第39話 猿トリーテッド⑥
翌朝。
枢木院歯科医院。
秋人の全身の関節が、ギシギシと悲鳴を上げている。
鉛のように重い体を引きずるようにして、自動ドアを開けた。
昨晩の鍵ヶ原文との理不尽な乱闘のせいで、体中は見事な青痣だらけで、少し動くだけでバキバキと痛んだ。
カラン、とドアベルが鳴る。
診療前の静かな待合室には、すでに先客の人影があった。
金髪。無造作にくしゃっとセットされた今どきの髪型。
スマートなジャケットを着こなし、まるで高級ラウンジにいるかのよう。
ソファに優雅に腰を下ろして、コーヒーを飲んでいる男――鍵ヶ原文。
秋人と文の目が合う。
一秒……二秒……
やがて、文が心底意外だというように、そして心底うんざりしたように口を開いた。
「うっわ」
秋人の眉がピクッと跳ねる。文は呆れたように続けた。
「生きてた」
「……なんだよ、その言い草」
秋人が低く唸る。
文は秋人の顔に無数に咲いた青痣をじっと見つめ、コーヒーカップを優雅に揺らしながら言った。
「ひどい顔だね、駄犬」
秋人は舌打ちをして、ズキズキと痛む頬を乱暴にこすった。
「誰のせいだよ。てめぇが昨日、夜道でいきなり殴りかかってきたからだろうが」
文はやれやれと、実に芝居がかった手つきで肩を竦める。
「ボクじゃない。君の戦い方が悪いせいだよ」
コーヒーを上品に一口飲む。
「何も考えずに突っ込むだけ。武術のセオリーもクソもないから、無駄な被弾が多い。――弱すぎるから、そんな無様な顔になるんだ」
秋人のこめかみが、怒りでピクリと動いた。
「……朝っぱらから喧嘩売ってんのか、チャラ男」
文はソーサーにカチャリと音を立てずにカップを置く。
「売ってないよ。ボクは極めて客観的な事実を述べているだけだ」
二人の間の空気が、バチバチと火花を散らすような音を立てて張り詰めた。
秋人がポケットの中で拳を握りかけた、その時。
「はいはいストーップ!!」
受付の奥から飛び出してきた古川絵里奈。
今日もピンク衣の彼女が、二人の間に強引に割って入り、両手を大きく広げた。
「朝からやめて! こいつが――じゃなくて! 秋人!」
絵里奈がビシッと秋人の鼻先を指差して制する。
それから、文の方を振り返って睨んだ。
「ふみくんも!」
文は不満そうに肩を竦めた。
「ボクは事実を言っただけだよ、エリちゃん。彼が弱くて無様だって」
「だからその言い方!」
絵里奈が頭痛を堪えるように額を押さえる。
「なんで朝から『犬猿の仲』みたいにいがみ合ってんの……」
一瞬。
待合室に奇妙な沈黙が落ちた。
秋人が怪訝そうに眉を寄せる。
「……あ?」
秋人の間抜けな反応を見て、文が心底呆れ果てたように深々とため息をついた。
「あぁあ。まだ気付いてなかったのか。やはり学習能力ゼロの頭の弱い駄犬だ」
「は?」
「ふみくん?」
絵里奈が呆れた顔をして、文と秋人を交互に見る。
「はぁ……。ふみくん、昨日の夜に会ったのに、それも言ってないんだ……性格悪っ」
「だから、何がだよ」
顔をしかめる秋人に、絵里奈はあっさりとネタばらしをした。
「ふみくんはね、トリーテッドなのよ。――『猿』の」
秋人の目が、限界まで見開かれた。
「……って」
昨晩、秋人は自分が大真面目に「順番的に次は猿だ。対策を練らないと」と熱く語っていた時の、透子と絵里奈の『顔を見合わせた呆れ顔』をようやく思い出した。
「やっぱあってんじゃねぇかっ!」
「何が」
「お前が猿トリーテッドなのかって聞いただろ! なんで言わねぇんだよ!」
秋人が吠えた次の瞬間。
シュッ! と空気を切り裂く風切り音と共に、ソファに座ったままの文の拳が、秋人の顔面めがけて飛ぶ。
「おわっ!」
秋人は反射的に身を引き、ギリギリのところで辛くも避けた。
文が、昨日と同じ冷たい目で秋人を睨む。
「人に向かって、猿って言うな、駄犬」
「猿は猿だろ! っていうか、駄犬っていうな。猿っ!」
「猿って言うな、駄犬」
「道理で昨日の夜から動きが素早くて狂暴なわけだ!」
文の目が、スッと細くなる。
「……昨日の続きがやりたいみたいだね」
一触即発。
再び空気が氷点下まで冷えたその瞬間。
ゴンッ!
ゴンッ!
二人の頭頂部に、同時に重い衝撃が落ちた。
絵里奈の両拳による、容赦ない鉄槌だった。
「だーかーら!!」
絵里奈は腕を腰に当て、仁王立ちになって二人をねめつけた。
「朝から『犬猿の仲』は止めてってば! ここ病院!」
待合室に、ようやく強制的な静けさが戻った。
文は頭を押さえながら、小さく息を吐く。
「……痛い。エリちゃん、ボクは悪くない。こいつがバカなだけだ」
「二人とも悪い!」
絵里奈が即座に切り捨てる。
「朝から喧嘩しない! 小学生か!」
文はやれやれと肩を竦め、大人しくソファに座り直した。
それを確認してから。
奥の診療室から、白衣姿の枢木院透子が一歩前へ出た。
「それで……騒ぎは済んだかしら」
三人の視線が、一斉に透子へ向く。
透子は手元のタブレットに視線を落とし、静かに言った。
「前回の件、整理しておきましょう」
「……前回。猿の」
「馬ディジーザーだよ。バカ犬」
頭をさすりながら秋人が腕を組む。
すると文が噛みつくと、透子は頷いた。
「文が正解よ。まず、あの馬ディジーザーの発症時期。本家での解析の結果、推定では『約二か月前』ということになったわ」
秋人の眉が寄る。
「二か月? そんな前からかよ。ヤクザの大平洋が一ヶ月飼い殺しにしてたって話より、さらに前じゃねえか」
透子はタブレットを操作し、続けた。
「そして、身元も判明しているわ」
秋人が顔を上げる。
「……誰なんだ。あんな十メートルの巨大な馬に変異するなんて、どんなヤツだよ」
透子はタブレットから顔を上げ、静かに答えた。
「西刃神大学。――貴方の通っている大学の学生よ」
秋人の眉が大きく跳ねた。
「は?」
待合室が、水を打ったように静まり返る。
秋人は自分の大学にそんな行方不明者がいたか、記憶を探る。
だが、心当たりはない。
「……で」
秋人は腕を組み直し、恐る恐る聞いた。
「その人、どうなるんだ? もう進行しすぎて助からないって、昨日言ってたけど」
透子は少しだけ視線を落とした。
「……本家で抜歯処置が行われ、ディジーザーの肥大化した肉体は崩壊し、人間の形には戻ったわ」
言葉を区切り、透子は顔を上げて、氷のように淡々と言った。
「それで……察しなさい」
秋人の顔が、理解を拒むように歪んだ。
「……は? 察するって……死んだってことか? だったら、それ、警察沙汰の事件だろ? 親元に帰さなきゃ……」
だが、透子の表情は冷徹なまま変わらなかった。
「……最初に言った筈よ」
静かな、だが重い声が響く。
「契約の時に。私たちが扱っている『邪歯』は、保険の適応外。そして、現代の法律には存在しない病」
透子の冷たい言葉が、待合室の空気を芯から凍らせていく。
あの時から、透子の言葉は冷たかった。
まるで、本当は扱いたくないかのように。
出来れば、保険治療として、歯を抜いてしまいたい……ように。
「だから、法にないモノに――人権はないのよ」
秋人は言葉を失い、ただ透子を見つめることしかできない。
遺族に知らされることすらなく、その大学生は闇の中で処理されたのだ。
絵里奈も何も言わず、ただ唇を噛み締めて俯いていた。
その重苦しい沈黙の中で。
ソファに座っていた文の指が、コーヒーカップの縁でピタリと止まっていた。
コーヒーにはもう口をつけない。
さっきまでの秋人をからかうような軽い表情は、完全に消え失せている。
「……っ」
ほんのわずかだが、その顔は険しい。
過去の何か暗い出来事を思い出したような目だった。
その瞳が映しているのは――
しかし、文は何も言わない。
ただ静かに、音を立てずにカップをソーサーへ置いた。
透子は、黙り込んだ三人を順番に見つめた。
普段と変わらない、感情の読めない冷静な視線。
けれど。
その奥の光だけが、ほんの少しだけ柔らかく、悲しげに揺れていた。
「……だから」
透子の顔は半分だけ穏やかではある。
だけど、もう半分の深刻な、そしてやりきれない顔で、三人それぞれの顔をゆっくりと見渡した。
「アナタたちは」
誰よりも大切にしているものに触れる。
彼女の中にある、大切だった何かに思いをはせるように。
静かに、優しく言った。
「絶対に。……絶対に、ディジーザーになって死んでは駄目よ」




