第48話 犬トリーテッド③
透子の声は、酷く冷たく、低かった。
そして声色は、凪いだ水面のように静かだった。
秋人は固まったまま。
「し……死んだって……。えと……」
犬の視線が泳ぐ。
事情を知らない小鳥遊はさておき、絵里奈も文も、能面のように、感情が読み取れなかった。
「病死……とか? それとも」
「謎の死だったわ」
死因は不明なら……
とはならなかった。
犬の頭でも、秋人の頭でも分かる。
単に死んだわけじゃない、と。
透子は冷淡なまま、続けた。
「……知っているでしょう? 邪歯に保険は効かない」
「え? え……えっと。最初の時に」
そして——
ここからだった。
ある意味で、犬塚秋人自身が始まった……とも言える。
「保険が効かない。普通におかしいでしょう。病名が存在しない、そこまでは分かるけれど」
ゆっくりと頷く。
ゆっくりと唾を呑む。
動画で馬鹿にされた。
でも、紙凪魅兎は歯科医院を探していた。
「病名がないから……保険が効かないんじゃ?」
そして、ここに並んでいるのも全員が、処置済み。
透子の長い髪が靡く。
「もっと根本。もっと根底よ。邪歯は六法全書にも載っていないの」
「え……? それってどういう」
「存在しないってことです。 大体、おかしいと思いません? 今までの事件とか」
絵里奈は薄ピンクの唇を尖らせた。
それは秋人がずっと、心の中で思っていたことだった。
あまりにも、あまりにも
「警察も……報道も……」
「そうです。ディジーザー事件は事件じゃありません。怪異として処分されただけです」
「ちょ……。でも、元は人間で」
「でも、そうなの。そういう決まりなの」
騒ぎは起きるが、その後何もない。
何もなかったかのように、怪物の情報も報じられなくなる。
ただの動物の暴走という、小さな噂のみが残る。
ずっとずっと変だったのだ。
そして、ここから先の話で、秋人は眩暈を覚えた。
「でも……トリーテッドは違うんだろ? ほら、マイナンバーカードだって」
「えぇ。生きているまでは」
透子は、黙り込んだ秋人を見つめた。
感情の読めない冷静な視線。
「生きている……まで……って」
その奥の光だけが、ほんの少しだけ柔らかく、悲しげに揺れていた。
あの時と同じ——
絶対に。……絶対に死んでは駄目と言った時と同じ。
「与那国の時がそうだったでしょう。追い詰められると邪歯が発動する」
「……つ、つまりディジーザーになる——」
「そこまでは分からない。でも、さっきの」
視線が揺らぎ、小鳥遊の肩が跳ねる。
あれだけ高飛車だったのに、今の彼女は何処か怯えていた。
「どっちか分からないでしょう。だから、同じ。——トリーテッドとして死んだ人間も、普通の法が適用されない」
「マジ……かよ。そりゃ……化け物になってたら分かるけど」
「……秋人。その犬歯、へし折ってやろうか?」
冗談を言った。
でも、文の顔は笑っていなかった。
「死の恐怖、痛み。苦しみで邪歯が暴れない保証でも?」
彼はとっくに知っていたのだ。そして白斗のことも。
「それ……は」
「だから与那国の時も同じ。警察がその後に動くことも、ニュースのテロップに流れることもない。闇から闇へ……」
「……なら、先生のお兄さんは」
「……願禅寺から死んだ、とだけ聞かされた。そういう意味でまだ、兄は運が良かったのかもしれない……」
「白斗……さん……ッ!」
文が、たまらず短い悲鳴のような息を漏らす。
彼の双眸には、堪えきれない悔涙が限界まで溜まっていた。
文にとって白斗は、単なる主家の長男ではない。
「文……」
「だって、そうでしょ。そんな話……遺体にだって」
心から慕い、その気高い背中をいつまでも追い続けていきたい。
そう願っていた、文。彼にとって白斗は憧れ、そのものだったのだ。
「文……」
「駄犬。お前とは違うんだよ」
文の視線が、憎悪に近い鋭さで秋人を射抜く。
あれほどまでに優しく優秀だった白斗が死んだ。
そして、借金まみれで薄汚く、ヘラヘラと息をしているだけのこの男が、彼と同じ『犬』の牙を引き継いでいる。
「なんでお前が犬なんだ……」
「なこと……言われたって」
それは理不尽な運命に対する、行き場のない血の滲むような憤りだった。
「文、それくらいに」
絵里奈が間に入る。
「竜崎がゼンジーコーポレーションに接触したなら……。白斗さんを殺した闇とも……繋がってるんでしょうか」
「それは分からない。でも……関係は……」
透子は言いよどんだ。
肺の底に溜まった熱を吐き出すように深く息をついた。
そして、秋人に向けていた視線をふっと和らげ、どこか突き放すような声で告げる。
「だから、アナタはここまでよ」
目はあの時と同じ。
彼女なりの優しさを孕んでいた。
「……は?」
まぁ、秋人は首を傾げるわけで。
「ここから先は枢木院の……私の問題。相手は願善寺、そして兄の情報を知っているかもしれない竜崎よ」
「……いや、だから」
「これ以上深入りすれば、アナタの命の保証はない。ただでさえ危険な『犬』の牙を持っているアナタを、これ以上巻き込むわけにはいかないわ」
優しさ。
邪歯が暴走すれば、ディジーザーになり、そして死んだら、無かったこととして片づけられる。
でも、今の秋人には、その言葉がこう聞こえていた。
「……代わりは終わりってこと?」
「……そうよ。白斗兄さんが関係しているかもしれない。だから……降りて」
最愛の兄を失った透子だからこそ引いた、不器用な境界線だった。
だが、その言葉こそが、目の前の野良犬の心に最も火をつける燃料である。
「いやだ」
「秋人っ」
「だって俺は……」
秋人は己の鋭い犬歯を舌先でゆっくりとなぞると、短く鼻を鳴らした。
「アナタね、相手がどれだけ危険か……」
「まだ、四百万稼がねぇとだし、な」
秋人はニヤリと、ひどく好戦的な笑みを深めて言い放った。
そのあまりにも俗物的な台詞に、絵里奈がギリッと奥歯を鳴らす。
「……ッ、こんな時にまでお金の話ですか……!」
しかし、それ以上の罵倒を口にすることはできなかった。
「っていうか。ここまで首をツッコませて、よく言う」
「駄犬。透子先生は」
「分かってるよ。俺は代わりになれない。……なら」
「なら、なんだ」
「この方が分かりやすくない? ボーナスくださいっ!」
「はぁ? だから……いや……」
文は言いよどんだ。
「……透子先生。こいつ、どうします?」
「どうって……」
なぜなら、土壇場で見せる異常な「馬力」は馬鹿にできない。
文は嫌というほど知らされていたから。
「白斗さんと比べたら全然だけど、ま。いないよりはマシ」
「マシってなんだよ。で、どうなんですか」
文は忌々しげに舌打ちを一つすると、顔を背けた。
透子もまた、秋人の真っ直ぐで、しかしどこか飄々とした瞳を見つめ返し
……やがて諦めたように小さくため息をついた。
「ボーナスね。本当の意味で解決できたなら、借金はチャ……」
「マジ……?」
「ちゃ……ちゃんと計算しないとって言いたかったのよ。そうね、百五十万くらいかしら」
「いや、絶対にチャラって言おうとしたっ! 勢いで言おうとしただろっ」
すると透子は軽く半目になって、唇を尖らせた。
「言ってない。ウチは貧乏なのっ」




