第32話 馬ディジーザー羊トリーテッド④
ここには馬ディジーザーの他に、トリーテッドがいた。
秋人の体が、思考よりも先に弾けた。
スパイクが芝生を深く、鋭く蹴り上げる。
一度火がついた「犬のトリーテッド」としての追跡本能が、獲物を捉えるためのスイッチを完全に入れ込んだ。
「ヒッ!?」
背後に迫るプレッシャーを感じ取ったのか、逃げる羊トリーテッドは走りながら、狂ったように体を激しく震わせた。
ぶるるるっ!
その激しい震動に合わせ、彼の体から白い毛が、まるで爆発するように噴き出した。
それはもはや、単なる「毛」の飛散ではなかった。
視界を白く染め上げる、凄まじい勢いの綿の奔流。
同じ形、同じ大きさ、同じ純白の塊。
まるで生き物のようにフィールド上に次々と増殖し、四方八方へと飛び跳ねていく。
「な……分身した!?」
後方で絵里奈が驚愕の声を上げる。
視界は、舞い踊る白い粒子によって急速に遮られ始めていた。
でも、分身した個体を秋人は知っている。
魅兎。彼女と違って、このトリーテッドのソレは、ただの雪だるま製造機。
「匂いで丸わかりなんだよ!」
秋人は、右へと逃げようとした最初の塊へ、迷わず体を投げ出した。
渾身の右ストレートを叩き込む。
ボンッ!
衝撃が加わった瞬間、塊は音もなく霧散した。
中身のない綿の粒子が、スプレーのように秋人の顔を、そして夜の闇を白く染め上げる。
「甘い!」
秋人は勢いを殺さず、鋭く旋回して次の塊へ。今度は回し蹴りを叩き込む。
ボフッ!
「甘い!」
さらに、フェイントをかけて横へ逃げようとした塊のど真ん中に、拳を突き入れる。
綿が爆ぜ、白い吹雪が夜空に舞い上がった。
「甘すぎる!!」
羊トリーテッドは涙目になりながら、必死に「分身」を量産して逃げ延びようとする。
彼が震えるたびに、フィールドには新たな白い雲が立ち込め、まるでスタジアムの中に雪が降り積もっているかのような錯覚に陥る。
だが、秋人は止まらない。
「しかも、スタミナ回復とかするし」
「秋人……それ食べてたんだ……キモ……」
「違うって! 口に入ったんだっ」
巨大馬の無限のスタミナは、これのお陰。
だからこそ、この分身逃げと余りにも相性が悪い。
獲物を逃さない熟練の牧羊犬のように、無駄のない、それでいて暴力的なまでの速さでダミーを粉砕していく。
ボン!
ボフッ!
ドンッ!
打撃のたびに、綿の塊が弾け、白い霧となって空中に霧散する。
その粒子は秋人の肌に触れ、甘い香りを鼻腔に強烈に叩き込んできた。
「甘い!」
「甘い!」
「雪も、戦略も、綿菓子並みに甘すぎる!!」
激しい打撃音と、それとは対照的な、綿が舞う音。
スタジアムはもはや、白く、そして狂おしいほどに甘い香りに満たされた、幻想的な戦場へと変貌していた。
秋人は、舞い散る白いカーテンの合間を縫うように、着実に、本物へと距離を詰めていった。
そしてついに、スタジアムの隅、逃げ場を失った最後の塊。
秋人が、獲物を仕留める捕食者のような鋭さで、高く拳を振り上げた。
その瞬間――
綿の中から、情けない悲鳴が響いた。
「ま、待って欲しいッス!!」
ピタッ。
秋人の拳が、綿の塊の数センチ手前でピタリと止まった。
抵抗を諦めたように、綿の塊がシュルシュルと崩れ落ちていく。
中から現れたのは、茶色の巻き毛を持った、小学生か中学生かとほどの背丈の小柄な男だった。
そして頭には小さな角。
全身は、まるで着ぐるみのようなふわふわの白い毛に包まれている。
「この角って……やぎ?」
「羊ですよ。馬の次だから羊に決まってます」
「それはそうだけど。なんでセット?」
羊トリーテッド。
男は地面にへたり込み、頭上で必死に両手を合わせた。
「お、おいら! 悪いことしてないッス!」
逃げ場のない壁際で、ガタガタと体を震わせる羊の男。
秋人は拳を下ろし、ふんぞり返って腕を組んだ。
「……悪いこと。アタシたちを揶揄ったことくらいかな」
「っていうか。俺は犬だぞ。羊が犬から逃げ切れるわけねぇんだよ」
羊の男が、怯えきった丸い目で顔を上げた。
その瞳は、まさに草食動物そのものだ。
「本当に……待ってほしいッス……乱暴は反対ッス……」
秋人が低く唸るような凄みを見せる。
そんな中、後ろから歩いてきた絵里奈が、観察者のような冷めた目で見つめて言った。
「確かに、自我がある。トリーテッドですね」
男は絵里奈の足元へすがりつくように、必死に弁明を始めた。
「お願いッス! ほんとに、おいら、悪いことしてないッス!」
「いや」
秋人が、即座に、そして深く呆れた顔で突っ込む。
「さっき思いっきり巨大馬けしかけて、俺たちを襲ってきただろ」
「ち、違うッス!」
男は、ちぎれんばかりに首を振った。
「おいら、ただ偉い人にお金を貰っただけッス!」
秋人と絵里奈の眉が、同時にピクッと跳ね上がった。
男は、それが完璧な免罪符になると信じ切っているようだ。
「『枢木院のトリーテッドをおびき出して襲え』って、頼まれて馬を操っただけッス! お仕事だったッス!」
秋人と絵里奈の目が座る。
「だから!おいら自身は、悪いことしてないッス!!」
そのクズすぎる論理。
秋人はしばらく絶句した。
それから心の底からの蔑みを込めて、ゆっくりと言い放った。
「……普通に実行犯って言うんだよ。ゴリゴリに悪いだろ」
「そんなぁぁぁッス!?」
絶望の叫びが響いた、その時だった。
ブブッ。
絵里奈のポケットでスマホが震えた。
画面には『枢木院透子』の文字。
秋人は、羊の男を射抜くような視線のまま、絵里奈は通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
『そっちはどう? 馬は回収したけれど』
「ええ。こっちも、馬を操ってた親玉の『羊が一匹』捕まりました」
絵里奈が冷たく言うと、羊の男が「ヒッ」と短い悲鳴を上げて肩を震わせる。
『そう』
透子の声は、深夜の騒動の最中だというのに、氷のように落ち着いていた。
「で、どうします?」
秋人がニヤリと、少しだけ悪役のような笑みを浮かべて聞く。
「こいつも牙、抜きます?」
その言葉を聞いた瞬間、羊の男の顔から一気に血の気が引いた。
「や、やめてほしいッス!歯医者だけは勘弁ッス!!」
泣き叫ぶ羊の声を背景に、透子は少しだけ間を置いた。
『いいえ』
淡々とした、しかし抗えない命令。
『まだ抜かないで』
「は?」
『情報が欲しいの。その羊なら、いろいろと喋りそうでしょう』
透子の指示は続く。
『逃がさないように、そのまま歯科医院へ連れてきなさい』
「連れてくる?」
『ええ。今回の件、確実に裏で糸を引いている『誰か』がいるわ。そいつの正体を、じっくり聞かせてもらうから』
通話が切れ、絵里奈はスマホをポケットにしまった。
そして、ガクガクと震える羊の男を見下ろす。
男の瞳には、底知れぬ不安が満ちている。
秋人は、わざとらしく大きなため息をついた。
「……だってさ」
「身柄拘束、連行ですね」
絵里奈が、まるで儀式のように手首をパキッと鳴らした。
秋人は、逃げようとする男の肩を、逃がさないようにガシッと掴んだ。
「ほら、お縄だ。行くぞ」
「ヒィィ……! ど、どこへ連れて行くッスか!?」
おろおろと縋りついてくる男。
彼に対し、秋人はニッコリと、残酷なまでに爽やかに言い放った。
「決まってんだろ。お前が一番行きたくない場所……歯医者だ」




