第40話 鳥トリーテッド①
刃神市の街が、冷ややかな秋の深い闇に沈み込んでいた。
街外れの高台に位置する、切り立った断崖。
そこに立つ小鳥遊レイの豪奢な黒ドレスが、バサバサと乾いた音を立てて冷たい夜風に翻っている。
周囲の木々からは、役目を終えた枯れ葉がカラカラと音を立てて舞い落ちていた。
まるで、これから彼女が刈り取る命そのものを暗示するかのように。
「……随分と冷え込んできましたわね」
彼女の冷徹な瞳は、数キロ先の街路灯の下を歩く犬の姿を、恐ろしいほどの精度で捉えていた。
無防備に白い息を吐きながら歩くその姿を、まるで顕微鏡で培養皿の微生物を覗き込んでいるかのように鮮明に。
「秋は、実りの季節。ですが、あなたという『害獣』が蒔いた邪歯の種は、この街にあまりに醜悪な実をつけすぎました」
レイは、恩師である鷲羽山から授かった黒いストールを細い指先でなぞる。
鷹の羽衣を思わせる柔らかなそれを、我が子を慈しむように、冷たくも愛おしそうに撫でていた。
「与那国所長……蛇のトリーテッド。彼がディジーザーへと至る最期の記録に、あなたの波長がはっきりと刻まれていました。鷲羽山先生の仰った通り、あなたはただの被害者などではない。その『犬歯』の力を使い、無垢な人々の牙を無理やり開眼させている、禍々しい感染源なのですわ」
風が一段と強く吹き抜け、彼女の灰がかった髪を大きく乱す。
その毛先が、彼女の内なる狂信的な興奮と殺意に呼応する。
そして、じわじわと炎症のような「赤」に染まり始めた。
「枢木院透子に飼われ、借金返済という名目で各地に病を振りまくマッチポンプの徒。……その醜い連鎖、私様がここで完全に断ち切って差し上げます。偉大なる鷲羽山先生の、そして私の正義のために」
レイは一切の躊躇なく、ハイヒールを履いた一歩を踏み出した。
断崖の先、吸い込まれそうな暗い虚空へと、自らの身を投げ出したのだ。
◇
その頃。
枢木院歯科医院の待合室には、秋人の情けない絶叫が響き渡っていた。
「……はぁ!? 1000万!? 絵里奈ぁ?! お前も俺と同じ、自費治療で払ってんのかよ!」
診療室のユニットの横。
「うん」
秋人は思い切り素っ頓狂な声を上げ、目をひん剥いていた。
「ちょ、ちょっと待てって。絵里奈の邪歯って、たしか親知らずだろ? 上下左右の四本全部。だったら普通に保険適用で抜けるじゃん!」
他に患者はいない。
ピンクの衣の愛らしい彼女は首を傾げた。
「ええtt、 三割負担なら数千円、ちょっと難易度高い埋伏歯だとしても一本一万いかないんだっけ?」
鳶色の髪が頷く。
「普通の顔で頷くな。ななな、なんでわざわざ、俺が毎晩必死こいて身を粉にして返してる借金より高い『1000万』なんて莫大な金払ってんだよ!」
すると。
隣で精密ドライバーを指先で器用に転がしていた文。
優男が、鼻先でせせら笑った。
「これだから『代役』すら務まらない貧乏人は困るよね。いいかい、駄犬。エリちゃんはね、その猫の力を維持するために『あえて温存して』、その上で透子先生に特別な自費メンテナンス料を払っているんだよ」
「……は? 何言ってんだ、お前。一本一万で、四本で四万。それが1000万っ!猿は計算できないのか?」
するとバンと絵里奈が秋人の頭を叩いた。
喧嘩はするな、と「めっ」という、可愛い顔も込みで。
「エリちゃんを、お前みたいに、勝手に生えてきた駄犬と。駄犬には不相応な借金を背負わされた可哀想な駄犬と。崇高なエリちゃんとを一緒にしないでくれるかな」
「あえて残して一千万オーバーだと? 分かって堪るかよ、正気か? そもそも、親知らずって抜くもんだろ。それを、わざわざ高級車一台分くらいの金払って飼い慣らしてんのか……?」
秋人は強烈なめまいに襲われ、ふらふらと壁に手をついた。
自分は毎夜命懸けで巨大なバケモノと戦って、やっとの思いで借金を削っている。
だというのに、この理不尽すぎる格差は何だ。
「実家の太さが違いすぎるだろ……。なあ、ふみくんよぉ。絵里奈の実家って、庭から石油でも掘り当ててんのか?」
「ボクに聞かないでよ。お前も聞いたでしょ、エリちゃんのお父様はジュラ紀のアロサウルスの全身骨格を個人所有してらっしゃるんだ」
たたた……確かに。
あの巨大な『辰』のディジーザー……あれが世界的な巨大企業BILRONの社員だった。
その時点で、邪歯業界は地方都市に留まらない話だった。
その裏の途方もない、何かの繋がりに何も気づかなかった。
「 本当にお前の観察眼は節穴だね」
「アロサウルス……ああ、あの化石の話か。全身骨格ってマジ?」
「うん。別邸に飾ってるよ」
「マジかよ、あれって『ちょっと珍しい趣味』レベルじゃなかったのかよ。そうか、そうだよな。アロサウルスの化石なんて、数億とかするよな。それを個人でポンと買えるってことは……」
秋人は自分の浅はかさと、彼女たちと住む世界の決定的な違いを突きつけられる。
今度こそ本気で頭を抱え、その場に崩れ落ちて蹲ってしまう。
「俺は四百万の借金で人生終わったと思ってたのに……」
いや、ここで踏ん張るのが犬の意地。
「だが、待て。鍵ヶ原は技工士として働いている。お前は」
「ボクも一括で払ったけど?」
「は……?」
「正確には両親。でも、もう返した。芸能人の歯って、結構高い……って知らないか」
そして意地が砕ける。
鍵ヶ原文、とんでもないサイズの歯科器具を作れるだけではなかった。
実力も、技術も、トップレベル。
「ここにいる人間にとって。四百万って、俺が自販機で百円のジュース買うくらいの感覚なのかよ。やってらんねえ、マジでやってらんねえぞ……!」
「……秋人ぉ、それは失礼だよ。アタシだって、この牙を維持するのは楽じゃないんだよ?」
絵里奈が、少し困ったように口を開く。
けれど、その表情は普段の愛らしい顔ではなく、どこか凛としたものだった。
「この1000万は、アタシがこの力で誰かを守るための『覚悟の代金』。それにさ……せっかく宿った『邪歯』なんだよ?」
「せ……っかく……?」
「うん。 抜いたらただのゴミになっちゃうけど、残しておけばこんなに凄い力が使える。それを保険適用でパッと抜いちゃうなんて、そんなの勿体ないじゃない?」
「……勿体……ない?」
秋人は蹲ったまま、呆然と口を半開きにした。
希少価値があるから残す。
鬼退治は、貴族や公家、武士の話——
「……う、そりゃ……。悪かったよ、絵里奈。けどさ、やっぱり金銭感覚が……」
言いかけた秋人の言葉を遮るように、絵里奈が不意に己の頬を強く押さえた。
そのまま、糸が切れたようにガクンとその場に膝をつく。
「……っ! 痛い……っ!」
「絵里奈!? どうした、やっぱりその『勿体ない資産』が暴走したんじゃ……」
「……違う。秋人、アタシの親知らずが……一番奥の邪歯が、警報みたいに疼いてる。これ、普通の痛みじゃない。何かが……とてつもなく冷たい何かが、すぐそこまで来てる!」
ただならぬ気配に、診療室の奥から枢木院透子が白衣を翻して姿を現した。
「先生ッ」
いつもの不遜な笑みは完全に消え去る。
極度の緊張を孕んだ冷徹な歯科医師の目になっている。
「ええ、分かっているわ。……来るわね。二人とも、外へ出なさい。ここじゃ狭すぎる」
秋人と文は、透子のただならぬ気迫に突き動かされる。
二人して、犬と猿は医院の外へ飛び出した。
秋の夜風は、数分前よりもずっと鋭い。
むき出しの肌を氷の刃物のように刺してくる。
「……何だ。どこにいやがる」
秋人が犬の嗅覚と視覚を全開にして周囲に視線を巡らせる。
だが、住宅街は不気味なほど静まり返っている。
それでも隣で鋭く目を細めていた文が、ふと、空の一点を指差した。
「ま……そうなるよね。あそこだ。見てよ、駄犬」
文が指した先。
医院から遥か遠く、街灯の光すら届かない巨大な送電鉄塔の頂だった。
夜の闇に完全に溶け込みそうなほど深い「黒」を纏った女が、そこに静かに佇んでいた。
距離にして、ゆうに数百メートルは離れている。
だが、その女が誰かは分かる。
――小鳥遊レイ
女の視線が、真っ直ぐに自分たちの、特に秋人の「犬歯」を正確に射抜いている。
それが、物理的な圧力と痛みとなってビリビリと伝わってくる。
「……あんな遠くから、俺たちを見てんのか」
「それだけじゃないよ。見てなよ、あのドレス……」
文が、極めて不機嫌そうに舌を打つ。
「……とりあえず、休戦だ」
「は? いきなりなんだよ」
「秋人。盾役くらいは務まるんだよね?」
文の声が、これまでにないほど冷たく、鋭く張り詰めたものに変わる。
遠く鉄塔の上で、黒いドレスの肩から流れる羽衣が大きく広がる。
風に煽られ、まるで猛禽類の巨大な翼のようにバサリと翻った。
街の向こう側で、黒い影がフワリと重力を失ったように浮き上がる。
次の瞬間。
常識的な重力と空気抵抗を完全に無視した恐ろしい速度。
黒いドレスを翻した「死の女神」が、夜空を真っ直ぐに切り裂いてこちらへと加速を始めた。




