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俺の犬歯が疼きやがる ~保険の利かない戦いがここにある~  作者: 乙女座の一等星
十二支との戦い・後編

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第33話 馬ディジーザー羊トリーテッド⑤

 深夜の枢木院歯科医院。

 診療時間をとっくに過ぎた待合室は、時間が止まったかのように、不気味なほど静まり返っていた。


 そこへ、静寂を切り裂くような、間の抜けた「ウィーン……」という自動ドアの駆動音が響く。


 先頭を切って入ってきたのは、どこか疲れ切った表情の秋人。

 そしてその後ろから、茶色のクルクルとした巻き毛に、もふもふの白い毛に覆われた、小柄で丸っこい「何か」

 おずおずと、まるで迷子の羊のようについてきた。


「何か」は、落ち着かない様子で、キョロキョロと院内を見回しながら、時折「ヒュ〜……」と情けない声を漏らしている。


 無人の受付カウンターの向こう側で、キャスター付きの椅子が「くるり」と華麗な旋回を見せた。

 そこにいたのは、先に行くと言った彼女。

 私服に着替えて、気に入りのカフェで休憩してでもいそうな、至ってリラックスした様子の絵里奈だった。


「はいはい、お疲れ様。まずは受付からね」

「え?」


 羊トリーテッドが、まるで高音の笛のような、素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。


「う、受付ッスか!? 今、この深夜に!?」

「そりゃあ、ここは歯医者だし」


 絵里奈は、宇宙の真理でも語るかのような至極当然のトーンで言い放つ。

 カウンター越しに手を差し出した。


「マイナンバーカード、持ってる?」

「……あるッス」


 羊の男は、抵抗しきれない強者のオーラに押され、素直にポケットを探る。

 震える手で財布からカードを取り出して絵里奈に手渡した。

 絵里奈が慣れた手つきでカードリーダーに通す。


 『ピッ』


 あまりにも無機質で、あまりにも日常的な電子音が、深夜の静寂に虚しく響いた。


 カタカタとキーボードを叩きながら、絵里奈が淡々と読み上げる。


「名前、大平洋。おおだいら・ひろしさん」

「……おいらッス」


 肩を落とし、魂が半分抜けたような声で返事をする大平。

 その横で、付き添いのはずの秋人が、深すぎるため息をついた。


「偽名じゃなくて、本当にその名前なのか?」

「他人の名前にケチつけないでほしいっす」


 その時。


 奥の診療室の扉が、重々しく「ギィィ……」と開いた。

 白衣を翻し、そこには氷のような冷徹な視線を湛えた、枢木院透子が立っていた。


「先生っ! もう戻ってたんですね」

「マジかよ。もしかして」

「ヘリでね」


 ドクターヘリのが頭に浮かんだ。


 巨大な馬を釣り上げた、多数のヘリ——


 秋人は頭を横に、犬のように振った。


「ぼーっとしてないで、準備できたわ。診療室へ」

「ちょ、ちょっと待つッス! まだ心の準備がッス!」


 大平が、まるで逃げ出す子兎のように一歩後ずさりした。


「お、おいら、まだ治療なんて聞いてないッス! ただの検診ッス!」

「……安心して」


 透子は、まるで獲物を前にした捕食者のように、静かに、かつ完璧な手際で手袋をはめていく。


「死なないわ」

「え?」

「え? じゃないっす。死んでたまるかっすっ!」

「……じゃなくて、えっと」

「今日は、抜歯しないわ」


 大平の動きが、ピタリと止まった。


「……ッス?」


 秋人も、怪訝そうに首を傾げる。


「いや、なんで抜かないんだよ。ディジーザー退治って、基本は牙抜き、抜歯で一撃じゃなかったっすか?」


 透子は、診療ユニットのトレイに、銀色に輝く金属器具を「カチャカチャ」と並べる。

 まるで楽器を演奏するかのようなリズミカルな音を立てて、答えた。


「今回は事情が違うのよ」


 シュンッ! と、診療用の無影灯が点灯した。

 強烈な白い光が、大平の羊顔をスポットライトを浴びた舞台役者のように、冷たく照らし出す。


「無理に抜歯をすれば、当然だけど内部組織が激しく刺激されるわ。今の彼のように、トリーテッド化がかなり進行して『もふもふ感』がすごい状態で、それをやれば……最悪、再炎症を起こして完全に暴走するわね」


 診療室の空気が、一気に重く、冷たく、そして「何か」が起こりそうな予感に満ちた。


「それって、与那国の」

「蛇のトリーテッドが、暴れましたよね」

「そういうこと。普通に考えたら分かるでしょ。歯を抜くなんて、炎症しか起こさない」

「……え?」


 秋人は眼を剥いた。


「ディジーザー化して抜歯した場合……恐らく」

「でも、魅兎は」

「たったの一ケースに賭けるの? 普通は死ぬのよ」


 あまりにもストレートすぎる「死」の宣告。

 大平の顔から、一瞬で血の気が引いた。いや、羊なので血の色が分かりにくいが、とにかく顔が青ざめた。


「おいら、死ぬ……?」

「そう。ここまで進行してたら、まず死ぬ」


 その瞬間。


「し、死にたくないッス!! おいらまだ若いッス!! 歯医者で死ぬなんて、人生の締めくくりとして美しくなさすぎるッス!!」


 半狂乱になって、もふもふの体をジタバタと揺らしながら暴れ出す大平。

 秋人の目は、完全に冷めてしまった。


「悪者が一番言っちゃいけないセリフを吐いてるよ……」

「違うッス! おいら大平洋ッス! 太平洋のように、広大で、深く、豊かな人生を歩む予定の男ッス!!」

「太平洋と大平洋は、そもそも別物だろ!!」


 ツッコむ。

 ただ、自分の歯も舌の先で触る。

 秋人も、絵里奈も、大平洋も、同じトリーテッドだ。


「……騒がないの。彼の為でもあるわ。だから、抜かずに『封印』するのよ」


 騒がしい二人を、透子は「羽虫」を見るかのような目で見ながら、淡々と告げた。


「封印……?」

「ええ。感染した神経を丁寧に取り除く『根管治療』を行い、空いたスペースに薬を詰める『根管充填』。これによって、邪歯の暴走エネルギーを歯の内部に完全に閉じ込める。見た目は普通の神経の治療と同じだけれど」


 診療ライトの光が、透子の手にする鋭い器具の先端でギラリと反射した。

 その輝きは、まるで神の剣のようでもあり、処刑台の刃のようでもあった。


「これが今回の治療よ。……もちろん」


 透子は、ふっと、悪魔のような微笑みを浮かべた。


「邪歯に保険は、利かないわ」


 ピタッ。

 大平の動きが、完全にフリーズした。


「……え?」


 ゆっくりと、絶望に染まった顔を上げる大平。


「ほ、保険が利かないんすか!? 救済措置は!? 割引は!?」

「ええ。完全な自由診療よ」

「だったら! 最初からマイナンバーカードとか、小難しい手続きとか要らなかったじゃないッスか!!」


 大平の魂の叫びが、診療室に虚しく響き渡る。


「それは……確かに」


 秋人が、あまりの理不尽さにポツリと同意した。

 すると、受付から戻ってきた絵里奈が、まるで「当たり前のこと」を言うように肩をすくめた。


「まあ、新患のカルテ登録には一応本人確認が必要でしたからね。あ、自費診療なら保険証の紐付けは関係ないですが」

「ちょ、ちょっと待つッス! それ、一体いくらッスか!?」


 大平が、すがりつくように、震える声で尋ねる。

 透子は、無慈悲な、しかし完璧に落ち着いた声で、その数字を弾き出した。


「——百万よ」


 重い、重すぎる沈黙が流れる。

 大平が、あまりの金額に呼吸を忘れる。

 その横で、秋人が不思議そうに首を傾げた。


「……え? なんでそんなに安いんだよ。四百万とかじゃないのか?」


 透子は、視線だけで秋人を射抜き、淡々と答えた。


「だって彼、邪歯は右下の小臼歯一本だけだもの。しかも根管は一本だけよ」

「……は?」

「あなたは四本抜歯だったから四百万。彼は一根管だから百万。単純な計算よ」


 秋人は、数秒間、口をポカンと開けたまま、思考が停止した。


「……なんか、急に俺とコイツの人生の難易度が違いすぎるんだけど。俺だけ、なんでこんなハードモードなんだよ……」


 その横で、絵里奈が、まるで「今日の天気」でも話すような軽さで、致命的な一撃を放った。


「秋人にとっては、百万も四百万も同じなのだ」

「は? どういうことだよ」

「どうせ自分の稼ぎじゃ、一生返せないのだから」


 診療室に、再び静寂が訪れた。

 秋人は、自分の現状、借金四百万という数字、そして「戦闘員」という過酷な職業を、改めて噛み締めた。

 そして、力なく、まるで枯れ木のように呟いた。


「……そのとおりなのだ……」

「ということで、選びなさい」


 透子が、手にした器具をトレイに置き、最終確認を迫る。


「ディジーザーとして暴走して死ぬか。それとも……百万払うか」


 大平は、涙目で、しかし驚くべき決断を下した。


「払うッス!! 秋人さんとは違うッス!!」

「どういう意味だよ!!」

「金ならあるっす!」

「なら、なんで闇バイトなんてしてんだよっ」


 当然すぎるツッコミ。

 だが、大平は泣きながら、こう言った。


「小遣い稼ぎっすよ。っていうか、ウチは太いんす!五百万までなら、余裕で払えるッス!!」

「は……やっぱ歯を抜いてやろうか」

「やめるっす! 命は金では買えないんすよっ」

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