第54話 猪ディジーザー①
サイレンの音が、次第に数を増す。
耳を塞ぎたくなるほどの、けたたましさとなって廃工場を包み込む。
やがて、赤と青の無機質な回転灯の光が、崩壊した壁の隙間から情緒なく射しこむ。
踏み込んできたのは、特殊な装備に身を包んだ警察の処理班だった。
彼らは、すり鉢状に陥没した床の底に横たわる竜崎の半獣の巨体を見た。
見たとしても、特に驚く様子は見せない。
手慣れた手つきで周囲を封鎖し、証拠の保全を行う。
そして巨大なストレッチャーを持ち込んで、竜崎の身体を無造作に転がし乗せる。
これは、いつもの『ディジーザー事件』の事後処理と全く同じ光景だった。
そこに命に対する敬意も、感情もない。
ひどく事務的で、粛々とした手つきで現場の『片付け』が進められていく。
「白斗さんの……」
「……うん。やっと……仇を」
とは言え。
二人には違う光景に見えていた。
そして秋人には何も言えなかった。
第一、願禅寺白斗を知らないのだ。
「……」
秋人は、絵里奈から簡単な応急処置を受けた体を無理やり起こした。
二人から離れながら、運ばれていく様子をぼんやりと見つめていた。
先ほどまで、世界の理不尽に対して命を燃やし、吠え猛っていた男。
だが、厚く冷たい防護シートでぐるぐると覆い隠されていく竜崎の姿。
彼に、アレに。
狂気じみた熱はもう微塵も残されていない。
巨大な『危険な物体』として、あるいは処理すべき『廃棄物』として、流れ作業のように運ばれていく。
そのあまりにもあっけない、冷たい現実。
「……死んだら。人権が無くなる……」
秋人の口から、カラカラに乾いた声がこぼれ落ちた。
完全にシートに包まれ、パトカーの列の向こうへと運び出されていくかつての強敵の姿に向けて。
誰に聞かせるでもなく、ただその事実を噛みしめるように呟く。
「なんで……捨てた……?」
赤と青のサイレンの光が、泥と血にまみれた秋人の虚ろな顔を、むごたらしく照らし出していた。
◇
血と泥とコンクリートの粉塵にまみれた廃工場。
そこから一転。
枢木院の診察室には、いつもと変わらない。
無機質な消毒液の匂いと、白々しいほどに明るい蛍光灯の光が満ちていた。
秋人は診察台に浅く腰掛け、全身の骨が軋むような痛みに耐えながら、ぼんやりと白い床を見つめていた。
「秋人、染みるよー」
その傍らでは、絵里奈が慣れた手つきで秋人の創傷の再消毒をこなし、真新しい包帯を巻き終えたところだった。
部屋の隅のソファには、レイが不遜な態度で深く腰掛けている。
長い脚を投げ出し、満身創痍の秋人を気遣う素振りなど微塵も見せない。
いかにも不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……結局、これまでの騒ぎの裏で糸を引いてたのは、あのデカブツだったってわけですわね。しかも、ご丁寧にこの枢木院をピンポイントで狙って。反吐が出ますわ、野蛮な」
「そう……だね。事実としては、そうなるね」
壁際で腕を組んでいた文が、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「十二支を冠するトリーテッドたちを次々とけしかけ、ボクたちの戦力を削り、最終的に枢木院そのものを潰す。組織の首魁としての行動目的は、一応の筋が通っているよ。戦略としては実に凡庸で退屈な筋書きだけどね」
デスクの奥では、院長である透子が調べている。
持ち帰られた報告データと、厳重に封をされた保管ケースを、冷徹な双眸で見定めていた。
絵里奈と文が引き抜いた竜崎の巨大な犬歯が、光沢を失わないまま収められている。
「……そして、兄さんを殺した男は……死んだ……のね」
秋人だけが、その会話の輪に入ることなく深い沈黙を守っていた。
自滅を選んだかのような竜崎の最期。
そして最後に残した「二君に仕えるつもりはない」という言葉。
その拭いきれない違和感が、胸の奥で、いや犬歯の奥で唸っていた。
◇
秋人は瞑目する。
あの男との戦い、どう見たってアッチ側の自滅だった。
そして、戦ったから分かる。
願禅寺白斗を殺したのは、あの男だ。
それだけはハッキリと分かっていた。
パンっ!
秋人の手当てを終えた絵里奈だった。
わんこの背中を、軽く打ち鳴らした。
「――これで悪玉はいなくなった……んですよね、院長? 枢木院の平和は守られた、ってことでいいんです——にゃ!」
絵里奈の努めて明るい声。
絵里奈と文、二人が頷いた。
二人にとって、大事な人。そして透子にとっては——
透子の兄を殺した、竜崎大地が死んだのだ。
「そう……ね」
診察室の白い壁に虚しく反響する。
絵里奈は少し、切ない眼を秋人に向けた。
——その時だった。
「……でも竜崎は、ただの駒だった」
ポツリと。
けれど、その場にいた全員の鼓膜を弾くような言葉。
漸く、秋人が口を開いた。
「は?」
レイが投げ出していた脚を止め、不機嫌そうに細い眉をひそめる。
文は眼鏡を押し上げる指をピタリと止めた。
透子もまた、デスクに落としていた視線をゆっくりと秋人へと向けた。
診察室の温度が、一気に数度下がったかのような錯覚を全員が覚える。
「ちょっと、秋人? 冗談はやめてくださいよ。あの人狼が首魁だったって、文くんの調査でも……。っていうか、洒落になってないって」
でも、秋人は魂が抜けた顔で続ける。
「アイツは、最後……わざと牙を抜かせた。お前達を煽って……」
秋人は包帯の巻かれた自分の左手を見つめた。
竜崎の犬歯を脱臼までさせた感触が、まだ掌の奥にこびりついている。
ガシッ
秋人の胸倉が掴まれる。
「白斗さんの仇だ。それにディジーザー化していた」
「竜崎自身が自白したんですよ……」
正に白い眼が刺さる。
秋人は慌てて、首を振った。
「それは……分かってる。アイツが殺したのは間違いない……し」
「秋人? 何が言いたいのかハッキリ言いなさい。アナタが狙われて、返り討ちにしたんでしょう?」
そして、透子。
「俺は勝ててない……っていうか。最後、あいつは自滅しに来たんだ。……じゃないよな。透子先生。先生のお兄さんはアイツが間違いなく殺した。でも……」
「でも……?」
「……あいつが最後に言ったんだ。『二君に仕えるつもりはない』って」
秋人の言葉に、透子の目が見開かれた。
文が短く息を呑む音が聞こえた。
絵里奈の顔面が蒼白になるのが見えた。
「二君……? それ……」
「自分が犬ってのも、やけに強調してた」
「……秋人。一体、何が言いたい?」
文の、いや全員の空気が変わった。
透子は牙抜き。他全員がトリーテッド。
場合によっては、話し方によっては、殺されて、法の外で捨てられる。
そんな悪寒さえあった。
だが、秋人は怯むことなく、むしろ確信に満ちた瞳で言葉を返した。
「レイ。お前がここを襲ったのは、ディジーザーの頻発の黒幕探しだったよな」
話を振られたレイは、ソファで居丈高な姿勢を保ったまま、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……そうですわ。この『刃神市』を中心に、浄化すべき不浄があまりに蔓延りすぎているんですもの。その源流がここだと思ったからこそ、私は……」
「……だったら、もっと疑うべき場所があるだろ」
秋人のその一言は、レイだけに向けられてはいない。
透子までもが、ハッと息を呑み、言葉を失った。
診察室を支配していた論理的な「事後評価」が変わる。
秋人の放った一石によって粉々に砕け散る。
静まり返った室内で、レイが震える声を絞り出した。
「……まさか。西キャンパスに……いるらっしゃるのよ。そんなわけ、ありませんわ」




