第53話 犬トリーテッド⑧
竜崎の飼い主、白斗の残像。
知りたいことはまだまだあった。
だが会話は、そこで完全に途切れた。
ガチンッ!!
秋人が一瞬前までいた空間を、巨大な顎が噛み砕く。
鉄と鉄が激突したような、鼓膜を劈く異様な咀嚼音が廃工場に響き渡った。
「あっぶね。俺もだけど、お前もだぞっ」
もはや言葉の応酬など入り込む余地はない。
竜崎は両腕の暴力を捨て、完全に四つ足の獣と化して秋人を追い回す。
狙うのはただ一つ、秋人の喉笛をその牙で喰いちぎることだけ。
「もはやディジーザーじゃん。その前から、お前は俺に勝ってた……だろ。意味が分かんねぇ」
秋人は泥まみれの床を転がる。
這いずり、迫り来る巨大な死の牙から必死に逃れ続ける。
トリーテッド――『邪歯』を宿す者。
己の歯を直接、物理的な打撃や破壊行為に用いることは、文字通りの自殺行為だ。
邪歯は異能の源泉であり、同時に最も繊細な「急所」だ。
「牙を抜かれるのが先か、俺が食い殺されるのが先か」
邪歯そのものが欠けたり、砕けたりすれば、術者の脳髄へのフィードバックは計り知れない。
最悪、異能の暴走を引き起こし、自らの肉体ごと崩壊しかねない。
所謂、ディジーザー化は免れない、危険すぎる行為なのだ。
だが、竜崎にはその躊躇いが一切なかった。
空ぶった牙が、秋人の背後にあった太い鉄柱に深く食い込む。
メキィッ、と嫌な音が鳴る。
竜崎の顎が鉄の塊を飴細工のように容赦なく引きちぎった。
同時に、彼自身の牙からも、限界を超えた負荷によるミシミシという骨の悲鳴が聞こえてくる。
己の牙が削れ、砕けることなど微塵も気にかけていない、正真正銘の「狂犬」の戦い方だ。
「止めろって……ッ!」
秋人の背筋が凍る。
これはただの戦闘ではない。
竜崎は、自身の命を削ってでも、本気で秋人と刺し違えようとしている。
会話が止まった沈黙の空間。
ただ肉を裂こうとする牙の音。
間一髪で躱す秋人の荒い息遣い。
その意味を、秋人は考えるだけの余裕がなかった。
◇
夜中に激痛が走り、歯医者に行った。
借金を背負わされて、巨大なげっ歯類と戦った。
大学で牛が暴れて、ボーナスというので囮役を引き受けた。
学生街で虎が暴れて、ボーナスが出ると言うから、トラ退治をした。
そこで全員が人間だったと知った。
ディジーザー化しかけた紙凪魅兎と出会ったのはその後だ。
刃神山にアロサウルスが現れ、西刃神市に蛇トリーテッドが現れた。
その後は巨大な馬。そして大平洋。
「大平は封印……だっけ。定着しすぎて、抜いたら絶対にディジーザー化するって。魅兎は……助かった。魅兎はディジーザー化しかけて、直ぐだったから……?」
その後、猿である文。鳥であるレイが来た。
そして透子は言った。
絶対に、死ぬな、と。
竜崎の巨体が、秋人を喰らい尽くそうと最後の大口を開けて宙を跳んだ。
自身の命すら投げ打つような、その破滅的な突進に、秋人は思わず叫んでいた。
「馬鹿っ! そんなことをしたら死ぬぞっ!」
邪歯を物理的な破壊行為に使えばどうなるか。
竜崎が自分の命を削り、本気で刺し違えようとしていることが、秋人の目には痛いほどに分かった。
その狂気に彩られた極限状況だ。
だが、皮肉にも秋人の脳内で、カチリと何かのスイッチを噛み合わせた。
爪や拳を捨て、対象の『牙』そのものが剥き出しの殺意を持って迫り来る状況。
「要するに……俺も学んだってことだ」
秋人の内に眠る本能。
邪歯の軌道を正確に捉え、顎の動きを支配する。
「剣士游道——であってたっけ」
虎や蛇のトリーテッドが持っていた規格外の巨牙に比べれば、それは小さい。
だが、それでも常人の首を容易くへし折るほどの、強靭で鋭い人狼の犬歯。
猛スピードで迫る竜崎の牙が、秋人の体に触れる。
そこから滑る——
「……見える。掴める」
回避行動を捨て、秋人は自らを、死の顎のど真ん中へと導く。
上下の牙が断頭台のように閉じる、コンマ一秒前。
秋人の無傷の左手が、竜崎の右上の『犬歯』をガッチリと鷲掴みにした。
「……!?」
何が起きたのか理解できず、空中で竜崎の獣の瞳が驚愕に見開かれる。
だが、秋人の動きは止まらない。
巨大な獣の突進力、その全てが乗った大質量。
「からのっ!」
秋人は真っ向から受け止めるのではなく、己の身体をコマのように反転させる。
そして、『完全なる同調』から少しズレさせた。
犬歯辺りを掴んだ左手を支点にし、己の背中に竜崎の巨大な胴体を乗せる。
柔道の基本にして究極の形。
「つまりっ! 団体競技ッ!!」
肺が破れんばかりの渾身の叫び。
秋人は相手の突進力を、100パーセント利用した『一本背負い』
いや——
「ここは日本ぜよぃ!」
新技を突然、放った。
勿論、力学的には変わらない。
獣の巨体が、秋人の背中を滑るようにして宙を舞う。
その数百キロに及ぶ大質量を空中で繋ぎ止めているのは、秋人が握りしめた
『竜崎の犬歯とその奥の小臼歯』
だから、二本背負い。
そして竜崎の体がズレる。
メキィッ……!!
肉が千切れ、骨の土台から歯根が乱暴に引き剥がされる、おぞましい破壊音。
「ほら……これなら。お前は……」
竜崎の口内から大量の鮮血が噴き出す。
巨体がそのまま廃工場の硬いコンクリートの床へと、頭から垂直に激突する。
轟音と共に床がすり鉢状に陥没し、もうもうと土気色の粉塵が舞い上がった。
秋人の荒い息遣いだけが残る空間。
とは言え、まだ。
剣士の犬歯は残っている。
◇
粉塵がゆっくりと晴れていく。
そんな中、死の静寂に包まれた廃工場に、外の鉄扉が開く鋭い音と、慌ただしい足音が駆け込んでくる。
「秋人、大丈夫ですか!?」
「駄犬、死んでないだろうね」
遠くから響く絵里奈と文の切迫した声。
しかし、秋人の耳には、その仲間たちの呼ぶ声すら水面の上の音のようにぼやけていた。
「竜崎……お前……。もう、動くな……」
秋人の目は、まだ動こうとする巨体の主へと釘付けになっていた。
「……やる……な。白斗とはずいぶん違う……が……」
陥没したコンクリートの底。
竜崎の肉体から異常な獣化の膨張がシュルシュルと音を立てて引いていく。
「喋るなよ。脱臼しかけてんだぞ、その邪歯っ」
竜崎の声には、先ほどまでの狂気も、圧倒的な暴力の気配も綺麗に消え失せていた。
その、すべてを出し尽くし、命の灯火が消えかけようとしている。
秋人は、弾かれたように陥没した床の底へと駆け寄った。
血だまりの中に横たわる男の胸ぐらを、震える手で乱暴に掴み上げる。
「嘘……だろ。まだ、抜けてないって! 竜崎!」
その時だった。
「秋人っ!」
「竜崎っ!」
絵里奈と文が駆けつける。
そして、竜崎はその場で立ち上がり、言った。
「まだ来るか。枢木院っ! 白斗を殺したんじゃあ足りなかったか?」
「お前……何……を」
絵里奈の足が止まった。
文もまた、目を見開き、息を呑む。
竜崎はもう、立っているのがやっとの状態だった。
秋人の『二本背負い』によって受けたダメージは決定的。
獣化は完全に解け、元の痩せぎすな人間の姿へと戻っている。
両膝は無様に震え、今にも崩れ落ちそうだ。為す術など、とうにない。
だというのに、竜崎の口元には、悍ましいまでの嘲笑が貼り付いていた。
「聞こえなかったか? 俺が、あの白斗を殺したんだよ」
血反吐を吐きながら、竜崎は絵里奈と文の顔をねっとりと見据える。
「あいつは甘かった。だから俺が噛み殺してやったんだ。……そうだろ? 飼い主の下で尻尾を振る『犬』は、一匹で十分なんだよッ!」
その言葉は、最悪の劇薬だった。
白斗という存在を、誰よりも深く、昔から知る二人。
その死の真相を突きつけられた絵里奈と文の顔から、一切の感情が抜け落ちた。
「……ふざけ、ないで」
最初に動いたのは絵里奈だった。
声音はひどく冷たく、静かだった。
だが、その身から放たれる殺気は廃工場の空気を凍らせるほどだった。
「お前が……白斗さんを……!」
文の全身の毛が逆立つ。怒りで喉の奥から獣のような唸り声が漏れた。
「やめろ、二人ともっ! そいつはもう。それに白——」
秋人の制止は、遅かった。
激昂した二人の姿がブレる。
絵里奈の疾風のような踏み込みと、文の野生の躍動。
交差する二つの影が、満身創痍の竜崎へと同時に肉薄した。
「ハハッ! 来いよ、負け犬ども——」
竜崎の煽り文句が、最後まで紡がれることはなかった。
絵里奈の容赦のない掌底と、文の渾身の拳。
二人の一撃が、秋人との戦闘で既に根元からぐらつく。
限界を迎えていた竜崎の残る『犬歯』へと、同時に、正確に叩き込まれた。
——バキンッ!!
先ほどとは違う、乾いて、決定的な破壊音。
竜崎の異能の源泉であり、最期の牙であった残りの犬歯が、根元から無残にへし折れ、宙を舞った。
直後、竜崎の身体がビクンと大きく跳ねる。
白目をつるし、口から大量の泡と血を噴き出して、そのまま糸の切れた操り人形のように冷たいコンクリートへ崩れ落ちた。
「どうして……だよ。なんで……そうなるん……だよ……」




