第60話 黒幕は闇の奥に
眼下に広がる街の喧騒。
分厚い防音ガラスに完全に遮られ、この高層ビルの最上階までは一切届かない。
照明の落とされた暗い室内。
窓辺に佇む、元・教授の眼鏡のレンズには、蠢く血潮のような、街中のパニックと無数の赤色灯が映り込んでいた。
その横顔には、孫の遊戯を眺めるような、穏やかで優しい「好々爺の笑み」が貼り付いている。
「これは少々やり過ぎでは。流石に事後の隠ぺいも難しいかと」
背後の闇から、感情の抜け落ちた声が響いた。
仕立ての良いタイトなスーツを着た一人の女性が、影のように佇んでいる。
彼女の足元には、鷲羽山の荷物であろう黒い革製のビジネス鞄が一つだけ置かれていた。
街一つを未曾有のパニックに陥れ、何年も滞在したはずの研究室を捨てるというのに、この老人が持っていくのは、たったそれだけなのだ。
過去の研究の痕跡にも、自らが引き起こした惨劇の犠牲にも、一切の執着がない。
「だって仕方ないじゃないか。十二支の順だと、次は猪だ」
鷲羽山は窓の外を眺めたまま、玩具の遊び方を間違えた子供が言い訳をするような、無邪気な口調で応えた。
「はい……、それが」
「猪は好きだよ。でも、どうにも猪突猛進ばかりで、少々『遊び』の盛り上がりに欠けると思ってね。数を揃えればそれなりに壮観だろう?」
何万人もの命を脅かすパンデミックすら、ただの「舞台演出」としか捉えていない。
その常軌を逸した倫理観に、女性はわずかに眉を動かすだけで淡々と返す。
「先方に苦言を呈されるのでは」
「構わんよ。私は、私の望む研究の続きが出来れば、スポンサーなどどこだっていいんだ」
他者の思惑など路傍の石ほどにも気にしていない声で吐き捨てた。
直後、鷲羽山の視線が、眼下の有象無象の群れからすっと離れた。
そして遠くの暗闇――かつての教え子と、彼女が従える規格外の存在がいるであろう方角へと向けられる。
その濁った瞳の奥に、ねっとりとした、狂気にも似た悍ましい探究心が這い回った。
「それにしても……透子君は実に『優秀な検体』を多く抱えているね。ああ、あの牙は美しい。アレらがどうなるのか、今から楽しみだよ」
恍惚とした、甘く歪んだ声。
「……先生?」
訝しむような側近の声に、鷲羽山はふっと憑き物が落ちたように振り返った。
いつもの、人の良さそうな老人の顔に戻っている。
「あぁ、そうだった。で、私はどこへ行けばいいんだい」
足元の小さな鞄を一瞥し、明日の散歩の行き先でも尋ねるように首を傾げる鷲羽山に対し、女は中指で静かに眼鏡を押し上げた。
冷たいレンズの奥の目が、無機質に老人を捉える。
「東へ。葦原大学研究所です」
街の至る所で上がる黒煙と、網の目のように広がる赤色灯の海。
その凄惨な光景を背に、男は「やれやれ」と軽く息を吐いて、たった一つだけの鞄を持ち上げた。
◇
あの大規模な「猪」の鎮圧作戦から、ちょうど一か月が過ぎた一月。
外はしんしんと雪が降り積もり、はがゆい市は嘘のように静まり返っていた。
だが、暖房の効いた枢木院の待合室だけは、外の寒波を跳ね返すような騒がしさに包まれている。
「あーっ、外はマジで芯まで冷えるッスね! 秋人、もっと熱いお茶淹れてほしいッス!」
「俺はお前の使い走りじゃねえんだよ、ヒロシ! つーか、歯の治療終わったならさっさと帰れよ!」
「あきとー! ウチね、次はオセロして遊びたいんよ! なぁ、一緒にオセロしよー!」
「魅兎、服を引っ張るなって! 今このチンピラを追い出すからちょっと待ってろ!」
元気いっぱいに秋人の腕にぶら下がる魅兎。
図々しくソファーを陣取る大平洋の声が交差する。
秋人が悲鳴を上げながら二人の相手をする向かい側。
小鳥遊レイが相変わらずの不遜な態度で、優雅にティーカップを傾けていた。
「まったく、これだから教養のない平民は。静かにティータイムも楽しめませんわね」
「レイちゃんもおかわりいる? 新作のクッキーもあるよ!」
「……頂きますわ」
絵里奈がトレイを手にご機嫌な様子で立ち回る。
呆れたようにため息をつくレイも、すっかりこの古びた医院の空気に馴染んでしまっていた。
平和で、どこか間の抜けた明るい日常。
だが、診察室の奥から分厚いファイルの束を抱えた文が姿を現すと、その場の空気がわずかに引き締まった。
「……随分と暇そうだね、キミたちは」
呆れ顔で眼鏡のブリッジを押し上げる文に、秋人が顔を向ける。
「暇なのは良いことだろ。この一ヶ月、ディジーザーのデの字も出ねぇんだから」
すると
窓際で雪景色を眺めていた透子が、ゆっくりと振り返った。
「ええ、暇なのは良いことよ、秋人。……でも、水面下では最悪の事態が進行しているかもしれないわね」
「最悪の事態?」
文が舌を打って、ノートパソコンを開く。
「警察のデータベースから強引に引っ張ってきた、これまでのディジーザーの検死と解析データだ」
文が手元のファイルをデスクに広げ、声を潜めた。
「これを見て。やっぱり……鷲羽山は『邪歯』の人工生成に、既に成功している」
「えっと……えみあーるえぬ」
「mRNA。なんで、専門学校のボクよりモノを知らないんだよ」
「煩いな。生物は選ばなかったんだよ。で、人工的にあの化け物どもをゼロから造り出してるって……」
「しかも、選んでいる。ある意味で自在にね。それが『十二支』の順番」
透子が忌々しげに冷めたコーヒーのカップを置いた。
「最初のネズミのディジーザーを思い出して。あれの核となっていたのは側切歯だったわ。口内で最も発現しやすく、そして最も力の弱い邪歯。実験の初期段階の検体としては非常に妥当」
「次に現れたのは牛だったっけ。だから……」
秋人の疑問に、文がファイルの一枚を指差した。
「問題はその後だ。君が戦った『虎』のディジーザー。だが、検死の骨格データに残された細胞の変異痕跡を見ると、その後に現れた『馬』のディジーザーの方が、細胞の変異時期が明らかに早かったことがわかったんだ」
「……は? じゃあ、馬の方が先に化け物になってたってことか?」
「そういうこと。馬は虎よりも前に完成していた。なのに、姿を現したのは虎よりずっと後だった」
文が淡々と、冷たい事実を告げる。
「理由は一つしかない。わざわざ『後回し』にされたんだよ」
その意味に気づき、秋人の顔が険しくなる。
レイもまた、かつての恩師の狂気に直面し、言葉を失って息を呑んでいた。
「最初は鼠、そして牛。実験の過程で偶然そのモチーフが続いたから……あの男は思いついたのよ」
透子の声が、暖房の効いた部屋の温度をスッと下げた。
「だったら、このまま十二支の順番になぞらえて出現させてみよう——ってね」
「遊び半分で……出す順番をコントロールしてたってのかよ」
文とレイが頷いた。
「ボクとレイ先生は、まんまとそのスケジュールに乗せられたんだよ。膨大な技工を送りつけることでね」
「そしてわたくしは、その後で元!教授に吹き込まれたってことですわ」
「鳥頭だから、簡単だったんだね」
「なんですのっ!わたくしは、国立大ですのよっ! 授業料の為に必死で」
「あれ? やっぱり」
「って! わたくしのことはどうでもいいんですの。問題は文、貴方の方ですわ」
最後の方。
鳥と犬は、鷲羽山がコントロールできる。
でも、鍵ヶ原文は別だ。
膨大な技工の注文を自然な形で流すとしたら——
「鷲羽山一人じゃない。もっと組織的な動き……だね。先生」
「ゼンジ―コーポレーションという前例もあるのだし。当然、ね」
鷲羽山進は遊びのつもりだっただろう。
でも、十二支の遊びは終わった、というだけ。
その遊びに付き合っている、巨大な組織がいる。
無理もない。
鷲羽山は、邪歯生成という神のような技術を持っている。
「……悪趣味なジジイだ」
秋人が、拳を強く握りしめる。
忌々しげに息を吐き出すと、透子を真っ直ぐに振り返った。
「で、どうするんですか」
透子はすぐには答えなかった。
待合室の奥から聞こえるみうの無邪気な笑い声に、ほんの少しだけ目を細める。
彼女はゆっくりと立ち上がると、白衣の裾を揺らし、雪で白く曇った窓ガラスに手を伸ばした。
冷たいガラスの表面を、細くしなやかな指先がツーッと伝う。
「何もしないわ」
透子は静かに
だが、確固たる意志を持って言い放った。
「私たちは医者よ。患者がいてこそ、医療行為は成立する。……彼らがどんな病魔を造り出そうと、私たちがやることは一つだけ。その牙を抜くだけ」
外の雪は、まだ止む気配はない。
枢木院の灯りは、街の闇を照らすように静かに灯り続ける。
「あ。そういえば、秋人っ!」
ピンク衣を弾ませて、絵里奈が手を叩いた。
大平洋と紙凪魅兎は待合にいるが、それ以外に患者はいない。
受付に居る理由もなく、猫は暖かみを求めて、診療室に入ってきた。
そして彼女は言う。
「借金、完済、おめでとう! で、どうするの?」
鳶色の瞳を震わせて、そう聞くのは卑怯だったかもしれない。
秋人は頬を少し染めて、瞳を泳がせた。
「借金……返済で終わりじゃないだろ。0からだ。貯金する為にバイト……続ける……じゃなくて……させてください。先生っ!」
すると女医は微笑んで、形の良い唇を緩めた。
「当然でしょ。邪歯の管理は私の仕事。それに秋人、アナタは——」
今のところ、体調は上々。気分も上々。
だけど、世界の予後は全く不明。
だって、俺の犬歯はまだ疼くのだ。
人生初のローファンタジー長編ということで、ここまでと決めて書きました。
いつか続きを書くかもしれません。鷲羽山の目的も全く明かしてないですし。




