第45話 鳥トリーテッド⑥
小鳥遊レイの狂信的な矜持は、空の彼方へと無惨に吹き飛んだ。
穢れなき「聖域」だと信じて疑わなかった教授の傍らに、自分たちが最も忌むべき「犬」の臭いを纏う男がいたという事実。
しかも、その男――竜崎が自分たちを欺き、見えざる協力者として「犬の波長」を悪用していた。
「そんな……嘘……。あの御方が、そのような獣を側に置くはずが……」
レイは激しく動揺する。
鳶色の瞳が、信じるべき対象を完全に失って虚空を泳いでいた。
その決定的な隙を、理性の塊である文が見逃すはずもなかった。
「……動揺して高度を下げるなんて、素人以下だね」
文は、絵里奈から渡されていた、バズーカ。
大型のシリコン注入口を備えた特殊なガンを取り出して構える。
引き金が引かれると同時に、超速硬化性の医療用シリコンが奔流となって夜空へ放たれた。
「あ……っ!?」
我に返ったレイが翼を広げようとしたが、時すでに遅い。
粘着質のシリコンは空中で網のように広がり、彼女の巨大な黒翼を複雑に絡め取る。
それは飛び出る前には混ざり、瞬く間に重く冷たい塊へと変質した。
「しまりましたわ……」
「しまった……だろ。しまりましたってなんだよ」
自由を奪われた翼はただの重りとなり、瑞鳥を自称した少女は、無様に地上へと真っ逆さまに墜落していく。
ドサリ、という重苦しい衝撃音が路地に響いた。
文は無表情のままガンを放り出す。
今度は拳を固めて、横たわるレイへとゆっくり歩み寄った。
「待ちなよ……。透子さんに敵対する馬鹿は、二度と再起不能になるまで徹底的に叩いておかないと気が済まない」
冷徹な殺意を孕んだ文の拳が、容赦なく振り上げられる。
だが、その手首を、壁から飛び降りた秋人の手が力強く掴んで止めた。
「止めろって、文!」
「……何言ってんだよ。放せよ、駄犬。こいつが今この場で絶望して暴走して、完全なディジーザーになったらどうするんだ。被害が出る前に物理的に処理するのが定石だろう」
「さっきから熱くなりすぎだよっ。その攻撃がディジーザー化させるんだろっ」
文が苛立ちをあらわにするが、秋人は首を振って譲らない。
「文、落ち着いて。ここは秋人が正しいわ」
割って入ったのは、透子の静かな声だった。
「それに小鳥遊レイ……。彼女が抱えている情報を、そのまま握り潰すのは得策じゃないわ。あの『考古学者』とやらが何者なのか、それを聞き出すまではね」
透子は地面に伏したまま震えるレイを一瞥し、絵里奈へと視線を送った。
「絵里奈、ヒノキチオールを。鎮静処置に入るわよ」
「はい、にゃ!」
絵里奈は元気よく返事をして、護衛の任務を解かれた弾みで一気に医院の中へと駆け込んでいった。
◇
医院内の診察ユニット。
そこには、文が放ったシリコンによって、黒い翼と身体をガチガチに固定された小鳥遊レイが転がされていた。
「ちょっと! いつまで放置していますの!? 早く、早くこれをどかしやがれですわ!」
「……『どかしやがれ』って。お嬢様設定、どこへ捨ててきたのよ」
絵里奈がジト目でツッコミを入れるが、レイは羞恥に顔を真っ赤にして喚き散らす。
「当たり前ですわ! こんな、わたくしのナイスなボディの形を精密に採って……さてはあなたたち、これを型にして如何わしいダッチなドールでも作るつもりですわね! 変態! この犬歯変態!」
「作るか! 誰がお前の型なんか欲しがるんだよ!」
秋人が呆れ果てて怒鳴り返し、本題の尋問へと切り出した。
「いいから吐け。お前をそんな風にトリーテッドしたのは誰だ」
「……決まっておりますわ。鷲羽山先生以外に、これほど完璧な処置ができる方がいらして?」
レイはシリコンに固められたまま、誇らしげに言い放つ。
そこへ、秋人がふと気になったことを尋ねた。
「あ、それはそうか。ち……ちなみに、何本処置したんだよ」
「上下の中切歯――つまり、この正面の四本ですわ。瑞鳥の嘴を司る、最も高貴な部位。それを先生は、慈悲深いお値段で仕上げてくださいましたの」
「くちばし……四本……。つ……ついでにだけど、文。お前は?」
秋人は視線を横に向ける。
文も面倒そうに肩をすくめ、四本の指を立ててみせた。
「……ボクも四本。それがどうかした?」
「で……」
「前も言ったよ。透子先生に。そして、ちゃんと払った」
「なんでだよっ!なんで、ポンポン四百万も払えるやつばっかなんだよ! 世の中の格差、どうなってんだよ!」
一本百万、四本で四百万。
自分の抱えた莫大な借金。
目の前の「金持ち」たちを比べ、秋人は絶望に頭を抱えた。
だが、その嘆きに意外な反応を示したのは、当のレイだった。
「……四百万? なんですの、その法外な値段は。本当にあくどいですわね……」
秋人は、レイを包むシリコンのように硬直した。
「わたくしが鷲羽山先生に支払ったのは、一本、五万でしたのよ。やはりそこの女医はあくどいですわ!」
「は? ……えっとマジ? 五万?」
「マジですわよ! サ……サインする時震えましたから、覚えております」
「震えて?」
「そうですわ。わたくしは、それくらい高額な、二十万円でっ! この『酉』の力を授かりましたのよっ!」
秋人の三白眼が、ゆっくりと、しかし確実な殺意を持って隣の透子へと流れる。
一本百万と、一本五万。あまりに残酷な価格破壊。
「……おい。……おい、先生。説明してくれ。この価格の差は何なんだ。毎晩泥水すすってる俺の苦労は何だったんだよ!」
だが。
透子は視線を逸らすこともない。
悠然と肩をすくめて言い放った。
「自由診療は、病院が自由に価格を設定していいから『自由診療』なのよ。……流石は鷲羽山先生ね。薄利多売の商売がお上手だこと」
「いや、納得できるかぁぁぁぁ!」
秋人の悲痛な魂の叫びが、深夜の診察室に虚しく、激しく響き渡った。
◇
透子から続きの説明が付け足される。
現在の日本の国立大学付属の病院は、基本的に独立採算制がとられる。
病院内で、黒字を出さなければならない。
大学病院での自由診療で、薄利多売は考えられない。
そんなことが淡々と語られるが、秋人は不満顔。
「秋人! みっともないこと言わないの!」
戻ってきた絵里奈が、喚き続けるわんこの後頭部をパシッと叩いた。
ヒノキチオールの瓶をトレイに置きながら。
「何が『金返せ』よ。鷲羽山先生のところが安いのは、莫大な『科学研究費』が出てるからに決まってるでしょ」
「え……科学?」
「通称『科研』、小鳥遊レイを研究対象にした、ということね」
「そうですよ! 病院っていうより、巨大な実験場なんだから」
絵里奈は腰に手を当てて、秋人を諭すように続ける。
「 邪歯のトリートっていうのは、ただ歯を植えて終わりじゃないの。その後の拒絶反応、精神変容、行動……それらすべてに責任を取らなきゃいけないんだから、本来なら一本百万でも安いくらいなんだから! 手厚いアフターケアまで込みの『枢木院プライス』なのよ!」
「あ……アフターケア……」
秋人は、自分が暴走しかけた時、絵里奈と透子が止めてくれたことを思い出す。
何度も通ってる。その度に闇バイトのような仕事はさせられるが。
確かに、観察されているのは事実。
ぐうの音も出なくなる。
「安かろう悪かろうで、植えっぱなしの野放しにされたから、そこのお嬢様みたいに思考回路まで鳥頭になっちゃうの。わかった?」
文は腰に手を当て、不満げに鼻を鳴らす秋人に補足する。
「科学研究費だけじゃないよ。あそこには複数の海外企業との共同研究費も流れ込んでいるし、なんなら国や県からは『海外企業誘致費用』の名目で莫大な助成金まで出てる。バックが普通の研究とは違う。世界規模だよ」
「世界……規模……だと? お、俺の」
透子がレイの口元から視線を外し、冷静に補足する。
「もしも、あの夜。大学病院に駆け込んで、偶々、鷲羽山先生がご在籍だったなら、安くやって貰えたかもね」
「あの痛みで……いや、今なら」
「今はトリーテッドだからでしょ」
ここで何度目かの、がっくりを秋人がした時。
透子も軽く息を吐いた。
「あの研究室がやっていることは、個人の域を超えているわ。外資と組んで、変異のデータを『実証実験』するば……そう考えるべきね。そのための莫大な予算が、一本五万という異常な価格設定を可能にしている……そんなところね」
透子は自嘲気味に口角を上げた。
「一本百万という私の価格は、しがらみのない独立した『医者』として、一人の患者と向き合い、その後の人生すべての責任を負うための正当な対価。——それに大学病院というのは、担当医がコロコロと入れ替わるわ」
「だ……だから、わたくしが……」
大学病院の冷たい内情を知るからこそ、自分が一番側で支えようとしていた。
レイのその言葉の裏にある不器用な忠誠心に、透子は静かに頷いた。
「そうね。貴女のそのやる気は素晴らしいわね」
透子の言葉には、心からの尊敬が混じっている。
絵里奈はジト目で、貧乏犬をたしなめる。
「ね……秋人、わかった? 枢木院プライスには、ちゃんと理由があるんだから」
「……わーったよ、絵里奈。……でも、五万と百万じゃ、やっぱり魂が震える……」
秋人は力なく、これ以上落ちない位置まで、肩を落とした。
「さて、絶望して大人しくなったところで始めましょうか。絵里奈、ヒノキチオールを。まずは彼女の脳に回った安物の理想を殺菌してあげるわ」
「了解にゃ! 秋人、ちょっとレイちゃんを押さえてて!」
「へいへい……」
秋人がシリコンの塊をがっしりと羽交い締めにする。
絵里奈が巨大なシリンジを構える。
「や、やめて……! せめて、精密印象に……。わたくしのデコルテは光学印象……はやめておくとして、ファインとヘビーのダブル印象にして、ですわぁぁぁぁぁ!!」
深夜の診察室に、お嬢様の悲鳴が再び響き渡った。
「うー注文がおおい……」
「っていうか、印象は採られたいのかよっ!」
秋人がツッコミ、絵里奈は半眼で肩をすくめた。
「もう、ツッコむのも面倒くさい。お嬢様かも、いよいよ怪しくなって来てるし」




