第36話 猿トリーテッド③
「……小鳥遊レイ」
透子先生がその名を口にする。
文は手元で揺れるティーカップの縁を指先でなぞる。
「はい」
わずかに肩を竦めて肯定した。
その所作には、ムカつくくらい一切の無駄がない。
「表向きは投資の話を聞きに来ているという名目ですが、実際は全く違うようです」
「全く違う……?」
「はい。どうやら彼女は――『犬』について探りを入れているらしいです」
その瞬間、待合室の空気が変わった。
冷たい風が吹き抜けたかのように、わずかに揺らいだ。
離れて話を聞いていた俺は、不意に眉を寄せ、低く唸った。
「犬……?」
文は、視線をゆっくりと俺へと向けた。
見知らぬ生物を観察するかのような、
あるいは路傍の石ころを品定めするような、
底冷えするほどに冷ややかな視線だった。
「犬って」
「エリちゃん、まだ話の途中だよ」
ほんの一瞬、文の瞳が俺の存在を「認識」した。
だが、すぐに興味を失ったかのように、視線は再び透子先生へと戻された。
こいつにとって、俺と会話をする必要など、最初からどこにもないという態度だった。
「それも、願禅寺からの情報?」
「そうです」
文は淡々と頷き、首元で鈍く光るネックレスを、細い指先で軽く弄んだ。
「向こうの連中も彼女をかなり警戒しているみたいでね。現場はくれぐれも気を付けるように、と」
「……分かったわ。ありがとう」
透子先生が小さく息を吐いて礼を言う。
文はそれに応える代わりに、スマートな手つきで腕時計をちらりと確認した。
その動作ひとつをとっても、完成された彫刻のようにいちいち絵になるから腹が立つ。
「では、ボクはそろそろ職場に戻りますよ」
「技工所? 久しぶりに開けたばっかりだよね。今度、遊びに行っていい?」
絵里奈がぱっと表情を輝かせて身を乗り出した。
次の瞬間、文の纏う空気が一変した。
氷のようだった表情が、和らぐ。
春の陽だまりのような、蕩けるほど甘く、柔らかな微笑みへと溶けていく。
俺に向けていたあの冷徹さとは、まるで別の生き物だ。
「もちろん。エリちゃんはいつでも歓迎だよ」
そして、踵を返す直前。
文は再び俺を、俺の方を見た。
一瞬だけ、その瞳がわずかに細められる。
そこには、獲物の喉首を定める猛禽類のような、底知れぬ敵意が微かに、だが確実に宿っていた。
それでも文は、俺に言葉をかけることさえ面倒くさそうに肩をすくませる。
そのまま、足音ひとつ立てずに滑るように自動ドアへと向かう。
カラン、とドアベルが軽快に鳴る。
鍵ヶ原文の姿は夕暮れの光の中へと消えていった。
◇
あいつが去った後、待合室には再び重い静けさが戻った。
俺は腕を組んだまま、文が消えたガラス戸を射抜くような目で見つめていた。
やがて、苛立ちを隠せない様子でぽつりと呟く。
「……犬って、やっぱ俺のことだよな」
俺は文の言葉を口にした。
その瞬間、背筋を通り抜けるような奇妙な違和感に眉を寄せた。
(犬……。もし、本当にそうだとすれば……)
脳裏に、あの男の姿が浮かぶ。
蛇の性質を持っていた、与那国——
アレの言葉……
(与那国は『蛇』だ。……もし、小鳥遊が探っている『犬』が俺で、その次に狙われる、あるいは現れるのは……あれ?)
それは単なる呼び名ではない。
何らかの「種別」か、次に何が来るかを予言する「序列」のようなもの。
――十二支。
その仮説が、俺の思考を急加速させる。
「っていうか。……順番的に、次は『猿』だろ?」
俺が自信満々にそう響かせた。
すると、透子先生と絵里奈が弾かれたように顔を見合わせた。
しかし、俺は二人の不自然な動揺に全く気づかないまま、確信を込めて考察を続ける。
「猿のディジーザーとの戦い。いや、猿のトリーテッドかもしれねぇ。って、全然イメージ湧かねぇんだよな。理性を失ったディジーザーなのか、それともトリーテッドなのか。……相手が知恵のある猿なら、今から何か対策練っといた方がいいかもな」
「……ふふっ」
絵里奈が、吹き出しそうになる。
必死に両手で口を覆って堪えながら、わざとらしく深く頷いてみせた。
透子も、大きな溜息を飲み込みながら呆れたように肩を竦める。
「……そうね」
「まぁ……いいかな」
「なんだよ。順番だろ」
俺は一人で納得したように力強く頷き、椅子から立ち上がった。
「とりあえず、今夜は帰って猿対策を考えるわ。先生、また何か分かったら連絡してください」
「ええ。夜道には気をつけて」
透子が淡々と答え、絵里奈がにやにや笑いながら手を振る。
俺は軽く手を上げて応え、医院を出た。
背を向けた俺の背中に、生暖かく呆れ返った二人の視線が突き刺さっていた
——気がしたが、俺は深く考えずに自動ドアを抜けた。
◇
夜の住宅街は、不気味なほどに静まり返っていた。
俺は、パーカーのポケットに両手を突っ込み、暗い夜道をアパートへと歩いていた。
頭の中は、犬——
いやいや、先ほどの「猿」のことでいっぱいだ。
「次の邪歯は猿かぁ……。やっぱり木登りとかして上から襲ってくるのか? いや、そもそも住宅街じゃ戦いになんねぇな。バナナでも罠に置いとくか……?」
馬鹿げた思考を巡らせながら、自宅のアパートを目指す。
そも、邪歯が痛みを覚えて、駆け込める距離だから自宅は遠くない。
その前に差しかかった時だった。
オレンジ色の街灯の光が、アスファルトに落とす「長い影」が、俺の足を止めた。
古いアパートの入り口。
蛾が群がる蛍光灯の下に、一人の男が立っていた。
金髪。
無造作に、それでいて完璧にセットされた髪。
——鍵ヶ原文だった。
「……帰宅、遅いね」
文はコンクリートの壁に背を預けていた。
腕を組んだまま、俺を見下すような視線を投げる。
「……駄犬」
その、慈しみも何もない、ただ「格下」であることを指し示す冷酷な呼び方。
俺の眉が跳ね上がる。
「なんでお前がここにいんだよ!」
「確認だよ」
文は、心底退屈そうに、隠そうともせずに肩を竦めた。
「はあ? なんの確認だよ」
「キミが、敵か味方か」
俺は露骨に舌打ちをした。
「透子先生が俺を信用して手元に置いてんだろ。それじゃ不満かよ」
「それはあくまで透子先生の判断だ。……ボクのじゃない」
文が、壁から体を剥がす。
ゆっくりと一歩、前へ踏み出した。足音すらない。
「馬のディジーザーは、一ヶ月間も何者かに管理されていた。トリーテッドである大平洋も、金で雇われて使われていた。……そんな裏の繋がりが見え隠れする状況で、突然現れた正体不明の『犬』のトリーテッド」
文の瞳から、昼間の温かな光が完全に消え失せ、底知れぬ暗闇が宿る。
「疑わない理由が、どこにある?」
俺は無言で、パーカーのポケットの中で拳を強く握りしめた。
「今頃出てきて……ふざけんな」
「ふざけてなんかないよ。ボクは枢木院の装備を預かる者として、極めて合理的な仕事をしているだけだ」
文の声。
夜の冷気に溶け込むほどに低く、澄んでいた。
「何言ってんだよ。だいたい、次は——」
「十二支の順? なら、犬はこの先。だから、実力で確認させてもらう」
――その瞬間だった。
瞬きをする暇すらなかった。
俺の視界から、文の姿がノイズのように「ブレて」消えた。
「――ッ!?」
直後、右の死角から凄まじい風切り音が迫る。
「犬」としての動体視力と反射神経が、脳で思考するより先に肉体を動かした。
俺は咄嗟に腰を沈め、両腕を顔の横でクロスさせて強固なガードを固める。
ドゴォッ!
重いコンクリートの塊を叩きつけられたような鈍い音が響く。
ガードした両腕から骨の髄まで痺れるような激痛が走った。
「……ん……だと?」
ただの人間ではありえない。
「お前ぁぁ!」
「確かにトリーテッドみたいだね。頑丈だ……」
「お前こそっ!」
鍵ヶ原文は、トリーテッドだった。
トリーテッド特有の暴力的なまでの膂力。
アスファルトを踏みしめる俺の靴底が、摩擦音を立てて数十センチ後方へズルリと削られる。
「反応は悪くない」
拳を叩き込んだ文は、俺の反撃の隙を一切与えない。
バネのように軽やかに距離を取り、空中で身を翻し、再び街灯の下へ音もなく優雅に着地する。
その口元には、獲物の反応を愉しむような、薄い笑みが浮かんでいた。
「どうなってんだよ……」
「ボクのセリフだ」
俺は痛みに顔を歪め、痺れて震える腕を激しく振った。
「いきなり殴りかかってくるとか、頭イカれてんのかよ……ッ!」
「敵かもしれない相手に、手加減する馬鹿がどこにいる? 当然でしょ」
文は、首を軽くコキリと鳴らす。
両手を下げたままの美しく、そしてどこからでも殺すことができる残酷な構え。
俺を睨みつけて、何かのトリーテッドである彼はこう言った。
「それじゃあ、面接を始めようか。――駄犬」




