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俺の犬歯が疼きやがる ~保険の利かない戦いがここにある~  作者: 乙女座の一等星
十二支との戦い・後編

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第38話 猿トリーテッド⑤

 腹を強く踏みつけられる。

 秋人はギリッと奥歯から血が滲むほど食いしばった。


「……っ」


 肺が焼けるように痛む。

 だが、文を睨みつける視線だけは絶対に逸らさなかった。

 文はもう一度小さく息を吐く。


「なんだ、その負け犬の目は」


 心底つまらなそうに足をどける。

 秋人は拘束が解かれた瞬間に転がるように距離を取った。

 地面に手をついてゆっくりと立ち上がる。

 激しく痛む腹を押さえながら、低く獣のように唸る。


「お前……」

「……あ?」

「もしかして、猿なのか」

「はぁ?」


 文は余裕たっぷりに肩を竦めた。


「期待してたんだけどね。謎の犬トリーテッド」

「どうなんだって聞いてんだよ」


 犬が飛び掛かる。

 猿が避ける。


「あの透子先生が手元に置く特別な助手」

「いきなり現れて、絵里奈とも仲いいし、先生とも」


 更に犬が四足に構えて、にらみを利かす。


「願禅寺の連中も警戒しているイレギュラー。それから……」

「小鳥遊……なんでアイツが」

「そう。小鳥遊って口腔外科の女まで。——でも、蓋を開けてみればこの程度の雑魚か」


 秋人の拳がギリギリと鳴った。

 握り込みすぎて指の関節が白くきしむ。


「犬で悪いか。いや、猿より犬か……」


 文はその泥臭い姿を見下ろし、美しい顔を僅かに歪めた。


「下らない。弱いなら弱いで、無駄に目障りだから気に入らないな」


 文が底冷えする声で言い放った、次の瞬間だった。

 秋人の足が、アスファルトを砕かんばかりの勢いで地面を蹴った。


「――うるせぇ!!」


 一直線に突っ込んでくる。

 文の冷徹な視線が、再び超高速で動く。


「ハッキリ言えよ。猿なら猿ってっ」


 肩。腰。足。重心。

 モンキー・アナリシス。


(直線。右の拳。さっきと全く同じ。学習能力皆無の単細胞――)


 だが、その秋人の動きを網膜に映した瞬間。

 文の脳裏に、強烈なフラッシュバックが走った。


 ——いつかの夜。


 鮮血と月明かりの下で舞う。

 圧倒的で、残酷で、息を呑むほど美しい『彼』の姿。


(違う。あの人なら、ここで右の肩を落とす。重心を隠し、視線を逸らし、もっと流麗な軌道を描くはずだ)


 文の神経を、苛立ちが逆撫でする。

 目の前の秋人の動きは、文が脳内に神格化して焼き付けている「彼」の動きとは、あまりにもかけ離れていた。


(こんな、感情に任せた泥臭い突進など、あの人は絶対にしない。あの人の暴力にはすべて意味があった。洗練された芸術だった……!)


 文は最小限の動きで体をずらし、必殺のカウンターを合わせようとした。


「退治して……いいってことだよぁぁあああ!」


 だが。秋人の体は止まらなかった。


「――は?」


 秋人の右拳が空を切る。いや、最初から当てる気などなかったのだ。

 定石も、武術のセオリーも何もない。


「そんなのサーベイングで」


 明確な打撃の軌道がないから、文の解析。


「って!」


 読みが完全に空転する。

 ただ前へ、相手を押し倒すためだけに突っ込む、計算外の特攻。


「だったら、鬼退治だ」


 文が驚愕に目を見開いた。

 その瞬間、秋人の伸びきった両腕が、文のスマートなジャケットの胸ぐらをがしっと力任せに掴んでいた。


「これは違うっ」


 完璧にコントロールされていた文の体勢が、理屈を無視した強引な力技で崩される。

 次の瞬間、秋人は掴んだジャケットごと自らの体を強引に回転させた。


「あ……あぁ。そうだったな。透子先生にゃ、迷惑かけらんねぇぇぇええええなぁぁあああ!」


 遠心力と怒りだけに任せた、武術でもなんでもないデタラメな一本背負い。

 文の体がコントロールを失って宙を舞い、背中から地面に派手に叩きつけられた。


 ドゴォッ!


「ぐ……」


 今度は文が、重たい音が夜の住宅街に響き渡る。

 だが、アスファルトの冷たさを背中に感じながらも


 文の思考は異常なほどに冷え切っていた。


(……なるほど)


 秋人は荒い息を吐く。

 投げ飛ばした際にもぎ取ったジャケットの切れ端を地面に吐き捨てた。


「インテリぶったチャラ男が……!」


 犬のように歯を剥き出しにして吠える。


「こちとら! 五百万も借金抱えて、毎日命懸けでやってんだよ!!」

「そんなの……」


 文は倒れた状態からバネのように跳ね起きる。


「ボクには関係ない……し」


 足で地面を蹴って秋人から数メートルの距離を取った。

 肩で激しく息をする秋人の泥臭い構え。

 文は、借金に追われた必死の形相を数秒間観察した。


 ――やがて、破れたジャケットの埃を払いながら、深く、深く絶望したように息を吐いた。


「……いや、もういい」

「は?」


 すっと戦意を収めた。

 そんな文に対し、秋人の拳はまだ下がらない。


「……逃げんのか」


 文は小さく息を吐いた。


「逃げるも何も。面接って言ったけど。聞いてなかった? 犬って耳が悪いんだっけ?」

「面接? 喧嘩の間違いだろ」


 冷たい夜風が二人の間を通り過ぎる。


「ボクが犬と喧嘩?——安全確認が終わっただけだよ」

「安全確認……だと?」


 文は、静かに、そして確信を持って言った。


「あの人の予測不能は、極限の知性と獣の直感が融合した奇跡だった。……でも、君の予測不能は違う。ただ単に、何も考えていないだけだ」

「はぁ? どこまでも口が減らない奴だな」


 秋人の眉がピクッと跳ねる。

 文は、憐れむような目で秋人を見据えた。


「弱すぎる……は訂正するよ。うん、違うね。君は『弱すぎる』んじゃない。ただ単に『頭が悪すぎる』だけだ。だから、ある意味で最高に安全だ。こんな読みも通じない単細胞が、裏で誰かと繋がって暗躍している訳がない」


 そこで


 文の整った顔から、それまでの冷笑が完全に消え去った。


 代わりに浮かび上がったのは、狂信的なほどの憧憬と、血の滲むような執着の炎だった。


「キミは違う。あの人とは違った」


 文の声が、微かに熱を帯びて震える。


「あの人なら、ボクの解析すらも凌駕して、もっと完璧な絶望と美しさを与えてくれた。あの人の軌道は、君みたいな薄汚い駄犬とは住む世界が違ったんだ」


 文は自らの胸の奥に刻まれた幻影を愛おしむよう。

 長い睫毛を伏せ、目を細め、夜の闇よりも重い声で告げた。


「あの人ってなんだよ。誰だよ」

白斗(はくと)さんとは、比較にもならない」


 秋人の眉が怪訝そうに寄る。


「……白斗? 誰だよ、それ」


 その問いに、文は答えない。

 ただ、絶対的な優越感と、埋めようのない喪失感を混ぜ合わせたような、酷く哀れむ目を向けるだけだった。


「気付いていなかったの?」


 秋人は三白眼で睨みつけた。


「何の話だよ」

「何って……。あそこにいたのは透子先生とエリちゃん。おかしいって思うでしょ」

「……何がだ」

「キミがさっきから口にしてる、——鬼退治。二人でやってたとでも?」


 その瞬間。


 秋人の表情が固まった。

 いままで一切、考えていなかった顔で、眼を剥いた。


「駄犬。君はただの代わりだ。……いや」


 文は秋人を一瞥し、淡々と言い放つ。


「愚直すぎる君は、あの人の代役にすらならない。ただの『肉の盾』だね」


 そう言い残し、文は踵を返した。


 それ以上秋人を気にする素振りも見せず、夜道を静かに歩き去っていく。


 秋人は、遠ざかるその背中をずっと睨みつけていた。

 硬く握りしめた拳は、しばらく解けなかった。


「肉……の盾……って」


 歯の痛みを感じて駆け込んだ病院。

 そこに居たのは透子一人。その後、顔を見せたのは衛生士の絵里奈だけ。


 胸の奥に、意味が芽生えた。

 文が狂おしいほどの熱量で残していった。

 たった一つの名前だけが、不気味な呪いのように刻まれていた。


 恐らくは男の名前。


 ――白斗

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