷って、きちんとした名前を名乗ることにした。
偽るつもりでもなんでもなく、今自分はアストメリア家の令嬢としてではなく『フレディ』として騎竜団に所属しているのだ。どう名乗るのが正しいのか分からなかったフレディは、悩んだ。
たとえ騎竜団員だとしても自分はアストメリア家の人間だし、サンディアルトも騎士団の人間だが公爵家の人間だってあるのだ。無礼になってもいけないし、彼がどういう答えを望んでいるのかも全く分からなかった。
事実サンディアルトはそれらのことは全く気にしていないのだが、変なところで世間体を考えてしまうフレディは悩まずにはいられなかった。
心の内でさんざん迷った末、正式なものを選んで口にすることにしたのだ。
けれど礼節は、騎士団と騎竜団に共通する彼が取ったものと同じものを取った。
そもそも、騎竜団に所属している『フレディ』としての自分を彼が知っているのだとしても、どの家のどの人間かなどということを、数年前に、それもたった一度すれ違っただけで覚えているはずがない。
そう思うフレディは家名も名乗ったのだが、この展開に自分でも気付かないうちに混乱しているようで気付いていなかった。
さっきしっかり『フレディア』と呼ばれていたことに。
「うん。どうぞよろしく、フレディ」
本来取るべきなのはカーテシーなのだろうが、あえてそれではなく、こっちを取ったのは自分自身に対する表明のようなものだったけれど、サンディアルトはそれに難色を示すどころか、穏やかにそれも嬉しそうに微笑んだだけだった。
そうして当然のようにフレディ、と愛称を口にする。
下げた頭からでも嬉しそうな気配を察することができてしまって、その意外な反応にフレディは内心戸惑っていた。
(なんだこの状況は…)
今更感満載の状況に、とても腑に落ちない気持ちで心の中はもやもやでいっぱいだった。




