第50話 犬トリーテッド⑤
男——竜崎大地。
竜崎は、油と鉄屑にまみれた空間の中で、ゆっくりと振り返る。
長身で、ひどく痩せぎすな体躯。
この埃っぽい廃工場にはあまりにも不釣り合いな、仕立ての良いスリーピースのスーツ。
ジャケットのボタンは一つ残らず隙なく閉じられている。
「誰だ……と聞くまでもないか」
ネクタイは首元まで息が詰まるほどきっちりと締め上げられる。
乱れ一つない品のある角刈りと相まって、彼の異常なまでの潔癖さと几帳面さを物語っていた。
その鋭く、爬虫類のように冷たい目つきが秋人を射抜く。
だが、神経質そうなその外見とは裏腹に、竜崎の口元から覗いていたのは、秋人のものと同じ
——否、それ以上に異常に発達した鋭い『犬歯』だった。
秋人は重心を低く落とし、眼前の男を睨みつける。
「よう、竜崎。間違いなく竜崎。で、一体、何が目的なんだ!」
まだ全貌を知らず、ただ嗅覚と闘争本能に従ってここまで辿り着いた。
秋人の、その吠えるような問いかけ。
それを聞いて、竜崎は小馬鹿にしたように鼻でふっと嗤った。
「犬とはもっと賢い生き物だと思っていたが……随分と手懐けられたようだな。愛玩犬に成り果てたか」
首元まで締め上げられたネクタイの奥から、低く冷酷な声が響く。
データも、策もない。
ここにあるのは、ただ互いの喉笛を喰い破ろうとする
二匹の獣の緊迫した対峙だった。
「お前、何を企んでやがる……」
「考えなしの犬に、話す言葉もないが」
言い終わるか終わらないかのうちに、秋人は床を蹴った。
野性味溢れる前傾姿勢で一気に距離を詰める。
右の強烈なフックを竜崎の顔面へと叩き込んた。
だが、竜崎はその無骨な一撃を、首をわずかに傾けるだけで容易く躱した。
「チッ! 」
「いきなり暴力か。やはり、枢木院は乱暴だな」
すぐさま左の裏拳、さらに低い姿勢からの回し蹴りを放つ秋人。
しかし竜崎はスーツの裾を僅かに翻す。
ワルツでも踊るかのような滑らかな足捌きで、秋人の全霊の打撃をすべて無効化していく。
「遅い。そして、粗いな」
竜崎の右足が、バネのように跳ね上がった。
コンパクトでありながら、鉄球のような重さを持った前蹴りが秋人の鳩尾にめり込む。
「ガハッ……!」
胃液が逆流するような衝撃。
息を詰まらせてくの字に折れ曲がった秋人の胸倉を、竜崎は無造作に片手で掴み上げた。
そのまま一切の力みを感じさせない動作で、秋人の身体を軽々と宙に浮かせ、コンクリートの床へと容赦なく投げ飛ばす。
ドゴォッ! と、鈍く重い音が廃工場に響き渡った。
「ぐぅ……アァッ!」
「力任せの暴力。まさに野良犬の喧嘩だ。底が知れる」
見下ろす竜崎のネクタイは、いまだ一ミリのズレすら生じていない。
「犬……トリーテッド……マジで強ぇ」
秋人は苦悶に顔を歪めながらも、すぐさま跳ね起きた。
口端から流れる血を乱暴に拭い、再び獣のような咆哮とともに躍りかかる。
「そしてなぜ、戦う……」
「なんでってっ!」
今度はフェイントを交えた連撃。
大振りの右から、膝の関節を狙った鋭いローキック。
「散々、暗躍しやがって」
だが、竜崎はその蹴り足を革靴の底で正確に踏み躙って封じる。
がら空きになった秋人の顎を捉え、下から突き上げるような強烈な掌底を叩き込んだ。
「はぁ……。何を言っているのかな。これは正当防衛……だが」
脳髄が揺れるような衝撃と共に視界が弾ける。
秋人は背後の錆びたドラム缶の山へと吹き飛ばされた。
ガラガラと崩れ落ちる鉄の波に飲まれながら、秋人はギリッと血まみれの歯を食いしばった。
「なんだこのバケモンじみた体術は……」
素手での格闘では、手も足も出ない。
文字通りの一蹴だった。
全身の骨が軋む中、秋人はよろけながらも立ち上がる。
そして目の前の男の、そして白斗ならと、頭に描いて両拳を握り直した。
「なぜ戦う」
「お前こそ、なんでディジーザーを解き放つ……」
廃工場の静寂に、秋人の荒い息遣いだけが響く。
「貴様もトリーテッドだったな。なら……」
ドゴッッッ!!
更に蹴飛ばされる。
全身の筋肉は悲鳴を上げた。
脳裏には文の「白斗さんなら……」
という言葉が呪いのようにこびりついて離れない。
「スマートに、スマートに……ッ! クソが、やってやるよ!」
秋人は無理に理性を働かせ、戦術を組み立てようと空回りする。
しかし、竜崎は動かない。
ネクタイは首元まで寸分の狂いもなく締め上げられている。
その几帳面な佇まいは、嵐の中でも微動だにしない鋼の彫像のようだった。
「犬とはもっと賢いと思っていたが、……君は愛玩犬になりはてたか」
竜崎の唇が、冷ややかに弧を描く。
秋人の放った鋭い刺突、ストレートを、彼は僅かな上体の逸らしだけで回避した。
「竜崎! お前は考古学者なんだろっ? なぜアンタが、願善寺と手を組んで枢木院を潰そうとするんだ!」
「枢木院を潰す? 見当違いだな。私はむしろ、この世界を『正す』側なんだが、枢木院の駄犬」
竜崎は迫り来る連撃を左手の手甲で受け流す。
同時に右手の二本の指だけで、秋人が死角から放った渾身の貫手を
――空中で「つまんで」止めた。
「駄犬は言い過ぎだが……、君は望んでトリーテッドになったのかい?」
竜崎の指がまるで鋏、いや顎にように秋人の指を潰していく。
秋人はどうにか、潰される前に引き抜いたのだが、そのまま硬直した。
「……え? いや、それは」
スパンと横から犬の前足が薙ぐ。
秋人の体はマネキン人形のように転がった。
「いってぇ」
「意味も分からず、白斗の代わりをやっていたのか」
「うっせぇ……。お前まで白斗、白斗って、俺はただ、犬歯を抜きたくなかっただけだよっ!」
埃塗れ、血塗れ。
それでも新参犬は立ち上がった。
竜崎は吐き捨てるように言う。
「それで人権まで失った……。バカとなんとかは……とはならないんだが」
「はぁ? 死ななきゃ、人権はあるんだろ? 透子先生は——」
「人権だと? 笑わせるな。君は知っているか?」
初めて、竜崎の顔から表情が漏れ出た。
秋人の本能がヤバいと言っている。
そもそも、なんで戦っている……のか。
「 私たちトリーテッドが、死後どのように扱われるか。君は透子院長に、温かい夢でも見せられているのだろう——生きている間は、人としての人権がある、と」
何度か秋人が見せた、四足獣の構え。
そこから先——秋人の視界から消えた。
次の瞬間は真横。
「だが、そんなものは死の瞬間に霧散する、かりそめの権利だ。ひとたび心臓が止まれば、遺体は研究材料か、あるいは家畜の肉と同じように処理される」
即座に放たれた手刀は秋人の首筋を狙っていた。
辛くも受け止めたが、その指先に、リミリと常軌を逸した力が込められる。
秋人の指の骨が、まるで枯れ枝のようにメキメキと嫌な音を立てて歪んでいく。
「勝手に殺すなっ! 俺たちは今、生きてんだ! 飯を食って、働いて、透子先生や絵里奈と一緒に……あと、文も、だ。人権なんて、考えてる暇ねぇんだよ。生きてたら関係ないだろっ」
秋人の必死の咆哮。
だが、竜崎はその瞬間、その端整な顔を深く、苦々しく顰めた。
「話が通じていない……? 本気でそう言っているのか、君は」
「当然だろ! 先のことなんて誰が分かるんだよ!」
「今、ここで戦っている間、私と君には確かに人権がある。……だが、次の瞬間にはどちらかに人権が残り、どちらかが家畜となる。君も何度か、その選択を勝ち取った筈……だが?」
ネズミから始まったディジーザーとの戦い。
秋人がやられたら、死んでいた。もしくはディジーザーとなって駆除されていた。
蛇から始まったトリーテッドとの戦い。
相手は意思を持つ人間。尤も、今のところ殺すまで行ったのは、蛇トリーテッドだけだが。
ここで殺されたら、駆除された者と同じになる。
「それがトリーテッドに課せられた逃れられないシステムだ」
竜崎の声には、底冷えするような静かな怒りが宿っていた。
「死ねば家畜に成り下がる。どこに『人権』があるというんだ。そんな歪んだ世界を管理という名目で肯定している枢木院を——私は、竜崎大地は許さない」
だが、逆に言えば。
さっきの並びで言えば。
「なんで、殺し合う前提なんだよっ!」
秋人は叫び、口内に溜まっていた血を、竜崎の顔面目掛けて吐き捨てた。
「小賢しい真似はもうやめだ! 白斗って人の真似も、お前の真似も。スマートなやり方も、全部ポイだ!」
目眩ましの血飛沫が空を切る。
その間に、秋人の身体は不自然な角度で地面へと沈み込んだ。
人間としての直立を捨て、四肢をバネのように撓ませる。
竜崎の反撃の貫手は、秋人の襟元を僅かに掠めた。
そして、背後のドラム缶を豆腐のように貫いた。
秋人は床に両手をつき、獣の眼差しで竜崎を見上げる。
秋人の頭の中から「白斗さんなら……」の言葉は消えた。
「人権があるとか、ないとか。中二かっ! シュレディンガーの猫……いや、犬かよっ?」
床を捉える自らの両手を見つめる。
秋人は自嘲気味に、だが獰猛に笑った。
「生きてる間だけ人だの、死んだら家畜だの……箱を開けるまで分からない。なら、難しいことはどうでもいい。ムカついたから倒す、それだけだ」
「……ついに理性が消えたか。牙を持たない犬を演じるのは、疲れただろう?」
竜崎はゆっくりと、自分のジャケットの第一ボタンに手をかけた。
カチリ、とボタンが外れる。
「いいだろう。死後の絶望も、生前の欺瞞も、すべてまとめて噛み潰してやろう。どちらが真の『犬』か、ここで決めようじゃないか」




