第59話 猪ディジーザー⑥
邪歯を生み出して、何かを始める。
邪歯を持つ者は、下手をすれば、人権を失うというのに。
息を呑む音さえ響く。
静寂——
だが、それは大いなる違和感だった。
「静かすぎるって、先生っ!」
「考察してる場合じゃないわね、秋人っ」
その言葉を合図に、秋人が扉を蹴り開ける。
透子、文、絵里奈、レイ、そして大平と紙凪も、張り詰めた空気の中で一斉に部屋へと踏み込んだ。
「鷲羽山先生ッ!」
最初に声を発したのは、レイだった。
だが、声は虚しく響くだけ。
そこに主の姿はなかった。
「やっぱ……空っぽかよ。逃げやがった」
秋人が舌打ちしながら部屋を見渡す。
そこは、徹底的に整理されていた。
考古学の文献も、発掘資料も、パソコン一台すら残されていない。
主が去ったあとの冷たい静寂だけが部屋を満たしている。
だが、それは逃げ出した後の散らかり方ではない。
必要なものをすべて持ち出し、痕跡を完璧に消し去った、極めて計画的な撤収の跡だった。
「先生……どうして……」
信じていた恩師の不在に、レイが呆然と立ち尽くす。
「邪歯を生み出す研究……。何も残されていない……?」
透子は息を吐いた。
その先で見つけた。
部屋の中央
不自然なほどぽつんと置かれた長机。
その上に、一つの物体が鎮座している。
金属製の複雑なフレーム。
無数の精密なダイヤル。
何かの骨格を模したような、異様な存在感を放つ機械。
「なんです? その……おもちゃ」
秋人が怪訝な顔で顔を近づけ、覗き込む。
しかしその隣で、透子の顔は険しく強張っていた。
「おもちゃじゃない……。それは、全調節式咬合器」
ひねり出すような低い声で呟く。
「全調節式……なんか。強そう。透子先生、それは」
秋人の問いに、透子は機械から目を離せないまま口を開いた。
「患者の顎の動き、噛み合わせの角度、関節の滑り……そのすべてを、三次元で完璧に再現・シミュレートするための、極めて精密な歯科器具よ。……しかもアドラーフリューゲルモデル」
「アドラーフリューゲル?」
透子の言葉に、秋人が首を傾げる。
すると、文がスッと歩み寄り、機械にセットされている石膏模型を覗き込んだ。
「知ってますよ、ボクはね。でも、アドラーフリューゲルは確かマニアックすぎて」
「無理もないわね。マウントをするから山を省いたの」
「マウント……それは」
「アドラーは鷲。フリューゲルは羽。そして山。つまり……鷲羽山先生が考案した咬合器。それが残されている……」
秋人は絶句した。
レイは既に声を失っているし、透子にも戦慄が走っていた。
つまり——
「鷲羽山教授が、自分がやったって、誇示してるってこと……かよ」
絵里奈と文が息を呑む。
逃げるなんて烏滸がましい。
証拠隠滅なんてお道化て嗤う。
「しかも全調節式を置いていくなんて、やっぱそういうことですかね」
この半年間。
彼らが拳を交えてきたディジーザーたち。
十二支の順番に現れたトリーテッドたち。
「調節って……シミュレーションだったってこと? しかも、全部……って」
秋人が、冷めた声で呟いた。
「今まで戦ってきたトリーテッドたちも、今外を走り回ってる猪の群れも……全部、鷲羽山が計算した、ただのデータ取りだった。この部屋が空っぽなのは、もう実験が終わったから……か」
「その通りよ……」
透子が、白衣のポケットの中で震える手を強く握りしめた。
「鷲羽山先生は、ここにいた。そして、この街そのものを巨大な試験場にして、ディジーザーたちの動きを完璧にシミュレートしていたのよ」
透子は、忌々しげにその冷たい金属の骨格を睨みつけた。
「全調節式は、自分の手のひらとでも言うつもり?」
それは、怒り。
すべてを完璧にコントロールし、自分たちを盤上で踊らせていた神を気取る恩師への
透子なりの、静かで激しい憤りだった。
「そんな……アタシたちの行動まで、計算されてたって言うんですか」
絵里奈が、信じられないというように両手で口を覆う。
だが、透子は冷たく首を振った。
「いいえ。全調節式は机上の空論よ」
その言葉に、文が小さく同意の息を吐き、絵里奈やレイまでもが静かに頷いた。
どんなに精密な機械であろうと、生体の複雑な動きや日々の微細な変化を完全にコピーすることなど不可能。
歯科医療に従事する彼ら専門家にとって、それは机上の計算に過ぎないという常識であり、共通の認識なのだ。
勿論、秋人たち素人は首を傾げる。
「どういうことだ」
透子は机上の機械から視線を外した。
秋人たちへと、そして窓の外の暗闇へと冷徹な眼差しを向けた。
「完璧じゃないのよ。人間も、咬合器も……神になんてなれない。誤差は必ず生まれるわ」
もぬけの殻の研究室に、金属製の器具が放つ冷たい光だけが反射する。
「鷲羽山はすべてを掌握したつもりで、次なる段階へ向かった」
文が頷く。
「でも、シミュレーションは決して完全じゃない」
「えぇ、そうね。でも——」
街の至る所からサイレンが鳴り響く。
空にはいくつかの報道機関のヘリが飛び交っている。
その様子を全員が窓から、そしてスマホから垂れ流されるライブ映像で見ていた。
残された猪の群れが、政府、自治体、歯科医師たちによって次々と鎮圧されていく。
「先生なら……いえ。鷲羽山も当然、それを知っている。だったら一体、何が言いたいの……」
透子の呟きが、サイレンの音にかき消されていく。




