第46話 犬トリーテッド①
秋人はため息をついた。
診療台で、芋虫のようにジタバタするレイを呆れ顔で見下ろした。
「絵里奈、彼女の拘束状況は?」
「完璧です、院長。シリコンの硬化状態は極めて良好。これなら大型の猟犬が全力で暴れても絶対に引きちぎれません」
絵里奈は手慣れた様子でゴムの弾力をチェックし終えると、冷淡な口調で続けた。
「というか、このままでは邪魔なので、隅のゴミ箱の横にでも寄せていいですか?」
「ええ、構わないわ」
「構いなさいよっ」
透子は冷徹な瞳でレイを一瞥した。
そして手元のカルテ——そして、レイが所持していた通信端末から強引に吸い出した解析データを睨みつけた。
「さて、小鳥遊レイ。あなたがここで醜い鳥籠の鳥になっている間に、少し『現実』の答え合わせをしましょうか」
レイは床に転がったまま、ふいっと顔を背ける。
「……わたくしが口を割るとでも? 教授はすべてを把握していますわ。あなたたちのような野良犬が、どれだけ抗おうと無駄ですのよ」
「……すべてを把握、ね」
透子はふっと鼻で笑った。
「ええ、教授は確かに気づいていたわ。以前、私にこうこぼしていたもの。『竜崎が最近、どうも怪しい動きをしている』とね」
その言葉に、レイは忌々しげに顔を歪めた。
「……ええ、わたくしにも教授は仰られましたわ。与那国に接触していた犬のような特徴を持つ男。それにしても透子君の周りにも似たような者がいるとは、偶然とは恐ろしい、と」
空気が僅かに固まる。
ドンとシリコンごと、小鳥遊レイをゴミ箱の隣に置いたのは文だ。
「……それで、ウチに?」
「そうですわ。まさかあれほど特殊な個体が二匹もいるとは思わなかったんですわ。そもそも、おたくの周りには奇妙な口腔組織を持つ者が集まり過ぎですのよ」
「私というより、この街でしょ。あの時から先生も危ぶまれていらした」
透子は静かに言葉を引き取り、どこか敬意すら込めた口調で言った。
文は息を吐いて、薄い眼を流した。
「そうですわよ。鷲羽山教授は間違いなく、今世紀最大の天才ですわ」
「そんな凄いのかよ」
「新聞とか読まなさそうですわね」
「はぁ? バカにするな、読まないけどっ」
犬も首を傾げる。
歯科関係者という枠組みの更にコア。
歯科医師というライセンスを持つ女二人が、鼻を鳴らす。
「彼が研究している『口腔組織に見られる進化の因子』……生命に『刻まれた36億年の因子』を紐解こうとするその頭脳は、世界中のどんな研究機関も足元に及ばない。それは私も認めるわ」
その言葉に、レイは誇らしげに仰け反って、シリコンに頭をぶつける。
「当然ですわ。教授は神にも等しいお方。その崇高な理念を、あなたたち凡人に理解できるはずがありませんわ」
「ええ、純粋な『科学者』としては、ね」
透子の目が、すっと鋭利に細められた。
「でも、その純粋さゆえに、足元で蠢くハイエナの存在に気づいていないんじゃないかしら」
「……ハイエナに?」
透子はデスクの上に、端末からプリントアウトした一枚の写真を投げ出した。
先日の歯学会で撮影されたと思われる、薄暗いホールの監視カメラからの隠し撮り写真だ。
そこに写っていたのは、白衣を着た長身の男。
——鷲羽山の側近である、竜崎だった。
「秋人。この男とすれ違った時に『自分と同じ犬の臭いがする』って言ったわね」
「あ、ああ。写真を見て、匂いが蘇ってきた」
「駄犬いい加減な事を……」
「いいじゃない。五感は繋がっているのだし」
目と鼻、そして耳——
トリーテッドとして、増幅されるのだから
「あ……そういえば」
「そういえばって、何? 今頃、自身無くなって来たんじゃ……」
「違うっ!それは間違いないっ!」
にゃっと飛び退く衛生士。
だが、犬の瞳は遠く、遥か先の光景が映し出されていた。
顎をしゃくれさせ、自信満々に言った。
「アゴサウルス……の時だ」
「アロサウルスっ! 絶対にわざと」
「写真の男、あの時もいた」
「にゃ?!」
絵里奈だけでなく、鳥と猿。
そして牙抜きの透子の瞳が僅かに剥かれる。
「バイルロン社員……よ」
「社員じゃなくて、奥で見てたやつがいたです。言われてみれば、だけど。あの時は知らなかったし」
「……そう……だとしたら、腑に落ちるわね。鷲羽山教授に秋人の情報を流したのは間違いなく竜崎よ。でも、それは忠誠心からじゃない」
透子の合図を受け、絵里奈が手元のタブレットを操作した。
すると、別の画像が何故か備え付けられたプロジェクターから映される。
「これ、学会の別会場でのカメラ映像の切り抜きです」
絵里奈が淡々と説明を重ねる。
「竜崎は、鷲羽山教授の目を完全に盗んで、他企業の連中に、必死に自分の名刺を配り歩いていました」
「……名刺?」
秋人は眉をひそめた。
「鷲羽山の側近が、他所の企業に? それってつまり……」
「引き抜き工作、あるいは独自のスポンサー探しかしら、ね」
透子の唇の端が、歪な弧を描いた。
「鷲羽山教授という絶対的な権威の威光を笠に着ながら、裏では自分のパイプを作ろうと必死になっている。竜崎にとって、純粋な教授はすでに担ぐための『神輿』に過ぎない。あるいは、高値で売れる『商品』かしらね」
その言葉を聞いた瞬間、シリコンが倒れた。
床に転がったレイの顔色が土色に変わる。
「なっ……竜崎さんが、そこまで? あり得ませんわ! あの方は教授の恩に報いるために……!」
「現実を見なさい。もし竜崎が忠実な部下なら、秋人の情報を利用して教授をこちらに誘導する必要なんてない。黙って教授を守ればいいだけだわ」
透子は冷酷に、事実という刃を容赦なく突きつける。
「竜崎の狙いは、世界トップの科学者である鷲羽山教授と、うちの医院を正面衝突させること。両者が全力で潰し合い、混乱が生じた隙に……竜崎は教授の『36億年の因子』に関する研究データと貴重なサンプルを根こそぎ持ち逃げする気よ。他企業に高く売り捌いて、自分だけが莫大な富と権力を手にする」
「潰し合わせるための火種として、俺の存在が使われたってことか……」
秋人は己の犬歯を舌先でなぞった。
あの時感じた、同類の嫌な臭い。単なる研究者の助手ではない、どす黒い野心。
「そして、鷲羽山教授の忠実な助手であるあなたを単騎でここに差し向けた。それも、竜崎のシナリオ通りでしょうね。邪魔なあなたを私たちに始末させつつ、秋人の力を測るための『捨て駒』として」
「す、捨て駒……私が……教授のためではなく、あの男の……!?」
レイは絶句した。
固められた翼が、彼女の激しい動揺を物語るように微かに震え、重たいゴムの軋む音を立てた。
「竜崎って野郎、相当食えない奴だね」
文が低く唸るように言う。
未知の因子を追う鷲羽山の背後に、もっと厄介で、もっと狡猾な現実の欲望が潜んでいる。
「ええ。厄介な狂犬病の予防接種が必要になりそうね」
透子は白衣のポケットに手を入れ、鋭い視線をモニターに向けた。
「絵里奈、竜崎が名刺を渡していた企業のリストを徹底的に洗い出して。秋人は、いつでも出られるように、鼻を磨いておきなさい」
蛇トリーテッドの時には足りなかったピース。
徐々に間が埋まり、一つの巨悪の存在を形作る。
もしかしたら、ずっと前から仕組まれていた……かも。
「バイルロンとの繋がりがあるなら、国外に逃げられちゃうかもですよね」
秋人はまぁ、首を傾げたままだったけれど。




