第34話 猿トリーテッド①
枢木院歯科医院の待合室は、昼下がりの柔らかな西日に満たされていた。
窓から差し込む光の粒子が、埃と共にダンスを踊っている。
本日の診療時間はすでに終了していた。
ソファには五人の男女が円を描くように腰を下ろす。
先日の「とんでもない騒動」について、放課後の教室のような賑やかさで語り合っていた。
「いや、マジで言ってる? あれ、絶対ただの馬じゃねぇよ!」
犬塚秋人。
むさ苦しいほどに腕を組み、天井に向かって叫ぶように言った。
その顔は、興奮と疲労が混ざり合った、どこか間抜けな表情だ。
「普通のサラブレッドとか、そんな可愛いもんじゃないって! 象か、それこそ恐竜みたいなデカさじゃったもん!」
紙凪魅兎が、身振り手振りを交えて同意する。
その口元は、恐怖を笑いで誤魔化そうとする、ぎこちない苦笑に歪んでいた。
「ん……? みう、お前も現場にいたのかよ!」
「競技場じゃなくって、国道! 夜中に、真っ赤な馬が猛スピードで走っとるんよ。車より早かったけえ、もうパニックじゃし!」
「ま……流石に目立つよな、アレは」
あんなのが、競技場まで走り続けた。
交通量が少ない山道だったとしても、国道は国道。
目撃者がいないわけない。
秋人が呆然と口を開ける。
すると、隣で縮こまっていた大平洋が、宝くじに外れた時のような、情けない顔で深く頷いた。
「マジでデカかったッスよね……。あんな怪物が街中を爆走してるとか、ホラー映画もびっくりッスよぉ……」
大平の震える声に、秋人の視線が鋭く突き刺さる。
「いや、お前のせいだろ! お前があの馬を操ってたんだからな!」
「す、すみませんッス! バイトの職務、おいらの力で誘導する……だったんで」
大平は茶色のクルクルとした頭を抱えた。
叱られた子供のように縮み上がる。
受付のカウンターから眺めていた絵里奈が、くすくすと鈴を転がすような声で笑う。
「っていうか秋人、あの馬に乗って競技場を何十周もしてましたからねぇ。しかも、デンタルフロスで操縦するなんて……。もはや歯科医院の仕事っていうか、何なんですかね?」
「何者でもねぇよ! あんなの呂布以外に在り得ねぇ……。あれ、まさか赤兎馬って……」
秋人が天を仰いで叫ぶ。
そこに、カルテを整理していた枢木院透子が、視線すら上げずに淡々と、しかし容赦のないツッコミを入れた。
「大臼歯よ」
「は……大臼歯って?」
「牛ディジーザーもそう。馬ディジーザーの邪歯も大臼歯。立派な歯科治療よ」
「なるほど、犬歯とは違うのか。魅兎は前歯で……大平は小臼歯……。確かに歯……いや、無理があるだろ!」
歯科医師の登場で僅かに空気が変わった。
魅兎が、少し落ち着かない様子で椅子から立ち上がる。
「ほいじゃ、ウチそろそろ帰るね。まだ歯の感覚も変じゃし、こんなに喋っとると、なんか口の中がソワソワして変な感じなんよ」
元・中切歯ディジーザーが立ち上がる。
透子曰く、奇跡の生還を果たした、元・邪歯持ちだ。
「そうだな、無理すんなよ」
秋人も立ち上がり、魅兎を見送る。
「またな」
「お大事に、ね」
「うん、また来ます」
続いて大平も、逃げるように立ち上がった。
「お、おいらも帰るッス! 今は執行猶予中の身なんで、あんまり遅くなると本家の人に『働け』って詰められるッス……!」
「これ以上、問題起こすなよ。親に借りてんだろ。借金百万、きっちり働いて返せ」
「もう勘弁ッス……これからは真面目に、清廉潔白に生きるッス……!」
二人が慌ただしく自動ドアの向こうへと消えていく。
バタン、とドアが閉まり、待合室は一瞬にして元の静けさを取り戻した。
秋人は「ふぅーっ」と、肺の中の空気をすべて吐き出すように深く息を吐く。
「秋人も帰らないんですかー?」
「帰るよ。でも……」
足をもつらせて、ソファの背もたれに体を預けた。
「気になるだろ……なぁ、先生」
低くなった秋人の声に、透子が視線を向けた。
「洋のヤツ、マジであの馬のこととか、裏の事情は知らないのか? そもそも、あの巨大馬はどうなったんですか」
すると透子の指が、一瞬だけ止まった。
カルテを整理する手つきが、わずかに硬質になる。
「捕獲した個体はあの後、うちに『枢木院の本家』に運び込まれたわ。今、詳細な調査を行っている最中よ」
「本家ぇ……?」
「ええ。西刃神市にある枢木院の総本山。ディジーザーの生態調査や、新しい治療法の研究はそっちが担当。私たちこの分院は、あくまで『現場の対処』を任されているに過ぎないわ」
すると秋人の眉が寄る。
「じゃあ、あの夜に飛んできたあのヘリは?」
「あれは市の手配よ。行政もディジーザーの被害がこれ以上拡大すれば、秘密裏に動かざるを得ないから」
「へぇ……じゃあ、ウチらは本家と市のパシリってわけだ。やってらんねぇな」
「それから」
透子の声は、さらに低く。
そして、冷ややかになっていく。
「我々に協力してくれている組織は他にもあるわ。『願禅寺』という名前を聞いたことは?」
「……あの願禅寺? テレビのCMでもよく見る、あの超巨大投資会社か?」
「ええ」
秋人が思わず身を乗り出した。
世間一般的な大企業の名と、絵里奈も認める寂れた歯科医院。
「はぁ!? 『牙抜き』みたいなオカルト医療と、あんなお堅い投資会社が繋がってんの?」
「えぇ。資金、それから情報網。すべてにおいてね」
透子は静かに続ける。
その瞳には、昼下がりの陽光すら届かない、深い闇が潜んでいた。
「それだけじゃない。私、そしてアナタの『装備』……枢木院で使う特殊な歯科器具の設計と開発を、代々一手に引き受けている家があるの」
秋人が首を傾げた。
「……そういや」
歯科医院で使う器具を巨大化した装置。
敢えて寄せて作られた、奇妙な発明品の数々。
「次から次に……」
その瞬間、受付にいた絵里奈の目が、パッと輝いた。
受付カウンターから出て、透子に歩み寄る。
「先生! もしかして、ふみくん……帰ってきたんですか!?」
急にトーンが上がった歯科衛生士の声に、秋人は怪訝そうに眉をひそめる。
「……ふみ? ……くん?」
「文。『鍵ヶ原』の家の。ウチの関係者よ」
透子の説明が続く。
「昔は刀を打つ鍛冶屋だった家系。今は、高度な医療器具を作る歯科技工所として、その技術を継承しているわ」
「は……? 歯科技工所……?」
「ええ。歯科技工所。デンタルラボ」
透子は小さく、重い溜息をついた。
「彼が作ったのよ。昨晩の……あの馬用の特大の『はみ』をね」




