第55話 猪ディジーザー②
昭和の面影を色濃く残す枢木院の診察室。
年月を経て飴色に変色した重厚な木製キャビネット。
無骨でひんやりとした金属製の医療器具が所狭しと並んでいる。
裏手に設置された古いコンプレッサー。
その低いモーター音が、時折化け物の唸りのように響く。
ユージノールとクレゾールが混ざり合った特有の消毒液の匂い。
黄ばんだ壁紙から革張りの診察台の奥深くにまで、数十年の歴史として染み付いている。
最新鋭のスマートな設備とは無縁の、どこか時代に取り残されたようなこの古臭い歯科医院。
「電話でも確認いたしましたわ。この街にはおりません。それに……それに……」
しかしここが、この街の「闇」を治療するための最前線でもあった。
「こっちの本キャンパスにいないってのは、本当に関係あるのか?」
「ととと、当然です」
「でもさ、思い出してみろよ。小鳥遊がここを狙ったのは、俺の周りで起きていたから、怪しいと思った」
「そうですわよ」
「で、そのディジーザーとトリーテッド……。そのほとんどが刃神大学の生徒だぞ」
「…………それは」
秋人が放った一言が突きつけた冷酷な事実。
診察室を照らす無影灯の白々しい光よりも鋭かった。
それは、透子やレイの心に無意識に根を張っていた『聖域』という壁を照らす光でもあった。
重苦しい沈黙。
それを破ったのは、意外にも文だった。
「秋人に……駄犬に賛同したくないけど、ボクも同感だね」
「なんで、言い直したぁ?」
返事せず。
タブレットを忌々しそうに操作しながら、文が静かに口を挟む。
文は確かに、白斗を殺した存在を憎んでいた。
でも、透子やレイとは違い、大学の権威や特定の教授陣に思い入れを持たない。
「言い直してない。秋人と書いて駄犬と読む」
「読まねぇよっ!」
あくまで冷徹なデータに基づく解析者として、犬猿の仲である秋人の不敬な直感を肯定した。
診察台に浅く腰掛ける秋人は、文の同意がもたらした波紋を、ツッコみながら観察した。
「でも。ボクは透子先生の考えを優先するけど」
文も小さくため息をつき、この場を様子見る。
ソファで不機嫌そうに脚を組み直し、沈黙するレイ。
デスクの奥で組んだ指に顎を乗せ、眼鏡の奥の冷徹な瞳で何かを見つめて、微動だにしない透子。
その氷のような透子の態度に
絵里奈が言いにくそうに、一言付け足した。
「あ、アタシも先生に従います。……でもえっと。眼鏡の小学生の探偵が、疑いたくないところも疑うって言ってたような……」
少しお道化たその声が、空気を和ますことはなかった。
透子とレイが無意識に守ろうとしている聖域を、容赦なく叩く響きを持っていたからだ。
「で、でもでも。これでもう事件が起きなかったら、秋人が杞憂民だっただけ……なのだ」
「エダマーメンっ!」
「だって」
絵里奈のあの明るさが通じない。
更に空気の重みが増したかのような、息苦しいほどの静寂。
「た……確かに。俺の聞いたのって、あいつなりのブラフだったのかもしれないし」
「駄犬はそいつが見抜けないからね」
「うるせぇ、猿山」
「鍵ヶ原だ。っていうか誰。山で走ってな、無駄犬」
実際そう。
起きたことを並べると、そう。
白斗のことで、竜崎への復讐は終わった。
その竜崎が暗躍していたのは間違いない。
だから、何もないなら、それで——
ジリリリリリッ!
だが、それを。
暴力的に打ち破ったのは、透子のデスクに置かれた古めかしい黒電話だった。
◇
深夜の歯科医院。
不釣り合いな、けたたましいベルの音。
透子が弾かれたように受話器を取った。
「……はい。枢木院です。……市長?」
固まった空気。
まだ、耐える。ここまでならば。
「ええ、竜崎の件は先ほど……」
でも——
「……は? 今すぐ市役所へ? いえ、今はくだんのディジーザーの事後処理が……」
透子の凛とした声に、明らかな困惑が混じる。
その直後、今度は壁際にいた文の専用端末が反応した。
警告音のようなけたたましい電子音を上げた。
「……警察署長? なぜ直接、ボクの回線に……」
「は……? なんで、文が警察署と……技工所だろ?」
すると小声で、猫が囁く。
「文くんち。技工所だけじゃなくって、ご家族が」
「マジかよ……。あいつ、自分で返したとか言って」
「それは本当だよ? 文くんのセラミック、すっごい自然だし」
文の顔が険しくなる。
仲良しのエリに対しても、指を一本立てて、静止させる。
「え? 現場の完全封鎖を手伝ってって? ちょっと待って。状況が整理できていない……」
さらに、ソファに座るレイのスマートフォン。
ローテーブルの上で、狂ったようにバイブレーションを鳴らし始める。
「……なんなんですの。……はい? 口腔外科教室……? 丁度良いわ、アナタ……え? 消防局から? 総合大学の事務局からも? 」
市政、警察、消防、大学組織。
見えざる巨大な何かが動いているのは間違いなかった。
権力の手が、枢木院の主要な面々を無理やり引き剥がそうとしているのか。
それともただの偶然か。
あまりにも異様で露骨なタイミングでの同時連絡だった。
秋人が包帯の巻かれた拳を苛立たしげに握り直した。
その時、デスクの隅で都市の異常波長モニターを監視していた絵里奈が、悲鳴に近い声を上げた。
「ちょっと……院長、皆さん! 頭がおかしくなりそうですにゃ!」
「なんだよ。またいつもの小競り合いかよ……」
「『また』じゃないです!」
秋人の呆れたような声を、絵里奈が血相を変えて遮った。
彼女が見ているのは、枢木院専用の端末。
例の竜崎の捜索に使われたタブレット、そしてデスクトップPCだ。
飄々とした、いつもの猫かぶりの口調は完全に消え失せた。
画面を叩く指が微かに震えている。
「全部ですっ!」
「全部って……」
「全部、違う場所なんです!複数……あっちもこっちも、反応が止まりません!」
ガラガラッ!!
絵里奈の絶叫。
同時に、診察室のガラス製の自動ドアが開かれた。
終わったばかりで鍵は掛かっていなかったからか、勝手に開いた。
いや、スイッチは切っている。
つまり——
「た、大変なことになってるっすよ!!」
外部の人間が入ってきた。
転がり込むように駆け込んだのは、息を乱し、汗だくになった大平洋と、顔面を蒼白にさせた紙凪だった。
「街中が、あっちもこっちも化け物だらけだ! もう手に負えねぇっす!」
大平の悲痛な叫びに、文が即座にスマホからの話を打ち切る。
絵里奈が覗き込む、モニターに向かって目にもとまらぬ速さで移動した。
「文くん、発生地点の特定を手伝って!」
「分かってる。でも、これって」
そこで、透子が受話器を強引にガチャンと切った。
カツカツと、ディスプレイ前に歩み寄る。
「一体……どういうこと」
高速でタイピングされる硬質な音が響く。
タブレットに表示された『刃神市』の市街地図。
「ボクにもさっぱり」
「えと……。さっぱりでは」
そこに、ディジーザーの発生地点を示す赤い警告灯が次々とプロットされていく。
その血の飛沫のような赤い点の分布を見た瞬間、文の指がピタリと止まった。
「勿論、図形の意味は分かるよ。——綺麗な円だね」




