第44話 鳥トリーテッド⑤
闇夜の裏路地で、もうもうと土煙が巻き上がっていた。
人と獣、そして鳥のトリーテッドによる激しい戦闘の痕跡。
砕け散ったアスファルトの破片が、街灯の薄暗い光の中に散乱している。
深夜にも関わらず、異常な破壊音を聞きつけた野次馬たちが、遠巻きに少しずつ集まり始めていた。
その騒然とした空気の中。
「そこまでになさい、小鳥遊レイ」
静かだが、夜の戦場の喧騒を完全に圧するような鋭く凛とした声が響いた。
医院の入り口から、鎌を構えた絵里奈に背後を固められ、枢木院透子がゆっくりと歩み出てくる。
「先生! 出てきたら危ないですよ!」
秋人が垂直の壁に張り付いたまま叫ぶ。
だが、透子はそれを完全に無視して、上空に舞う「瑞鳥」を冷ややかに見据えた。
「小鳥遊レイ……。その『犬が実行犯』という情報の出どころ、あなただって相当怪しいものね」
レイの鳶色の瞳が、獲物を見つけた猛禽のようにぎょろりと透子へ向けられる。
「……何が仰りたいのです、裏切り者の枢木院。この私に不潔な疑いを向けるとでも?」
「あら、そうじゃないわ。状況証拠の話よ。……あなた、立派な『歯科医師』じゃない」
その言葉に、一番過剰に反応したのは壁に張り付く秋人だった。
「は? ……えっ、こいつ歯医者なの!? 嘘だろ、あんなバケモノみたいな力で……。先生、なんでそんなこと分かるんですか!」
秋人の素っ頓狂な驚きに、透子は心底呆れたように肩をすくめた。
「秋人、あなたね……。歯科医師や医師は国家資格なのよ。取得していれば、厚生労働省の資格確認検索システムで誰だって調べられるわ。……名字と名前を入れれば、いつ登録されたかまで出てくる、ただの一般常識よ」
「マジかよ……ネットで検索できるのかよ……」
文明の利器による、あまりに現実的で事務的な判別法。
神話めいた死闘を繰り広げていた秋人は、完全に毒気を抜かれたように呟いた。
「そう。そして小鳥遊レイ。あなたは現役の歯科医師として、鷲羽山先生の最も近くで症例を扱える立場にいた。与那国が変異する過程で、その『犬の臭い』を捏造して彼に吹き込むことだって、あなたなら可能だったはずだわ」
「なっ……! 私に対する侮辱はやめていただけますかしら! 私は先生の医療を、純潔を守るために動いているのですわ!」
レイの翼が激しく逆立ち、再び夜気が氷点下まで下がる。
だが。
「え? でも、おかしくないです?」
透子の背後から、絵里奈が素朴な疑問を口にした。
「大平洋……あの羊のトリーテッドの男が言ってたよ。馬をけしかけるように自分に『処置』をして薬を渡したのは、白衣を着た長身の人間。秋人はそんなに背が高くないし。その女の人も背が高い……なら、長身の女性って言うだろうし」
まさかの身内からの否定だった。
聞いた瞬間、レイは勝ち誇ったように翼を広げた。
「ほら見なさい! 実行犯は別にいるという確たる証言ではありませんか。やはり枢木院、あなたの息がかかった別の『猟犬』が、彼らを毒したのですわ!」
「……でも、待って。長身の男……なら」
絵里奈は指を顎に当てる。
小鳥遊レイの背後に広がる夜の街を思い描くように視線を彷徨わせた。
「あれ、そんな男、そっちの陣営にいなかったっけ? ほら、学会の時に鷲羽山教授のところにいつもいる……」
「――竜崎のことを言っているのかしら?」
レイは即座に鼻で笑い、絵里奈の推測を切り捨てた。
「馬鹿げたことを。彼は鷲羽山先生の忠実な助手であり、優れた『素材』ではありますが……彼は歯科医師ではありませんわ。ライセンスを持たない彼が、そんな高度な処置を行えるはずがありません」
断定するような否定。
その否定こそが、長身の人間、おそらく男の正体。
ぼんやりと不気味に、浮き彫りにしていく。
「闇の医療において、資格にどれほどの意味があると思っているのかしら。……それより秋人、いつまで壁に張り付いているの。さっさと降りてきなさい」
透子は冷徹な瞳でレイを見据えた。
教え子を諭すような、しかし鋭利な刃物を突きつけるような声で続ける。
「小鳥遊レイ。あなた、鷲羽山先生から『鬼手仏心』という言葉を教わらなかったかしら?」
その瞬間、レイの優雅な羽ばたきが目に見えて乱れた。
「お、教わりましたわよ……! 医師たるもの、残酷に見える手術であっても、その内には患者を救う慈悲の心を持たねばならない……先生が大切にされている信念ですわ!」
「それなら、本質が分かるはずよね」
透子は一歩前へ踏み出し、夜風に純白の白衣を翻す。
「他人の体にメスを入れ、生体を侵襲する行為は、本来ならすべて傷害罪に当たる違法行為よ。それを例外的に正当化し、許容するための免罪符がライセンス……。それが国家資格なの」
「……なるほど。免許っていうのはそういう」
透子の言葉は、法律と医倫理の境界線を、秋人にも分かるように引き直していく。
「鬼の如き手で肉を裂くことを許された特権よね。でも、その『形式上のルール』がどこまで守られているかしら?」
「そ、そんなはずはありませんわ! わたくしの周りは穢れてなど……!」
レイは激しく動揺し、鳶色の瞳を泳がせる。
「それはそうよ。私も鷲羽山先生に依頼されたわ。……だからこそ、あの方の周りに蠢く不純物が許せない……のよ」
透子は視線をレイから逸らさず、冷徹に事実を突きつけた。
「小鳥遊レイ。あなたの近くにいる──竜崎という男。私も厚生労働省のデータベースで照会済みよ。歯科医師はもちろん、医師、薬剤師……どの名簿にも、彼の名前は存在しなかったわ。もしも彼がやったなら……」
「な……っ!? 彼は先生の右腕として、現場で完璧なサポートを……。それに、竜崎さんは最初から『自分は歯科医師ではない』と公言していますわ! 確か、古代の歴史を紐解く、考古学者だと……」
レイは必死に食い下がる。
だが、透子は冷ややかな笑みを崩さない。
「ますます怪しいわね。医療の現場に、なぜ畑違いの学者が入り浸っているのかしら。……いい、レイ。彼が自ら『ライセンスを持っていない』と認めているのなら、話は早いわ」
透子は一歩、絶望に震えるレイに歩み寄る。
「彼は法的な責任を負わない。そんな立場で、先生の隣に立ち続けている。それが何を意味するか分かる?」
「そんな……。でも、彼は」
「医倫理なんて縛りを受ける気がないのか……。そもそも、重大な違法行為ね」
「勝手な決めつけよ。鷲羽山研究室にそんな輩は——」
レイの言葉が夜空に溶ける中。
ようやく壁から降りてきた秋人。
「……あ、そういや。さっきの話の続き……」
彼は肩の傷から滴る血を拭う。
絵里奈が心配してかけより、ポピドンヨードを当てる。
秋人はびっくりするほどの刺激に、顔を顰め——ながら、呆然と呟いた。
「犬って言えば。あの長身の男……竜崎だっけか。アイツとすれ違った時、微かにだけど——犬の臭いがしてたような気がする。アイツも犬なのか? 俺と同じ……」
そして、戦場は完全に氷りついた。
上空で羽ばたいていたレイ、冷徹を装っていた透子、そして絵里奈と文。
全員が動きを止め、驚愕に目を見開いて秋人を凝視した。
「――はぁっ!? 秋人、今なんて言った!?」
沈黙を切り裂いたのは、文の怒号だった。
「犬の臭いがしてたって言ったんだけど? あれ。この距離で聞こえないとか、耳が悪い?」
文は手にしていた得物を地面に放り出して、そのままの勢いで、秋人の胸倉に掴みかかる。
「そういう意味じゃないっ! なんで、そんな重要なことを今まで言わないんだよ、このバカ犬っ!!」
「は? 馬鹿って言う方が馬鹿だぞ、バカ猿。 いや、だって……あの男、考古学者だとか言ってたし」
「誰が猿だ、クソ犬。その犬の鼻は、ただの飾り? それとも脳みそまで嗅覚で溶けてんの?」
猿は、犬を本気で睨みつけた。
いつもは余裕ぶっている猿が、顔を真っ赤にして激怒している。
秋人がドン退くほどに、文はブチ切れていた。
そして、助けを求めるように、秋人は主治医を子犬のような目で見つめた。
だが、ぷいと目を逸らされた。
「全く。……犬塚秋人はさておきね。 竜崎が犬の因子を持っているなら、話は180度変わってくるわね」
「あ……言われてみれば。西刃神市のホテルで、蛇がイヌ……リュウ……ザ……って。言われてみれば、言って……痛っ。ポンポン殴るな、バカざ……って、絵里奈か」
絵里奈はジト目で、消毒完了とばかりに、ポンと頭を叩く。
ついでに手を叩く。
「秋人、疑われた時点で言えたじゃん……。竜崎が犬トリーテッドなら、完全に決まりじゃないですか!」
「……竜崎さんが、犬……? そんな、バカげたことが……」
レイは空中でふらつき、その巨大な翼が力なく折れ曲がる。
信じていた「聖域」の住人が、実は自分たちが最も忌み嫌っていた「不浄な獣」の気配を纏っていた。
そのまま鳥は、飛ぶことをやめた。
秋人の放った無自覚な爆弾が、小鳥遊レイの正義を根底から粉砕した瞬間だった。




