第52話 犬トリーテッド⑦
深夜の冷え切った静寂を引き裂く。
一台の軽自動車が夜の舗装路を疾走していた。
街灯の光が、フロントガラスを滑っては闇へと溶けていく。
ハンドルを握る絵里奈の横顔には、焦燥と、得体の知れない奇妙な感覚に囚われた、困惑の色が濃く浮かんでいた。
「どういうことでしょう」
助手席には、秋人の代わりに文が座る。
絵里奈はナビゲーション画面と、彼の膝の上で青白い光を放つ情報端末のデータを交互に見比べながら、ポツリとこぼす。
「ここには来てません……か」
先ほど立ち寄った、願善寺系のダミー施設であるはずの高度医療センター。
絵里奈は、そこの夜間受付の職員に、精巧に模した偽警察手帳を突きつけた。
彼は、怪しむどころか心底面倒くさそうな顔であっさりと首を振った。
怪しい人間が出入りした形跡どころか、そもそも深夜帯に稼働している様子すらない。
施設全体が完全に泥のような眠りについていたのだ。
「エリちゃん、次にいこ。ここはハズレだ」
リストアップし、しらみ潰しに回ったはずの潜伏候補地。
だが、そのすべてが見事なまでに空振りだった。
敵の息遣いはおろか、立ち寄った形跡を示す埃一つ残されていない。
「分かんないね。何処にも痕跡がない」
文もまた、自身の観測結果が示す異常なまでの「空白」に苛立ちを隠せない。
ブルーライトカットの眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「秋人が降りた場所だって、願善寺のリストとは何にも関係ない、ただの寂れた工業区画だし」
ネットの情報。
そして枢木院家からの情報。
更には、鍵ヶ原文の分析が、どれも外れる。
そこでふと、文は気付いた。
「エリちゃん……。透子さんから聞いたけど、蛇の時って」
瞬間、車が急停止する。
文は秋人のように前に飛び出すことはないが、絵里奈がハンドルに危うく頭をぶつけそうになった。
だが、彼女は構わずに息を呑んだ。
「……そういう……こと?」
「あくまでも可能性だよ。もしも、ボクたちの情報が何にも関係ないとしたら」
絵里奈は前を見据えたまま、小さく頷いた。
『蛇』のトリーテッドの時もそうだった。
「犬にしか……分からない……臭い……」
「うん。秋人しか分からない、臭いでアイツだけに狙いを定めてた……としたら」
理詰めや情報戦では決して辿り着けない、論理の死角。
そこに、なぜか秋人の研ぎ澄まされた嗅覚だけが真っ直ぐに反応した。
「……でも、何のために? 竜崎の狙いは」
「ボクにも分からないよ。でも、探せる場所は、もう」
鍵ヶ原文は、眩しそうにタブレットを睨み、大きく息を吐いた。
キュルルルッ!
絵里奈は、ハンドルを限界まで力任せに切った。
タイヤがアスファルトを削り、甲高い摩擦音と白煙を上げる。
車は車体を大きく傾けながらUターンを描き、元のルートへヘッドライトを向ける。
――秋人を降ろした、廃工場のある方角へと強引に進路を変える。
「蛇の時も……。あ……アロサウルスの時も……」
「言われてみれば……だけど」
絵里奈の呟きには、氷のように冷たい嫌な確信がこもっていた。
敵は枢木院の巨大な組織力や情報網を出し抜いたわけではない。
「ボクも学会に参加したかったんだ……」
「え? えと」
「でも、急な技工が大量に入って、行くなと言われたんだ」
「技工が……ふみくんは上得意様がたくさんいるから……」
最初から、秋人という「野良犬」ただ一人を盤面に誘い出すため。
彼にしか嗅ぎ取れない特殊なフェロモンのような匂いを使って罠を張っていた
「うん。特には考えなかった。でも、最初から秋人が真ん中にいたとしたら」
だとしたら。
「秋人を中心に……ディジーザーとトリーテッドが……?」
「何の為かは分からないけど。 そう考えるしかない」
文は窓の外へと視線を向け、忌々しげに舌打ちをした。
自分たちが無関係な場所で、意図的に空回りをさせられている。
そこには枢木院も、願禅寺も、鍵ヶ原も──
「歯医者さえも関係ない……ってこと……ですか?」
絵里奈は無言でアクセルを床まで深く踏み込んだ。
車のエンジンが怒号のような唸りを上げる。
「……白斗さん。竜崎。それからアイツ。犬であることに意味がある……のか。ボクは……白斗さんに」
夜の闇を切り裂きながら、狂犬の待つ廃工場へと矢のように突き進んでいく。
「……見えてきたよ、文くん」
絵里奈の押し殺した声に、文は助手席から身を乗り出す。
そして、フロントガラスの向こうを睨みつけた。
「理由は分からないけど、心外だね」
深夜の冷たい空気に包まれた、放棄された工業地帯。
その一角に、巨大な黒い墓標のようにそびえ立つ廃工場があった。
そして、崩れかけたトタン屋根の真上。
――まるで地上を見下ろす不吉な眼球のように、赤黒く濁った満月がぽっかりと浮かんでいた。
「満月が沈む……もうそんな時間?」
「色々あったからね。それにしても……趣味の悪い演出だ。あそこから特等席で剣闘士サーカスを見下ろしてるみたいだね」
文が皮肉めいた言葉を吐き捨てる。
だが、その声の端は微かに震えていた。
絵里奈もまた、ハンドルを握る手にじっとりと冷たい汗が滲むのを感じていた。
「早くしないと。秋人も白斗さん……みたいに」
月明かりに不気味に照らし出された廃工場。
周囲の空間そのものを歪ませるほどの、禍々しく重圧な死の気配を孕んでいる。
それを、巨大な肺のように静かに吐き出していた。
「行くよ」
絵里奈は決意と共に、さらにアクセルを踏み込んだ。
狂った月光の下、犬と犬が戦っている、その場所へ。
◇
一方、廃工場の中。
嗤いを止めた竜崎。
その巨大な躯から放たれた濃密な殺意が、埃っぽい空気を完全に凍りつかせる。
巨大な人狼は、全身の毛を逆立てた険しい顔だった。
秋人は、泥と血にまみれながらも膝を震わせて立っていた。
そして人狼のような化け物を、射抜くように睨みつけていた。
「竜崎。目的はなんだ。お前……自身のだ」
「俺自身のためだ」
「嘘だ」
「嘘じゃない。治る見込みのない病を騙し騙し長引かせ、鎖に繋いで死ぬまで飼い殺しにする。それが枢木院のやり方だ!」
そして、轟音。
竜崎の巨体が、質量を無視したかのように瞬時に距離を詰め、丸太のような豪腕が空気を切り裂いて薙ぎ払われる。
秋人は咄嗟に身を屈め、それを紙一重で躱す。
だが、頭上を通り過ぎた凄まじい風圧だけで、秋人の頬が浅く切り裂かれ、鮮血が夜気に飛沫を上げた。
「だとしても! 俺は先生に! あいつらに救われたんだよ!」
秋人は体勢を極限まで低く保ったまま、竜崎の太い軸足目掛けて渾身の蹴りを放つ。
しかし、鋼のワイヤーのような体毛と分厚い筋肉に阻まれ、逆に秋人の足がジンと痺れる。
「邪歯にも人権は必要だ。無論、死んだ後も」
竜崎は巨大な掌で、秋人の頭蓋を上から無造作に掴み潰そうと迫った。
秋人はすかさず後ろへ泥臭く転がり、間一髪でその凶手から逃れる。
「死んだ後のことなんか知るか! 俺は今、生きて、飯を食って、透子先生の所で働いて! 借金を返済するっ! それが俺の『今』だ!」
「その『今』が欺瞞なのだ! いつ処分されるかも分からない薄氷の上で、愛玩犬のふりをして生きることに何の意味がある!」
竜崎の爪先が床のコンクリートを抉り取り、散弾銃の如く秋人へと蹴り飛ばす。
秋人は両腕を顔の前に交差させて急所を守る。
だが、無数の石の弾丸が容赦なく着衣を貫き、生身の肉体を情け容赦なく打ち据える。
「ガハッ……!」
「無知な野良犬め。白斗と同じく、お前もここで残酷な現実の前に砕け散れ!」
竜崎がトドメとばかりに高く跳躍した。
「お前が本当に白斗さんを殺したとしても……」
「まだ、ほざくか」
そして、全体重と重力を乗せた両腕の叩きつけを振り下ろす。
秋人は交差させた腕を解き、あえて後退せずに、死地である前方へと鋭く踏み込んだ。
「お前の意志じゃない。だって、お前は犬なんだ」
竜崎の懐、その一瞬の死角へと滑り込むようにして強烈な一撃をやり過ごす。
直後、背後で隕石が直撃したように、廃工場の床が凄まじい音を立てて爆散した。
爆風に煽られながら、秋人は数メートル距離を取ってよろめきながらも立ち上がる。
「ほざくな。もうすぐ、お前の人権は消える。ヒトではなく、何かとして死ぬっ」
全身打撲、右拳は感覚がないほどに砕ける。
肺は破れたふいごのように悲鳴を上げている。息も絶え絶えだ。
だが、前髪の隙間から覗くその瞳だけは違った。
光を失わず、むしろ不敵なほどの熱を帯びて爛々と輝いていた。
「……欺瞞だろうが何だろうが、俺の病状を決めるのはテメェじゃない」
秋人は口内に溜まった鉄錆の味のする血を吐き捨てる。
竜崎の険しい獣の顔を真っ直ぐに見据えて、ニヤリと笑った。
「竜崎、セカンドオピニオンって知ってるか? 良い歯医者を知ってるんだけど」
「死にかけの犬がほざくな」
「犬はお前もだろ」
◇
秋人の不敵な挑発が冷たい空気に響いた、その時だった。
廃工場の血の匂いが淀んだ空気の中に、微かな――
だが、秋人の鼻腔と、竜崎の鋭敏な嗅覚が同時に捉えた『異物』の匂いが混じった。
「……この匂い。猫と、猿……絵里奈と文か!」
遥か遠く、工場の外周から凄まじいスピードで近づいてくる二つの匂い。
頼もしい援軍の気配に、秋人は内側で小さく安堵の息を吐く。
だが、その匂いの変化に気づいたのは竜崎も同じだった。
巨大な人狼は、秋人からゆっくりと視線を切り、廃工場の入り口を見やる。
絵里奈たちが向かってきているであろう深い闇へと、氷のように冷ややかな淡く光る瞳を向けた。
「……野次馬が来たか。そろそろ、決着といこうか」
竜崎の全身から立ち上るプレッシャーが増す。
さらに一段階、重く冷たい絶望へと変質する。
「何言ってんだよ。これ以上は犬歯に、邪歯に響くぞ。分かってんだろ」
秋人は全身の筋肉を硬直させ警戒を強めながら、必死に虚勢を張って吠えた。
お互いに限界が近いことは明白だった。
秋人の場合は、竜崎からの攻撃だ。
でも、竜崎は──
「あのおっさん……蛇トリーテッドの末路は知ってんだろ……」
竜崎の肉体は暴走による、限界だった。
あの規格外の異常な獣化を維持するために、骨が軋むほどの凄まじい負荷がかかっていた。
「思ったよりも、随分やる……か」
竜崎の視線が再び秋人へと戻った。
その時、獣の瞳の奥には、今まで見せていなかった奇妙な――
それこそ、秋人が先ほどの攻防の最中に感じた『哀惜』にも似た感情が微かに揺らめいていた。
「先に言っておく。二君に仕えるつもりはない」
その静かな言葉を聞いた。
瞬間、秋人は心臓を氷の手に鷲掴みにされたように目を剥いた。
「お前、やっぱり……」
秋人の直感は当たっていた。
竜崎もまた、誰かに飼われた『犬』だった。
道理で頭の中のピースが、きちんとハマらなかったのだ。
「犬塚秋人……か。名前負けと思ったが……」
バラバラだった点と点が急速に繋がりかける。
竜崎が白斗を殺した本当の理由。
そして、彼が今、この場所で枢木院という名家に喧嘩を売った理由。
──その『正体』。
だが、秋人がその先の言葉を紡ぎ、真実に触れるより早く、竜崎の姿が視界からブレた。
これまでの無造作な切り裂きや、豪腕による殴打、破壊的な蹴りではない。
竜崎は本当の獣のように
剥き出しの巨大な牙を限界まで広げ、本能のままに『噛みつく』攻撃を仕掛けた。




