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俺の犬歯が疼きやがる ~保険の利かない戦いがここにある~  作者: 乙女座の一等星
十二支との戦い・後編

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第42話 鳥トリーテッド③

 激痛が走る。


 激痛と言えば。頭が割れそうな痛みと言えば——


 秋人はあの日、逃げるようにアパートを飛び出した。

 四月の深夜の空気はまだ肌寒く、火照った頬にはその冷たさが心地よく感じられた。


『あと一分! この道を左に……』


 ナビに従って謎の歯科医院に向かった。

 立ち並ぶ古い家々と、シャッターが固く閉ざされたままの個人商店がポツリポツリと続く。


『なんだよ。ネットには載ってなかったけど、名前がちゃんとあるじゃん。なんて読むのか分からないけど』


 顔をしかめながら、看板の奥を見上げた。

 そこにあったのは、昭和の時代から時が止まっているかのような、ひどく古めかしいモルタル造りの二階建ての建物だった。


『ってか、これ……どう見ても閉まってるんじゃ――』


 それでも秋人は恐る恐る。

 引き戸の冷たい取っ手に手を掛け、横へとスライドさせて押し開けた。


 カラン、カラン。


 薄暗い待合室には、ユージノールとクレゾールが混ざり合った特有の匂い。

 漢方薬のようなクローブの匂い。


 受付のカウンターには誰もおらず、こんな深夜に鍵もかけずに不用心だ……


『……今、忙しいんだけど』


 あの日、確かに思った。

 確かに不用心だな、と。

 でも、そんなこと考える暇はなくて——


「白斗さんがいたら……な」

 

 秋人の心臓が、腕の激痛とは別の鋭い痛みでドクンと跳ねた。


「だから……何だよ?」

「白斗さんがいたら、こんな無様に見苦しく耐える必要もなかった。お前はただ立ってるだけのデカい的だ。やっぱり、白斗さんの代わりになんて、これっぽっちもなれやしない」


 敵であるレイの猛攻よりも痛い。

 背後からの味方の言葉が鋭く、秋人の心を抉った。


 再び宙に浮き上がろうとするレイ。

 その趾にエレベーターを掴まれたまま、秋人は絶望的な重圧の中で悟っていた。


「――違う? 俺のレベルが……低いのかよ。だって」

「弱音とか、言うんだ」


 言われてみれば、そう。

 言われるまでもなく、そう。


 何もかもが違う。根本から違いすぎる


 小鳥遊レイの重力を無視した変幻自在な超機動力。

 鍵ヶ原文は、その軌道を一瞬で計算する、冷徹な解析能力。


 あれを能力と言うべきか、古川絵里奈の危険察知能力もある。


 それどころか、大平洋が見せた、綿あめによる疲労回復能力だってあった。


「……俺。ただ、戦って……ただけ」


 自分はただ、犬の力任せて、単に暴れていただけの素人だ。

 代わりになれない「盾」に、一体何ができる。


 秋人は震える膝に力を込め、エレベーターを握る手に血が滲むほどの力を込めた。


「あれ。もう諦めた?」

「……文、分かったよ……っ! 俺は、誰の代わりも務まらない。俺自身が一番分かった……」

「なら、とにかく突撃しなよ。デンタルフロスでもスパチュラでも、何でもいいから手数を出しなよ」


 文が叫ぶ。

 彼は同時に技工士らしい攻撃もしかけた。

 懐から技工用ワックスを特殊加工した投擲弾を正確無比なコントロールで放つ。


 パキィィン、と硬質な音を立ててワックス弾がレイの足元で砕ける。


「な……っ!?」


 レイの「趾」に、急速に硬化したパラフィンがへばりつく。

 高潔な女神の顔が、虫でも見るような嫌悪感と不快感に歪んだ。


「……あ、熱い……。それに、何ですの、この忌々しい塊は……!」

「ツッコめ、野良犬。盾にもならないなら、少しは牙を剥いてみせなよ」


 文の声に合わせ、秋人は片手で太いデンタルフロスを投げ縄のように放つ。


「……分かった。やれるだけ。くそっ」


 フロスなら蛇の時、馬の時。何度も使った。

 だが、その考えは甘い。


 馬ディジーザー。

 そして与那国も蛇トリーテッドではなく、ディジーザーになっていた。

 知性を持つトリーテッドは簡単ではない。

 レイの巨大な翼が巻き起こした強烈な風圧に、容易く空中で押し返されてしまう。


「――何やってんの、バカなの?」

「あ、悪りぃ! 風が凄くて……っ!」


 文は心底呆れながらも、すかさず二投目を放つ。


「足は引っ張るなよ。これでどう……」


 今度は翼の関節部分にワックスが直撃し付着した。

 だが、レイは優雅に身を震わせ、それをパラパラと払い落としてしまった。


「これでどう、と言われましても。知りませんの?」

「へぇ。一応、そういうの知ってるんだ」

「知っておりますわ。何せ、国立大学の歯学部に入るくらいの頭は」


 スパチュラに、エヴァンス。

 様々な技工士ツールが投げられる。

 小鳥遊はひらりひらりと避けていく。


「鳥の翼は、常に分泌された油分で包まれていますのよ。水も、汚れも、すべて弾きますわ」

「へぇ……。じゃあ、あのことわざは? イディオムってやつ」

「誰が、鳥頭ですのっ!」


 言葉遣いはさておき。

 戦いに関しては、二人の方が上。


 いや、土俵が違っていた。


「……なんでそんなに偉いんだよ! なんでお前らの理屈ばっかりが正義なんだ!」


 秋人の叫んだ。

 するとレイは、空中で体勢を立て直し、冷徹な断罪の眼差しを向けた。


「正義……そうでしたわね。犬ころ……」


 そもそも、彼女の狙いは猿トリーテッドではない。


「与那国所長……蛇のトリーテッドであった彼が変異した際の記録。そこには、犬が深く関与していたという確かな証言がありますの」


 鍵ヶ原文の眉が寄る。

 犬塚秋人の目が僅かに開かれた。


 与那国の、ディジーザーとなった後に吐き出された息。


『イヌ……ザ……』


 雑音が多かったが、犬と聞き取れた部分があった。


 犬が蛇と通じていたと、彼女は言う。だから


「枢木院の犬。あなたが間に入り、枢木院透子が処置を施した……」

「……は?!」

「本来なら、鷲羽山先生が正しく導くはずだった『患者』を、あなたたちは自分たちの利権のために利用した。その罪、万死に値しますわ」


 チッと鍵ヶ原が舌を打つ。

 まるで、透子先生に迷惑をかけるな、と言わんばかりに冷めた瞳。


 だが、秋人にはこれっぽっちも身に覚えがない。


「なんだよ。そのデタラメ……! こっちは暴走を必死で止めただけだ!」

「病原体は自覚がないからこそ厄介ですの。……先生が守ろうとした静謐な医療の世界を汚した、あなたという汚染源。今ここで、私が根絶して差し上げますわ!」


 狂信者特有の、絶望的な対話の拒絶。


 最初から決めつけの断罪。


 本当に、そんなの身に覚えがない。


 秋人は考える。


 だが


 その思考はあらぬ方向へと跳躍した。


「待てっ!……ね、うし、とら、う、たつ、み……馬に羊で……んで、文が猿だろ?」

「……は? いきなり何を言い出すの、このバカ犬は」


 緊張感を削ぐ秋人の言葉に、文も顔をしかめる。


「駄犬駄犬って、じゃなくて! 小鳥遊! お前は鳥ってことだろっ!? ネズミ、牛、虎……お前ら全員、干支のトリーテッドなんじゃないのか!」


 一瞬の静寂の後。

 レイは心底からの侮蔑を込めて、ふふ、と鼻で笑った。


「……私はただの『鳥』ではありません。『とり』――すなわち、天の啓示を告げる瑞鳥(ずいちょう)ですの。地を這う家畜のような犬と一緒にしないでいただけますかしら?」

「やっぱり干支じゃねえか! カッコよく言い換えただけだろ!」

「うるさいよ。あいつが鳥だろうが酉だろうが、ボクたちを殺しに来てる事実は変わらないんだよ!」


 文の怒声と共に、黒い猛禽の女神が再び月を背にする。

 そして、必殺の加速を伴って、二度目の急降下を開始した。


 キィィィィィィン!!


 空気を切り裂く高周波の風切り音。

 小鳥遊レイが上空から再び「鋼の趾」を突き立てる。


 秋人は衝撃で折れそうになる膝の関節を強引に固定する。


 『エレベーター』を頭上へ掲げて、その一撃を真っ向から受け止めた。


 凄まじい衝撃が走る。


 散った火花が俺の視界を白く焼き、削れた金属の火薬のような臭いが鼻を突く。


「……っ、がぁぁぁぁぁっ!!」


 上空からの加速度を完璧に乗せたレイの重圧。

 エレベーターの分厚い金属面を、彼女の三本の爪がミシミシと削り取っていく。


「いつまでそうして耐え忍ぶつもりかしら? 無駄な延命は、患者の苦痛を長引かせるだけですわよ」


 レイの冷徹な声が頭上から降る。

 秋人は血走った目で彼女を睨み返し、ギリッと歯を食いしばって言葉を絞り出した。


「うるせ……っ! さっきから、いろいろ、ごちゃついてるんだよ!」


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