第57話 猪ディジーザー④
ファンクショナルマトリクスセオリー。
例えば、脳が大きくなるから頭蓋が大きくなる。
例えば、舌が大きくなるから顎が発達する。
例えば、歯が存在するから歯肉、すなわち歯槽骨が発達する。
肺や筋肉にも同じことが言える。
機能が発達すると、それに併せて体が変容するという考え方だ。
そして。
大平と紙凪が足手まといどころか、立派な戦力になることが証明された。
「円と見えるほど……。数が多すぎるわね」
それを皮切りに、透子がこれまでにない規模の『治療計画』を立案し始める。
「……大平くん、紙凪さん。あなたたちのその機動力なら、意思を持たない暴走個体を引きつける囮役は、十分にこなせるわ」
透子が迷いもなく、二人に命令をした。
すると、秋人は目を剥いた。
「いや。こいつらに借金は」
「任せてくださいっす! 逃げ足なら昔から自信あるんで!」
「ウチも体力余りまくってるんで、ガンガンおびき出しますよ!」
「え?!」
二人の頼もしい返事に頷き、透子は自身のデスクの電話へ視線を向ける。
先ほどまで、市長や警察からの着信で狂ったように鳴り続けていた黒電話。
行政のトップたちが一斉に圧力をかけてきたという異常事態。
彼女は歯科医師という、院長という立場を思い出し、冷静に分析を始める。
「……流石に、私たちだけでこの街中の数をカバーしきれない。彼らの動きは分からないけど、警察のマンパワーだけは、大いに利用させてもらいましょう」
秋人が怪訝そうに眉をひそめる。
警察だって、枢木院に借金はしていない……はずだ。
「大丈夫なんすか? 警察の連中じゃ、化け物相手の戦闘なんて……」
「これだけ同時多発的に発生しているのよ。どう考えても『なりたて』としか思えないわ。なら、即時抜歯さえすれば元の姿に戻って助かるかもしれないというのは……秋人」
言葉を続ける透子だったが、秋人の耳には入っていなかった。
……なんでだ?
大平や紙凪、それに警察。
借金で首根っこを掴まれているわけでもないのに、命懸けの戦いに巻き込んでいいのか。
そもそも自分だって、借金を返すために戦っているはずなのに――
ぐるぐると迷いの渦に沈んでいた秋人は、「んんっ」というわざとらしい咳払いでハッと我に返った。
音の主である文の方を見ると、その隣で絵里奈がジト目でこちらを睨みつけている。
「秋人、聞いてる?」
「え?」
素頓狂な声を出した秋人に、透子が静かな、しかし射抜くような視線を向けた。
「何を迷っているの」
「迷ってない……っす。俺は、ほら、借金……がまだ残ってるから、言われた通りにするだけで……」
言い訳がましく視線を泳がせる秋人を前に、透子は小さくため息をついた。
「借金の残債の話……って。あれはあれよ」
そして、ふいっと顔を逸らし、どこかバツが悪そうにぽつりと言い放つ。
「……秋人が無茶しないように、態と残債を残した……だけ」
「は……?」
秋人は今日一番の勢いで目を剥いた。
文が「やれやれ」とばかりに呆れたように舌打ちをし、絵里奈が無邪気な笑声を上げる。
「へ?」
状況が飲み込めず、再び間抜けな声を漏らす秋人に、絵里奈が嬉しそうに身を乗り出した。
「院長はね、秋人に期待してるんだよ」
その一言が、すとんと胸の奥に落ちた。
自分は「白斗の代わり」として、首輪代わりに借金を背負わされているのだと思っていた。
だが、違った。
今の自分は単なる代用品ではなく、認められ、期待されているのだ。
一歩、階段を登ったことを自覚した途端、秋人の顔に隠しきれないやる気が満ちていく。
ニヤけそうになる口元を必死に引き締めた。
だが、その分かりやすすぎる態度の変化を文が見逃すはずがなかった。
「調子に乗るなよ、駄犬」
「うっさい、猿っ!」
「もうっ! 二人ともっ!」
即座に噛み付いた秋人と文の間に、絵里奈がぷりぷりと怒りながら割って入る。
そのいつものやり取りのおかげで、緊迫していた室内の空気がふっと和らいだ。
「コホン」
仕切り直すように、透子がわざとらしく咳払いをする。
「あなたが身をもって証明したはずよ」
透子の言葉に、秋人が少しだけ目を丸くする。
横にいた紙凪が、えへへと照れくさそうに笑った。
「ウチも、秋人さんに抜いてもらって助かりましたし!」
「そう。だから、殺す必要はない。牙さえ砕いて無力化できれば制圧できるわ」
透子はタブレットに映る発生状況のデータと、これまでの十二支の傾向を素早く照らし合わせる。
白衣の下で、冷静な医師の脳がフル回転していた。
「この発生規模……間違いないわね。街中で暴れているのは猪型の『ディジーザー』よ」
「ちょっと待ってくれ。なんでディジーザーって分るんすか? しかも猪って……」
秋人が問いかけると、透子は淡々と、しかし確信に満ちた声で答える。
「これだけ大量発生したなら、知能を保つトリーテッドではなくディジーザーでしょう。それに、私たちがこれまで遭遇してきた個体を思い出して。子から順番に現れて、竜崎は犬。十二支の犬まで来たの。そこまで来た以上、今回大量発生した個体は猪である可能性が高いわ」
「なるほど……猪のディジーザーの群れか」
「ええ。これまでのデータから推測するに、今回の猪型ディジーザーの核となっている邪歯は……恐らく『側切歯』ね」
「側切歯……」
すると隣で、古川絵里奈がニッと笑う。
やはりかわいい。紙凪さえ見惚れるほど、本当にかわいい。
「前歯の隣の歯だよ。ネズミの時と同じ。覚えてないの?」
「覚えてるかっ! 一番最初で、何も分からなかったころだぞっ」
「二人ともじゃれない。側切歯はもっともディジーザー化しやすいの。だからこそ狙える。そこをピンポイントで破壊して、大人しくなったところを警察に回収させる。あとは……」
透子はふっと、皮肉とも自信ともつかない笑みを口元に浮かべた。
「破壊した後の抜歯と事後処置は、手当たり次第に近くの歯科医院へ運び込んで。同業者にやってもらうわ」
「はぁ!? いやいや、普通の街の歯医者にそんな無茶な……」
「できるわよ。最初に言った通り、抜歯は保険治療と同じだもの」
秋人が駆け込んだ日から変わらない。
同じ顔で、でも違う視線で、透子は誇らしげに言った。
「それにこの国は、コンビニよりも歯科医院の数の方が多いんだから」
するとポン、と秋人が手を叩いた。
「なるほど。俺も多いと思ってたんすよ。四つ角全部歯医者とか。こんなこともあろうと……だったんすね」
その時、何処からともなく冷たいすきま風が吹き込み、薄暗い診察室の空気がスッと寒々しくなった。
「全く関係ありませんわね。そのせいで、わたくしの将来も大変なのですわ。ここだって、随分と寒々しいこと……」
「余計なお世話よ、小鳥遊先生? とにかくっ! どこで発生しようと、近くに必ず歯医者がある。……まったく、歯科医院乱立時代が、こんなところで不幸中の幸いになるなんてね」
透子の言葉に、文が呆れたように、しかし頼もしげに肩をすくめる。
秋人は「透子先生は、やっぱ院長だな」とニヤリと笑った。
「作戦は手当たり次第の鎮圧じゃない。あくまで俺たちの本命は、円の中心……総合大学のキャンパスってことだな」




