第56話 猪ディジーザー③
時代に取り残されたように古びた、枢木院の薄暗い診察室。
果てしない年月を吸い込んで濁った飴色に変色した、重苦しい木製の戸棚。
冷酷な光を放つ無機質なモニターに、住民の目が集まっている。
「円って? 警戒マップの?」
ブロロン……
裏手に据えられた旧式のコンプレッサーの音がまた響いた。
漏れ出る低く濁った駆動音が、地の底から這い出る化け物のうめき声のように響き渡る。
「それはどこからの情報なのよ」
小鳥遊も身を乗り出す。
「枢木院と市と……」
「それから警察から」
「そうなんです。全部を合わせて見たら、綺麗な円が描かれてて」
「その意味が分からないってこと、だよ」
小鳥遊レイが、スマホを見やる。
円は異変が起きた場所。
それが示すのは——
「発生地点を結ぶと……巨大な円を描いている……ということですの? 偶然ではなくって?」
「勿論、偶然かもしれないね」
「そう、それなら……と言うと思いますの? ディジーザーを生み出していたのは、竜崎なのでしょう?」
「でも……現れた。しかも複数……」
文は険しい表情で地図の中心点をスワイプして拡大した。
「……円の中心は。ここじゃないみたいだね」
文が指し示した。
今までの流れ、それは『竜崎が犬』
飼い主が別にいた、という話。
連想するのに難くない。
「でも……刃神大学西キャンパス……でもない。なら……」
「大学病院に教授はおりますのよ」
透子やレイが無意識に「聖域」として疑わなかった場所。
医学部や鷲羽山教授の研究施設がある、西刃神市ではない。
少しだけ、安堵の息が混じる。
絵里奈は少し目を伏せて、静かに言った。
「この医院からも目と鼻の先にある……こっち側の同じ大学です」
「しかも、バイルロン社と共同で研究してる施設があるのもこっち……ですよ。透子先生」
文の言葉からは、透子への一切の同情が消えていた。
空気が冷えていく。
秋人はソレを嫌った。
息を切らせて突っ立っている、二人の闖入者へ視線を向けた。
これだけ世界がひっくり返りそうな緊迫した状況だというのに、心底呆れたように顔を顰める。
「いや、ちょっと待て。お前ら、なんで平然と走り回ってんだよ」
「はぁ……。今は現実を」
文は冷たい視線を送るが、秋人は違っていた。
楽観的にも見える顔で、文を敢えて無視してみせた。
「こっちの現実は? お前ら、学生街住みだろ。その走ってきたっ!みたいな顔はなんだよ」
文は再び、秋人の胸倉を掴まんと立ち上がろうとした。
でも、それを絵里奈が止めた。
彼女は空気の入れ替えとばかりに、いつものにこやかな顔で言った。
「確かにっ! タクシーから爆走して来たんですか?」
すると首を振る二人。
「気付いたら、ここにおったっ!多分……」
「走ってきたっす。チャリで来たとか、ほんとは言いたかったっすけどっ」
「言いたかったんかぃ……。だったら、おかしくね?」
「ですよね。アタシだって軽自動車使ってるのに」
絵里奈は首を傾げた。
文は軽く息を吐く。
「ま……そうだね。ボクもバスだし? 走ってきたって、君たち凄いね。まるでトリーテッドだ」
「はぁ? っていうか。大平は封印したんだろ。それに紙凪に至っては邪歯を抜歯したじゃん」
文の声もいつもと同じ。
そして、秋人の至極真っ当なツッコミ。
大平は「あ、いや……」と照れ臭そうに、坊主にした頭を掻いた。
「そうなんすよ。でも、なんかめちゃくちゃ走れちゃうんすよね。外は化け物だらけでしたけど、ひょいひょい避けられたっていうか。前みたいに無限に羊毛出したりとか、そういう化け物じみた真似はもうできないっすけど」
「ウチもです! なんかめっちゃ運動神経よくなりました!」
紙凪もピンと背筋を伸ばし、なぜか誇らしげに両手でピースサインを作ってみせる。
絶望的な包囲網の中で繰り広げられた、あまりにも場違いで弛緩したやり取り。
「これはどういうことなんでしょう……」
「だねぇ。秋人、不思議だねぇ」
「あぁ。これじゃあまるで……って、お前ら……」
気の抜けた会話が、変える。
「ボクもそんな詳しくないよ。エリちゃんは」
「アタシもです。これ、どういうことなんですか、院長っ」
追い詰められかけていた透子の心を、ふっと『歯科医師』のそれへと引き戻す。
「……そう……ね。封印後のことは記録通り。でも、紙凪魅兎さんにも同じことが起きるなんてね」
透子は組んでいた指をゆっくりと解き、眼鏡のブリッジをスッと押し上げる。
その瞳には、動揺やしがらみは消えていた。
冷徹で探求心に満ちた分析の光が戻っていた。
「あくまでも裏社会の噂レベルで、まともな臨床データはないけれど……」
「説明って、牙抜きの……」
「牙抜きの言い伝えにもある。でも、今の医学なら説明できるのよ。十分にね。小鳥遊『先生』はお分かりかしら」
流れが——変わる。
医師は、歯科医師は、患者と同じ目線であるべきか。
心情的にはそうあるべき、かもしれない。
これは賛否が分かれる話だ——が、敢えて言う。
この一点において、絶対に違う。
医師は、先生と呼ばれる存在なのだから。
「当然ですわね。——『機能的マトリクス理論』で説明がつきますわ」
二人にとっての先生、鷲羽山への想いが薄れていく。
ここにいるのは、先生に教えを乞う患者たちだ。
小鳥遊『先生』が口にした聞き慣れない専門用語に、秋人が眉根を寄せる。
「マトリクス? なんだよそれ。俺たち、いつの間に電脳空間にでもダイブしてたのかよ」
ペシッ!
すかさず、横から絵里奈の容赦ない手刀。
猫がわんこの後頭部を的確に叩いた。
「痛っ! なにしやがる絵里奈!」
「SF映画じゃないんですから、少しは真面目に聞いてくださいにゃ。マトリクスって、なんのことにゃ?」
透子は白々しい猫に、軽いジト目を送った。
そしていつもの顔で、肩をすくめる。
「歯科矯正学でよく登場する言葉よ。成長は骨そのものが決めるんじゃない。周囲の筋肉とか、機能の働きが骨格の成長を促す……という考え方よ」
「成程。つまり骨が先じゃなくて、機能が先っていうか……でしたっけ、透子先生?」
猿——文もそれに乗っかった。
流石に秋人は半眼で、二人をみやる。
「……お前ら」
そんな秋人に、絵里奈は「にゃはは」と耳をかいて誤魔化すように笑う。
そのやりとりに、透子の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「文の言う通りよ」
透子は静かに立ち上がり、純白の白衣の裾を翻した。
その佇まいは、政治の圧力にも、巨大な敵の包囲網にも屈しない。
完全にいつもの『枢木院院長』の威厳を取り戻していた。
「元々、邪歯に関するデータは極端に少ないの。でも、異常な力に適合するために筋肉や神経が再構築された結果、原因である牙を取り除いた後でも、その『機能の向上』だけが肉体に定着している」
「そうとしか、考えられませんわね。わたくし自身も体験しておりま……」
猫の瞳が怪しく光る。
「あーーー! そっかっ!鳩胸っていうしっ!」
「な……。違うますわっ! 小鳥遊家は巨乳で財を成した一族ですのよっ」
あの竜崎も纏っていた、形は違うが一張羅を着たまま。
小鳥遊レイは胸を張った。
「巨乳で財を成すって……どんな一族だよ……」
十二支は、今のところ犬で止まっている。
だったら、最後の一匹がいる。
「小鳥遊先生の話はさて置いて、枢木院から追い出され、願禅寺に行ったトリーテッドが傭兵稼業で財を成したのは、確かだけれどね」
ある意味でラストバトル。
ラストに向けてのメンタルコントロールが完了した。
その流れを作ったのは、間違いなく彼——
絵里奈は少し嬉し気に、新しい相棒の横顔を見つめた。




