第58話 猪ディジーザー⑤
透子の立てた大規模トリアージ作戦。
その裏で、秋人、レイ、文、絵里奈、そして先行して囮となる大平と紙凪は、夜の街をキャンパスに向けて疾走していた。
「非常事態宣言を。当たり前です。野生の獣が暴れてるんですっ」
背後には、彼らの動きをモニターで見守りながら、警察各所へ強引に指示を飛ばす透子が続く。
「こっちっすよー! ほら、猪のバケモン!」
「ウチらに追いつけるもんなら追いついてみろっての!」
大平と紙凪が、向上した身体能力を活かして裏路地を駆け抜け、次々と発生する猪ディジーザーたちのヘイトを集めていく。
狭い路地に誘い込まれ、猛烈な勢いで一直線に突進してくる猪の群れ。
その真正面から、枢木院の面々が一斉に迎撃に飛び込んだ。
「オラァッ!!」
先陣を切った秋人の拳が、先頭の猪の顎を強引にかち上げる。
バキィッ! と鈍い音を立てて、核である側切歯が正確に粉砕された。
「そこですわ!」
体勢を崩した別の個体の死角へ滑り込み、レイの銀色のステッキが閃く。
冷徹な一撃がピンポイントで牙を貫き、猪を地面に這わせた。
「……解剖学的に見れば、関節の可動域と強度は計算できる。ここだね」
文が冷静に猪の突進を躱し、すれ違いざまに手にしたチタン製の警棒を顎の側面に叩き込む。
技工士としての完璧な蝶番運動への理解が、最小限の力で正確に側切歯をへし折った。
「にゃははっ! 院長先生の言った通り、ここをポッキリいけばいいんですにゃ!」
絵里奈が身軽に壁を蹴って宙に舞い、遠心力を乗せた踵落としで眼下の猪の顔面を強打する。
乾いた破砕音と共に、また一匹が崩れ落ちた。
「……あのさ。なんで、突然。猫推し……?」
「えー。だって、アタシ。キャラが立ってないじゃんっ!」
「エリちゃんは、十分……。駄犬、後ろ……。あ、間違えた。横」
「文っ!てめぇ、絶対ワザとだろっ。普通に危なかったわっ」
秋人が殴り、レイが穿ち、文が砕き、絵里奈が蹴り飛ばす。
透子の推測通りに動く。
「——発砲? 駄目に決まってるでしょう。それでも邪歯担当? 歯科医院にも連絡して。根治じゃなくて、必ず抜歯するように——」
側切歯さえ失えば、猪たちは糸が切れた操り人形のように、倒れ伏す。
猪ディジーザー単体は、生まれたばかりで、ネズミディジーザーと大して変わらない。
「っていうか。マジで歯医者多いな」
「そうですのよっ! わたくしの為にも閉院なさってくださいな」
「やっぱりお嬢様じゃ……ない。あ……にゃ」
そもそも、絵里奈は動けるトリーテッドだ。
文も自らの力を操れる。
レイもそれは同じ。
秋人は素人だったが、今までの戦い、そして竜崎という極大の死線を越えてきた。
彼らにとって、意思を持たない猪たちは、もはや敵ではなかった。
「そろそろ、円の中……か?」
しかし、群れを蹴散らしながらキャンパスの正門が視界に入ってきたあたりで、秋人はふと足を止めた。
「どうしましたの、秋人。まさかもうバテたわけじゃありませんわよね?」
息一つ乱していないレイが振り返る。
だが、秋人は猪が倒れた轍を見つめ、微かに眉をひそめていた。
「なんか……違うんだ。手応えがない」
「手応え? それは生まれたばかりのディジーザーだからでしょう」
「っていうか。アイツら、俺たちを殺そうとしてるっていうより……」
文が手元のタブレットのGPS配置を見て、ハッと顔を上げた。
絵里奈も隣で、眼を剥いた。
円の中心を目指す計画だった。
円は大きく、その多くを警察に任せている。
「確かに……。アタシたちがずっと倒し続けてる……」
「だね。猪たちの発生地点、そして交戦したポイントを繋ぐと、円じゃなく、一本の線になる。ボクたちをキャンパスのある特定の場所へ誘導しているみたいだ」
そして。
キャンパスの正門の先。
暗闇に沈む敷地内で、ポツリ、ポツリと道標のようにいる。
猪ディジーザーたちが立ち尽くし、こちらを見つめている。
「……趣味の悪いお出迎えですわね」
レイが不快そうに目を細める。
「上等だ。案内してもらう手間が省けたってもんだろ」
秋人は首を鳴らし、その不気味な獣道へと足を踏み入れた。
◇
広大な敷地を誇るその国立大学のキャンパスは、異様な静けさと緊迫感に包まれていた。
整備された遊歩道の脇、鬱蒼と生い茂る木々の暗がり。
巨大な猪の姿をした異形たちが点々と身を潜め、赤黒い目を光らせてこちらへ睨みを利かせている。
だが、恐れることはなかった。
奴らの動きには奇妙な規則性があったのだ。
無秩序に群れて襲いかかってくるわけではない。
等間隔に配置された罠が作動するように、一定のラインを越えるたびに順番に姿を現す。
次は何処から来るのか、手に取るように分かる。
「右の茂みから来ますわ!」
「オッケー! そっち引くっすよ!」
大平と紙凪が危なげなく囮として立ち回り、飛び出してきた個体のヘイトを買う。
秋人たちはその隙を突き、極力戦闘を避けながらキャンパスの奥へ奥へと突き進んでいった。
深い茂みを抜け、冷たい水音を立てる小川の橋を渡る。
豊かな自然と学問の場が融合したこの広大な敷地も、今やただ不気味な獣道と化していた。
やがて、木立を抜けた先の視界が開け、一棟の建物が姿を現した。
ガラス張りを多用した、比較的新しめの研究棟。
だが、一切の照明が落ち、周囲の闇に沈み込むその無機質なシルエット。
自然豊かなキャンパスの中で完全に浮き上がり、どことなく墓標のような不気味な威圧感を放っていた。
「こんな建物。あったかしら」
透子が眉を顰める。
「最近建ちましたの。あの企業が来る頃だったわね」
警戒しながら建物の中へと潜入し、冷え切った静寂が支配する廊下を進む。
途中、一匹のイノシシが出て、文が苦も無く牙をへし折った。
そしてそれ以降は、ディジーザーは一匹もやってこなかった。
つまり、ここが最終目的地。
「嘘……この部屋は——」
キャンパスの奥深く、レイが突き当たりの重厚な扉の前で足を止めた。
「鷲羽山先生が、考古学の特別研究室として使っていた部屋……ですわ」
レイの声が震えた。
竜崎の上司と言えば、彼しかいない。
だが、心の底では信じていたかった。
そして、それは——
「……本当……なのね。遺伝子の研究……そして竜崎という考古学者」
枢木院透子も同じだった。
学生時代には准教授だった彼。
誰に対しても優しく、珍しいケースがあると手招きして、学生たちを集めていた彼。
どうしても結びつかなかった。
一つの点を除いて。
「mRNAワクチン……。先生は熱心だったわね」
透子の言葉に、レイが頷く。
「新型ウィルスの蔓延で、ハードルが一気に下がりましたものね」
「でも、そんなことが可能なの? 邪歯を持った人間なんて、殆どいないのに」
「それで竜崎だったのかもしれませんわね」
二人して立ち止まる。
部屋の手前。中は僅かに明るい。
猪ディジーザーの喧騒など、ここにはなかったかのよう。
秋人は怪訝な顔で、二人に聞いた。
「……って、竜崎? なんか、難しい話してるのは分かるけど。アイツって歯医者じゃないですよね」
「おそらく……メタファーですわね」
秋人が首を傾げる中、文が肩を叩いて、秋人が振り向く。
するとプス……と。秋人の頬に文のたおやかな指先が刺さった。
「子供かっ」
「ディ・アミコ……」
「は?」
秋人は面倒くさそうに、文の指を払いのけた……と思ったら、躱されて再び犬歯付近に指が刺さる。
「秋人の得意技。ケーナインガイダンス、犬歯誘導の提唱者」
「犬歯誘導。流石に覚えた。下あごの動きを犬歯がコントロールする。歯医者さんのかみ合わせの」
文は首を振る。
「いいや。提唱者は考古学者だよ」
「え……。そうだっけ」
絵里奈が軽く眼を剥いた。
また、いつもの枢木院の光景に、透子が院長としての自覚を取り戻す。
「そう。天然歯における咬合学、ナソロジーの始まりの一人。アルジェロ・ディ・アミコは歯科医師ではなく、考古学者よ。先生が竜崎を引き入れるには十分すぎるメタファー。何かを始める……という意味で……ね」




