第51話 犬トリーテッド⑥
竜崎がスーツの第一ボタンを外した。
その瞬間、廃工場の空気が異様な重さを持った。
物理的に。
ドンッ!
「……はッ!?」
秋人は四つん這いの姿勢のまま、本能的な恐怖に全身の毛を逆立てた。
——ドンッ!
「……なんだ。珍しいものを見るような」
——ドスンっ!
「いや、格闘漫画かよっ! 一個、10kgか? それとも」
ボタンを外し、着ていた服を地面に落とす。
その度に、床が凹むほどの衝撃。
そんな重りを、ハンデを、もしくは自分を鍛える為——
では、なかった。
「一張羅ですからね。うっかり力を使っても破けないように……基本だが?」
「な……そんな基本は——」
知らない。
いや、少し前まで知らなかった、その一張羅という言葉。
小鳥遊レイも使った、その言葉の意味は即ち。
「先祖返りの力を知らないのか」
「それくらいは知って……。でも、大体がディジーザーで。あと大平は頭もわもわで、文はそのままで……」
「とんだ素人が迷い込んだものだ……なっ」
ゴリッ……
竜崎の端整な顔の骨格が、メキメキと嫌な音を立てて前へとせり出していく。
きっちりと撫でつけられていた角刈りから、硬質な獣の毛が逆立つように伸びる。
あの金属入りの仕立ての良いスーツでも、アレに耐えられやしないのだろう。
「専用装備……。その力を……あれ」
膨張する筋肉と骨格に耐えきれず、各所で悲鳴を上げて引き裂かれていった。
文の予知能力、絵里奈の危機察知、小鳥遊の肉体を変化させる浮遊能力。
――高位のトリーテッドが顕現させる固有の異能。
竜崎のそれは、極めて純粋で暴力的な『獣人化』だった。
数秒前までそこにいた几帳面な男は消え失せた。
巨大な狼を思わせる、圧倒的な質量を持った人狼の姿がそこにあった。
「どうした。己の肉体で戦うのだろうっ!」
獣の顎から放たれた竜崎の声は、もはや人間のそれよりも低く、空気を震わせる咆哮だった。
変貌した巨体が、信じられない速度で宙を跳ぶ。
強靭な爪が、秋人が一瞬前までいたコンクリートの床を、まるで豆腐のようにごっそりと抉り取った。
「な事、言われてもっ!」
秋人は四つん這いの姿勢のまま、地面を蹴って無様に転がり逃げる。
——まだまだ、白斗さんには
文の声が頭に響く。
専用装備を、歯科技工士の彼なら作れるだろう。
でも、秋人には与えられていない。
だって——
反撃の糸口なんて、到底見つからない。
一歩でも踏みとどまれば、即座に肉片へと変えられる絶対的な力量差。
「わかんねぇよ……そんなの」
降り注ぐ暴力の嵐。
秋人はただ生き延びるためだけに四肢をフル回転させる。
だが、惨めな『逃げる犬』と化していた。
「逃げてばかりか! それでも白斗の後釜かっ!」
竜崎の追撃は止まらない。
廃工場の太い鉄柱が、獣人化した彼の腕力によって薙ぎ払われ、飴細工のようにひしゃげて吹き飛ぶ。
頭上を通り過ぎる致死の鉄塊。
秋人は飛び散る瓦礫を四足で這いずるように避けながら、竜崎の口から出たその名前に耳を疑った。
「だからさ!……なんで白斗? なんでその名前が出るんだよっ! やっぱお前が白斗ってやつを。透子先生の兄貴を……」
秋人の声が裏返る。
息を切らし、泥と埃にまみれて逃げ惑う。
秋人の背後に、圧倒的な捕食者として君臨する竜崎の巨大な影が、どこまでも濃く覆い被さっていた。
――だが
ボキッ、と鈍い音が鳴ったのは、秋人の拳の方だった。
「……な、ッ!?」
激痛に秋人の顔が歪む。
竜崎の獣化した肉体を覆う、鋼のように硬質な体毛。
それに触れた瞬間、大激痛。
秋人の全霊の打撃はあっけなく弾き返されたのだ。
ダメージなど皆無。
その強靭な毛皮の奥の、皮膚にすら届いていない。
弾き返され、無様にコンクリートの床へと転がる秋人。
その眼前に、獣と化した竜崎の巨大な影が音もなく降り立った。
「願禅寺……白斗……あいつは」
彼は追撃すらしない。
ただ、己の足元で這いつくばる秋人。
そんな彼を、冷め切った捕食者の瞳で見下ろしていた。
「いや。枢木院の白斗は、聡明な男だった。いや……聡明過ぎた。お前とは正反対だな」
獣の顎から紡がれた。
その言葉は、物理的な暴力や激しい怒りが嘘のようだった。
奇妙な静けさと、――どこか哀惜のような響きを帯びていた。
は……?
折れた右手を庇いながら、秋人は立ち上がる。
でも、狂犬竜崎の、その声のトーンに強い違和感を抱いた。
「それ……どういう意味だよ。なんで、殺した。殺す理由なんて……俺は知らないけど」
竜崎の肉体が、それに対する答えを拒絶するようにさらに一回り大きく膨張した。
メキメキと骨格が鳴り、辛うじて残っていたスーツの残骸が完全に引き裂かれ、空中に飛散する。
「あぁ……お前には関係ない」
直後、竜崎の巨体が掻き消えた。
いや、違う。速すぎるのだ。
床を蹴る破砕音が、秋人の鼓膜に届いたのは『その後』だった。
「ぅぐ……」
音を置き去りにした狂犬の突進。
回避する間など微塵もなく、秋人の身体はボールのように廃工場の奥へと吹き飛ばされた。
全身の骨が軋み、肺の空気が根こそぎ吐き出される。
「いみ……わっかんね」
だが、秋人はただでは落ちなかった。
吹き飛ぶ勢いを利用し、空中で猫のように身を翻す。
そして壁のコンクリートに、両足で音を立てて着地した。
垂直な壁に四つん這いで張り付いたまま、荒い息を吐いて竜崎を睨み下ろす。
「竜崎、お前はさ。トリーテッドっ! 俺側の人間だろ……?」
直感的な言葉だった。
竜崎はピクリと動きを止め、獣の瞳で軽く目を剥いた。
しかしすぐに、誤魔化すように忌々しげに肩をすくめる。
「どの口が」
「この口、犬の」
「力もないくせに、犬を名乗るなッ!」
竜崎が再び床を砕き、壁に張り付く秋人目掛けて砲弾のように突進してくる。
でも、今度は――
秋人の目はその軌道を、はっきりと捉えていた。
この動きは……同じだ
かつて、大学構内で死闘を繰り広げた、アレと。
巨大な『丑』のトリーテッド・ディジーザーと同じ。
あの突進を身をもって体験し、秋人は生き延びた。
秋人の身体には、暴走列車への『既視感』が刻み込まれていた。
竜崎の剛腕が壁を粉砕するコンマ一秒前。
秋人は壁を蹴って真横に跳び退き、ギリギリの紙一重で死の突進を躱した。
「牛じゃないんだろ、お前は。ってか、今のってさ」
獣人化した竜崎の瞳が大きく剥かれた。
余裕で捻り潰せる存在だから?
「貴様は大人しく、牙抜きのい──」
「……『犬』って言葉に……反応したよな?」
すれ違いざま、秋人の口から声が漏れた。
そういう作戦に、口車に乗ったから?
きっと──と竜崎は牙を剥く。
「……何を言っている」
竜崎が壁にめり込んだ腕を引き抜きながら吠える。
秋人に、証拠なんてものはない。
「同族……。考えてみたら、犬……だ」
「だから何を」
後先を考えない野良犬の『浅はかさ』
この極限状態において、逆に研ぎ澄まされた。
竜崎の言葉の端々に滲む感情、突進に隠された焦り。
そのすべてが、秋人の野生の勘に一つの答えを弾き出させていた。
「動き……鈍ってんぞ」
秋人は、回避の勢いそのままに着地した。
そこから四つ足で大きく踏み込んだ。
大地を蹴って、竜崎大地の懐へと飛び込む。
「白斗って奴が何者で、何を知ったか知らないけど、……少なくともお前は関係ない!」
無傷の左拳に全体重を乗せ、捻りを加えたカウンターのアッパーカット。
今度は体毛に弾かれることはない。
獣化した顎先を的確に打ち抜く。
「マズルショット……じゃないけど。犬だもん……な」
「きさ……ま……」




