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俺の犬歯が疼きやがる ~保険の利かない戦いがここにある~  作者: 乙女座の一等星
十二支との戦い・後編

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第37話 猿トリーテッド④

 場所は秋人のアパート。

 秋人が暮らすのは一階。そして、部屋の前。


 ドゴォッ、と。


 寸分違わず狙った文の拳が、秋人の顔面を襲う。

 秋人が紙一重で避けた拍子にアパートの薄い壁へ深くめり込んだ。


「てめぇ……」


 鈍く重い破壊音が響く。


「汚い部屋だ……ね」


 そのままの勢いで、鍵ヶ原は、秋人を強引に投げ飛ばす。

 飛ばされた秋人の背中が、自室のカラーボックス本棚に激突する。

 バラバラと数冊の漫画とDVDのケースが無残に床に散らばった。


「っ……!」


 秋人が肺から空気を絞り出される。

 苦悶の声を漏らし、フラフラと体勢を立て直す。


 優男は肩をすくめた。


 壁から拳を静かに引き抜き、埃を払うように軽く手首を回していた。


 散らばった本、倒れた椅子、そして壁に刻まれた放射状のひび割れ。

 狭くむさ苦しい1Kの惨状をぐるりと見回し、文は一つ溜め息をついて小さく頷く。


「……ふむ。ボクは気が回るからね」

「は……?」


 秋人が痛む背中を押さえて険しく眉を吊り上げる。

 すると、文は視線を秋人から外し、窓の外の暗い夜道へと向けた。


「ここじゃ狭すぎるし、近所迷惑だ」

「お前がいきなり他人の部屋で暴れ出したんだろうが!!」


 秋人が思わず吠える。

 だが、文は「ほら、大声出すから近所迷惑」と涼しい顔で言い放ち、くるりと背を向けて玄関の扉を開けた。


 夜の生温かい空気が、埃っぽくなった部屋に流れ込んでくる。


 文はドアの枠に手をかけ、肩越しに振り返って口元に薄く、冷酷な笑みを浮かべた。


「来なよ。外で続きをやろう」

「……上等だ、チャラ男」


 秋人は忌々しげに舌打ちをして、文の優雅な背中を追って外へ出た。


 ◇


 夜の住宅街。

 街灯の頼りない青白い光の下で、二人は再び向き合った。


 人通りは、運良く全くなかった。

 秋の到来を思わせる湿気を帯びた夜風が、頭上の電線を低く揺らしている。


 秋人は両拳を固く握りしめ、犬のように重心を落とした。


「今度は逃げんなよ」


 対する文は構えすら取らない。

 スマートなジャケットの袖口を、パーティーの前にでもするように優雅に整えている。


「逃げる? ボクが?」


 文は小さく肩を竦め、鼻で笑った。


「君相手に?」


 次の瞬間、文の革靴が音もなく地面を蹴った。

 街灯が作る影の中から、その姿が砂嵐のようにブレて消える。


「――ッ!」


 秋人は本能のままに両腕をクロスさせ、顔面をかばうガードを固めた。


 ズッッッドン!


 ガードの上から直接丸太で殴られたような重い衝撃が走った。

 腕の骨が嫌な音を立てて軋み、ビリビリと痺れが走る。


 しかし、今度の秋人は後手には回らない。

 衝撃を耐え抜いた反動を強引に利用し、無理やり前へ踏み込んだ。


 肩を深く入れ、全身のバネを使った大振りの右ストレートを文の頬へ叩き込む。


 だが。


 文の体が、まるで風に舞う紙切れのようにふわりと横へ流れた。

 秋人の拳が捉えるはずの重心がスッと消え、完全に空を切る。


「……へぇ」


 背後から、余裕に満ちた声が鼓膜を打つ。


「まぁ、悪くない」


 秋人が振り向きざまに裏拳を放つ。

 だが、それよりも早く文の足払いが、秋人の軸足を正確に刈り取っていた。

 体勢が大きく崩れ、アスファルトに無様に転がりかける。


 しかし、秋人はトリーテッド特有の異常な身体能力で地面に手を突く。

 無理やり踏みとどまり、深く沈み込んだ体勢から、突き上げるようなアッパーを放った。


「さっきからぁっ!」


 拳が文のジャケットの肩口をかすめ、布を裂く。

 その一撃を見て、文の目が微かに、だが酷く冷たく細くなった。


「上から目線すぎんだろっ」

「なるほど」


 文は小さく呟く。

 冷徹な視線が、秋人の体を舐め回すように超高速で動いた。

 肩の入り。腰の捻り。足の踏み込み。重心の移動。


 ――『モンキー・アナリシス』


「……なんだ?」


 直線的——踏み込みは強い。

 右利き——単調な獣の動き。

 ——次は、大振りのフック


「すかしてんじゃねぇ!」


 秋人が怒りに任せて再び突進してくる。

 文の読み通り、大振りの右フック。

 そこからの肩からの強引な体当たり。


 だが、文は避けなかった。

 むしろ、自ら秋人の懐へと一歩深く踏み込む。


「単純……サーベイライン通り……ね」


 秋人の伸びきった腕に自身の細い腕を絡め、体を滑らせるように捻る。

 重心を奪い、秋人の暴力的な突進力をそのまま自身の円運動へと変換する。

 秋人の動きを、そのまま上からなぞるように。


「――なっ」


 秋人の体が、自らの推進力に完全に裏切られてふわりと宙に浮いた。


「ここが支持……」

「こいつっ」


 それは皮肉にも、


 秋人自身が巨大馬を止める際に使った体術『ケーナイン・ガイダンス』


「ここが把持……」


 その完全な上位互換とも言える体捌きだった。

 文は遠心力に乗せて、秋人をアスファルトへ冷酷に投げ飛ばす。


「そこが維持……」


 ドゥゥゥゥン!!


 肺の空気が弾け飛ぶような、叩きつけられる鈍い音。


「ぐ……は……」

「これで仕上げだね」


 文はそのまま空中に跳び上がる。

 倒れ伏した秋人の無防備な顔面へ向けて、全体重を乗せたトドメの拳を振り下ろした。


 ——しかし


「……おっと」


 秋人の鼻先、ほんの数センチの空中で、文の拳はピタリと寸止めされた。

 文は小さく息を吐き、つまらなそうに拳を収める。


「これ以上は炎症を起こすか」


 秋人の目の前で手が抜かれる。


「なん……だと?」

「透子先生に迷惑がかかるってこと。物理的刺激を加えて、ここで君に発症でもされたら」

「発症?」

「ディジーザーになったら、ボクが透子先生に迷惑をかけるからね」


 文は言い捨てる。

 同時に、硬い革靴で容赦なく、秋人の腹部を深々と踏みつけた。


「ぐっ……!!」


 胃袋がひっくり返るような凄まじい衝撃。


「ま……邪歯以外は大丈夫だけど?」


 肺から空気が強制的に絞り出され、秋人は蛙のように咳き込む。

 文は、足元で苦悶する秋人を、路傍のゴミでも見るような氷の目で見下ろした。


「どんな……動きだ……よ」


 手を抜かれていたわけではない。

 見逃されていたわけでもない。

 秋人は終始、翻弄をされた。


「……はぁ」


 心底失望したような溜め息。

 同時に、冷たい視線で彼は告げる。


「なぁんだ。キミは……ただの駄犬か」


 一拍置いて、冷たく言い放つ。


「キミは違うね。透子先生の敵じゃない……」

「だから、そう言ってるだろっ!ぐ……は」


 ドスドスと腹を蹴り、秋人が苦しむ様を見。


 文は吐き捨てた。


「駄犬。キミは――あまりに弱すぎる」

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