第49話 犬トリーテッド④
「そんなはず、ありませんわ!」
重い空気を切り裂くようにレイが叫んだ。
彼女は血相を変えて透子を、そして空中に浮かぶモニターを睨みつける。
「竜崎が教授を裏切るなんて、まだ信じられませんわ! 彼は誰よりも教授の恩恵を理解しているはずです……こんな、ネットの不確かな情報だけであいつを疑うなんて!」
「まだ、現実を受け入れられないの。お姫様ね」
透子は冷たく言い放つと、顎で絵里奈に合図を送った。
「絵里奈。彼女の拘束を少しだけ解いてあげて。右腕だけでいいわ」
絵里奈が無言で歩み寄り、レイの右腕を縛るシリコンを専用器具で鮮やかに切開する。
自由になった腕で、レイは這いずるようにして自身のスマートフォンを掴み取った。
「確認しますわ……! 竜崎が今も、教授のために大学の研究室で汗を流していることを!」
震える指で通話アプリを立ち上げ、大学の研究室へと発信する。
数回の無機質なコール音の後、スピーカー越しに学生の呑気な声が響いた。
『あ、はい。鷲羽山研究室です』
「私よ! 今すぐ竜崎さんに代わりなさい!」
『えっ、小鳥遊さん? いや、竜崎さんならいらっしゃらないですよ』
「……どこか別のフロアにいるの? ちゃんと大学の在室インジケーターを確認してちょうだい!」
焦燥に駆られるレイの剣幕に、電話の向こうの学生は戸惑いながら答える。
『インジケーターもさっき確認しましたけど、「帰宅」のランプが点きっぱなしです。というか……竜崎先生、ここ数日まったく大学にいらしてないですよ? 教授が小鳥遊さんに指示を出している間も、ずっと姿を見せてません』
「な……」
『教授に聞いてみましょうか。教授はいらっしゃるみたいなので」
「……い……いえ。分かりましたわ」
レイの指から唐突に力が抜け、スマートフォンが床に乾いた音を立てて落ちた。
通話が切断され、暗転した黒い画面が、彼女の絶望を鏡のように映し出している。
「教授は西刃神にいらっしゃるんですね。聞いてみれば良かったのにぃ」
「鷲羽山先生のお手を煩わすわけにはいきませんわ」
それは彼女なりの矜持だったのかもしれない。
教授に知らせることなく、汚物を排除する。
透子はレイの様子を確認し、再びモニターへと向き直った。
「絵里奈。ゼンジーコーポレーション、あるいは願善寺系のダミー施設で、竜崎が潜伏できそうな場所は市内にいくつある?」
「検索条件を『高度な医療設備を持つ施設』『最近になって人の出入りが不自然に増加した場所』に絞り込みました」
絵里奈がキーボードを弾くように叩くと、市内の3Dマップ上に赤い丸が灯った。
「……候補は五ヶ所。願善寺という巨大なバックがついている以上、どの施設もダミーとしては十分な規模です。ここからさらに本命を絞り込むのは、現状のデータだけでは困難かと」
「だったら、全部総当たりで潰していくしかないわね」
秋人が立ち上がり、首の骨をゴキリと鳴らした。
「でも、問題が一つあるわ」
透子はそう言うと、床で魂が抜けたように項垂れているレイを見下ろした。
「この『鳥』を放置して全員で出払うわけにはいかないわね」
「それなら丁度、番犬がいますよ、先生」
「はぁ? 俺は——」
すると、女医は小さく首を振った。
「枢木院との連絡も必要よ。……私がここに残って、この子の番をする」
「ってことは……。ボーナスっ」
秋人が、隣に立つ文と、モニター前の絵里奈を交互に見やる。
「そうなるわね。秋人、絵里奈、文。アナタたち三人で部隊を組んで、市内の候補地をすべて回ってきなさい。手当たり次第にドアを蹴破って、竜崎の尻尾を掴むのよ」
透子の指示に、文が弾かれたように顔を上げた。
「院長! ボクと絵里奈先輩はともかく、なぜこの男まで……!」
文の険しく尖った声だった。
「言ったでしょう。相手は願善寺よ。兄を呑み込んだ連中が相手なら、どんな化け物が潜んでいるか分からない。それに……不本意だろうけど、彼の鼻は人探し、いえ犬探しに役立つでしょう」
透子の「兄を呑み込んだ連中」という言葉の重み。
文は奥歯を噛み締め、反論を飲み込むしかなかった。
悔しげに視線を逸らし、ボソリと吐き捨てる。
「……分かりました。ただし、ボクの足を引っ張ったら、その時は……」
「へいへい。せいぜい猿に噛みつかれないように気をつけますよ」
秋人は口角を吊り上げると、白衣を脱ぎ捨てて上着を羽織った。
◇
こうして、幕を開けた。
奇妙なバランスの三人による、市内の願善寺系施設への過激なローラー作戦。
「次、三つ目のダミー施設に向かいます。ナビのルート通りなら、あと十分で到着しますが……」
運転席でハンドルを握る絵里奈が、バックミラーを見ながら淡々と報告する。
後部座席では、文がタブレット端末を睨みつけていた。
「無駄足ばかりですね。さっきの物流倉庫も、その前の雑居ビルも、ただのもぬけの殻だった。本当にこんなローラー作戦で竜崎の尻尾が掴めるんですか?」
「文句は院長に言えよ、優男。俺だって好きでこんなドライブに付き合ってるわけじゃねぇんだ」
「お前は何もしてないだろ」
助手席で窓枠に肘をついていた秋人。
「ちゃんと探してるって。鼻で」
彼は気怠げに欠伸をしながら言い返す。
文が眉間に皺を寄せ、冷ややかな視線を秋人の後頭部に突き刺した。
「ボクは猿、万物の長だよ。……キミみたいな本能だけの野良犬と一緒に任務に就かされること自体、不本意極まりないんだよ。白斗さん……」
「また、白斗。……おい、車止めてくれ」
文の棘のある言葉に、秋人が突然叫んだ。
「ちょっと。こんな時に喧嘩は」
絵里奈が注意しようとチラと横を見ると、彼は窓から身を乗り出していた。
「どうしましたか? 目的の施設まではまだ距離があります」
「施設なんてどうでもいい。……臭いがするんだよ」
「臭い?」
「ああ。微かに……」
右に見えるのは工業区画。
秋人は己の右側の犬歯を舌先でなぞった。
「そんな距離から人間の匂いを嗅ぎ分けられるわけがないでしょう? 犬のトリーテッドだか知りませんが」
「エリちゃんの言う通りだ。データに基づかない直感で行動するなんて、これだから下等な獣は……」
「さっきから空振りばかりだろ。それに三人で固まってるのも非効率だ」
車が赤信号で減速した瞬間、秋人はシートベルトを乱暴に外し、助手席のドアを蹴り開けた。
「秋人!?」
「絵里奈、お前らはルート通りに回れ! 俺はこの『勘』を頼りに探してみる!」
言うが早いか、
秋人はアスファルトを蹴り上げ、常人離れした脚力で姿を消した。
「ちょっと! 院長は三人でって……ッ」
「あのバカ犬!」
文が慌てて車の窓を開けて叫ぶが、秋人の背中はすでに建物の陰へと消えていた。
絵里奈は冷静にため息を一つ吐くと、無表情のままウインカーを操作する。
「仕方ありません。アタシたちは予定通り施設を潰します。秋人の生存確率より、ローラー作戦の完遂を優先します」
◇
枢木院歯科医院の名前を付けた軽自動車が走り去る。
秋人はさっき見た方向に向かって走り続けた。
人気のない廃工場に向かって。
その先、奥深く。
アスファルトを蹴り砕くほどの勢いで、秋人は入り組んだ工業区画の敷地内を駆け抜けていく。その前傾姿勢の低い走りは、人間というより、まるで獲物を追う飢えた獣そのものだった。
「どこだ……どこに隠れてやがる!」
立ち並ぶ無機質な建物の間を縫うように走る。
半開きのシャッターや、ひび割れた窓ガラスの奥へと次々に顔を突っ込んで目を凝らす。
がらんどうの資材置き場。巨大な機械の残骸が転がる作業場。
だが、どれももぬけの殻だ。
秋人は苛立たしげに足を止めると、鋭く鼻をヒクつかせた。
「クソッ、鉄錆と廃油の臭いが強すぎて邪魔だな……。だが、確実に近付いてる」
ギリ、ギリギリと、顎の奥で犬歯が勝手に疼く。
理屈ではない、血が粟立つようなこの感覚。
風の向きが僅かに変わった瞬間、秋人はバッと顔を上げた。
「……あっちか!」
再び地を蹴る。
迷うことなく通路のさらに奥。
ひと際巨大で異様な気配を放つ建屋へと一直線に迫る。
秋人は錆びついた巨大な鉄扉を蹴り破った。
「この臭い……間違いない」
壊れた鉄扉がはじけ飛び、その先から噎せ返るようなにおい。
間違いなく——同族から出たものだった。
および、人間の匂いも混じったものだった。
そして遂に、鼻を頼らなくても良くなった。
すなわち、秋人は見つけた。
薄暗い空間で一人佇む、細身の影を——




