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俺の犬歯が疼きやがる ~保険の利かない戦いがここにある~  作者: 乙女座の一等星
十二支との戦い・後編

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第31話 馬ディジーザー羊トリーテッド③

「ディジーザーに再生の力って……」


 秋人の言葉を裏付けるように、緑の絨毯が再び広がっていく。

 だが、感心している場合ではなかった。


「ってことは、あのまま草を食わせ続けたら……」

「体力が無限に全回復しちゃいます! エンドレス鬼ごっこです!」


 絵里奈が悲鳴のような声を上げた。

 スタジアムの奥では、赤い巨獣が再び首を下げ、美味しそうに青草を食もうとしている。


「食わせるかよ! 絵里奈、行くぞ!」

「はいっ!」


 スタミナ回復を阻止すべく、二人の涙ぐましい妨害工作が始まった。


「ストーップ!! そこ、飲食禁止エリアですよ!」


 まずは絵里奈が、ナース靴を鳴らして猛ダッシュした。

 両手を大きく振り回しながら突進してくる絵里奈に、馬は「ブルルッ」と鬱陶しそうに鼻を鳴らし、軽やかなステップで数十メートル先へと移動する。


「ああっ、逃げた! 秋人、今です!」

「任せろ! 俺の脚力を舐めんな!」


 移動先で再び首を下げようとした馬に向かって、今度は秋人がロケットスタートを切った。

 犬のトリーテッドとしての瞬発力をフル稼働させ、一直線に馬の横っ腹へ迫る。


「させねぇよ! 晩飯抜きだコノヤロウ!」

「ヒュゥゥゥンッ!」


 だが、馬は秋人が触れる寸前で、嘲笑うかのようにヒラリと身をかわし、またしてもスタジアムの反対側へと小走りで逃げていく。

 そして三度、足を止め、青草へ向かってゆっくりと顔を近づけた。


「……ま、待ちなさぁぁい……っ!」


 そこに、再び絵里奈が食らいつく。

 しかし、すでに限界を超えていた足はもつれ、声には先ほどの勢いは欠片も残っていなかった。


「芝生……食べたら……罰金、一万……えん……っ!」


 絵里奈の息も絶え絶えな警告も虚しく、馬はゆうゆうと移動していく。

 広大なフィールドを右へ左へと振り回され、二人の体力メーターはついに完全にゼロを指した。


「はぁっ……、はぁっ……」

「ぜぇっ……、ぜぇっ……」


 ガクンッ。

 スタジアムの中央で、秋人と絵里奈はもつれ合うように同時に膝をつき、そのまま芝生の上へ崩れ落ちた。


「……もう駄目……」


 完全に心が折れた二人のユニゾンが、夜のスタジアムに虚しく響く。

 そんな二人を少し離れた場所から見下ろし、赤い巨獣は「勝負あったな」と言わんばかりに、これ見よがしに首を下げた。


 ――むしゃむしゃ。むしゃむしゃ。


 静かなスタジアムに、馬が悠々と草を食む音だけが、絶望的なBGMのように響き渡る。


「くそっ……チート馬め……」


 秋人が芝生を力なく叩いた、その時だった。


 ◇


 夜空を切り裂くような強烈な突風が吹き下ろした!


 バララララララッ!


 サーチライトが、スタジアムを白日の下にさらけ出す。

 上空には、一機のヘリコプターがホバリングしていた。

 スピーカーから、ノイズ混じりの、しかし有無を言わせぬ透子の声が響き渡る。


『敵は成熟したディジーザーよ』

「透子先生っ?! っていうかヘリ?」


 そういえば、というより。

 執刀医である彼女の姿は、最初からなかった。


「先生、でも! あの馬、赤信号で止まってましたよっ」

「も……もしかして、生前、ルールを守っていた名残で赤信号で止まった……とか」

『残念だけど違うわね。アレはディジーザー。自我はとうに失われているわ』


 透子の声には、どこか冷徹な決意が宿っていた。


『歯科医師として不本意だけど、これを使うわ。秋人、受け取りなさい!』


 ドォォォォォンッ!!


 ヘリから、巨大な金属の塊がトラックへダイレクトに投下された。

 凄まじい地響きが二人を襲い、秋人は慌ててバックステップを踏む。


「殺す気か!! 落とした時の衝撃、すごすぎんだろ!!」

『ビットよ』

「なんだよビット! ビットコインでも降ってくるのか!?」

「秋人、ビットは『はみ』ですよ」


 横から、絵里奈が真顔で補足した。


「はみ? ……はにかんだ笑みとかの、エモいやつ?」

「そそ。こんな感じぃぃ~ん♡」


 絵里奈が両手で頬をぷっくりと膨らませ、首をかしげて、あざといほどに「ぶりっ子」な笑顔を作ってみせた。


 ……かなり、かわいい……じゃあなくって!


 秋人は、すぐに「落ち着け俺!」と自分を鼓舞する。


「そこ!? 今それどころじゃないだろ!」

「馬具の『ハミ』です! 馬の口に噛ませて、意思を伝えるためのやつ!」

『残念ながら歯科器具ではないけど。でも、歯の構造に関係しているのは確かよ』


 透子の解説に合わせて、絵里奈はいきなり自分の唇を指でグイッと横に広げ、「イーッ!」と、歯をこれでもかと剥き出しにする捨て身の顔芸を披露し始めた。


 やっぱり……可愛い


 秋人が再び意識を奪われかけたその時、透子の声がスタジアムに響き渡る。


『馬の歯には、前歯と臼歯の間に、歯の生えていない『歯槽間縁(しそうかんえん)』という特別な空白があるの。そこへ収めるのが――ハミよ』


 ◇


 秋人は大きく息を吸い込み、真っ直ぐに突進してくる巨大馬の正面へと、文字通り飛び込んだ!


「来いッ!!」


 ケーナインガイダンス


 ――犬としての超人的な動体視力と反射神経が、脳内を白く染め上げる。


 数々の走破を経て、もう馬の脚運びは、スローモーションのように予見できていた。

 突進の圧倒的な質量を、半身になって闘牛士のように受け流す。

 すれ違いざま、跳躍!

 馬の口元――あの空白の隙間へ、巨大なハミを叩き込む!


「ガキンッ!!」


 その瞬間、待機していた絵里奈が、ハミの両端のリングに、業務用デンタルフロスを、まるで投げ縄のように鮮やかに絡ませた!

 秋人はその端を掴み、全身のバネを使って力任せに手前へ引く。


「止まれぇぇぇーーーッ!!!」


 ギリギリッ、とハミが馬の口角を捉え、強烈な制動力が働く。

 巨大な馬の蹄が、土を派手に抉りながら、ついにピタリと止まった。


「……あれ?」


 秋人が、呆然とハミを握りしめたまま立ち尽くす。


「俺の力で……止まった……?」


 遠くから、絵里奈がメガホンを両手で持って叫ぶ。


「秋人! そのまま、出走しちゃいなさい!!」


 ◇


 狂ったような咆哮が、再びスタジアムを揺らした。

 赤い巨体は、秋人を背に乗せたまま、さらなる加速を見せた。


 フォン! フォンフォンッ!!


 まるでF1マシン。

 排気音を轟かせ、風の壁を物理的に突き破るような暴力的な速度。

 トラックを何十周と駆け抜けるたび、凄まじい蹄の圧力が地面を震わせ、ウレタンが弾け飛ぶ。


 そして空中に、真っ白な綿のようなものが大量に舞い始めた。


「雪……? いや、雪じゃない……」


 背中の上で、秋人が呆然と呟く。

 極限の速度で走り続け、摩擦熱で激しく泡立った、馬の「汗」かと思った。

 でも、それにしては固形の形をとどめ過ぎていた。


 得体のしれない、甘い匂い。

 まるで砂糖の結晶が宙を舞っているようだった。


「コイツのじゃ……ない……?」


 やがて、限界を超えて走り続けた巨獣が、ガクンと膝を折った。

 トラックの上に倒れ込み、激しく腹を上下させ、熱い息を吐き出す。


「馬って、あんなに大きくて強そうなのに」


 駆け寄った絵里奈が、汗にまみれた巨体を覗き込んで言った。


「意外と、持久力はそんなに……ないんですね……」


 秋人は、馬の頭に近づき、その鋭い牙へと手を伸ばした。

 いつものように、これを抜けばすべては終わる。


 馬鬼か、ただの化け物か。鬼か。


 今までもやってきたこと、今回は顔も名前も知らない──


 それでも、殺す行為には抵抗があった。


 そこに声


『待ちなさい』


 上空から、透子の制止が入った。


『その個体は、抜歯せずに回収するわ』

「はぁ? そんな手があったのかよっ!牙抜き案件で、やっぱり助け……」

『今抜いたところで、もう助からないわ』

「え……なら」

『……進行しすぎている』


 透子の声に、わずかな、本当にわずかな、苦渋のニュアンスが混じる。


『でも、炎症の痛みだけは、感じさせてあげたくないわ。上から落とすわよ。ユージノールを』


 小さなカプセルが舞い降り、秋人がそれを受け取る。

 蓋を開けた瞬間、鼻を突く、強烈な香りが広がった。


「……これ、整腸剤か?」

「いえ、クローブの香り。つまり、歯医者の匂いです」


 絵里奈が冷静に教える。

 秋人は、その鎮痛剤を馬の牙の根元へと、丁寧に、祈るように塗り込んでいった。

 やがて、馬の荒い呼吸が、穏やかなものへと変わっていった。


『それと……ね』

「はい? なんですか?」


 その後、夜空には複数のヘリの音が響き渡り、スタジアムを埋め尽くした。

 深い眠りについた赤い巨獣は、頑丈なワイヤーネットに包まれ、数機のヘリによって、夜空へと静かに吊り上げられていく。


『……いえ、なんでもないわ』


 秋人と絵里奈は、西刃神市の夜空を高く昇っていく。

 あの巨大な赤い影を、ただ黙って、いつまでも見送っていた。


 枢木院透子もそれ以上は何も言わず、ヘリの一団の一つの人影に呑まれていった。


 ◇


 ローター音が、夜空の深淵へと吸い込まれるように遠ざかる。


 戦場だったスタジアムには、耳が痛くなるほどの、しかし空虚な静寂が戻ってくる。

 照り返すライトの下、無残に剥がれたウレタンのトラックと、獣の爪で抉られたかのような芝生。


 追いかけっこをした痕だけが、たった今ここで行われた激闘の凄まじさを物語っていた。


「ん?」

「あれ?」


 その時だった。


 夜風に揺られてフィールドを漂う、白い綿の塊。

 その一つが、絵里奈の視界に不自然な動きを見せた。


「すん、すん」


 彼女は猫のように鼻をひくつかせ、空気の味を確かめるように立ち止まった。


「あの……さ」

「ん?」


 帰り支度をしていた秋人が、面倒そうに、しかし素早く振り向く。


「なんか、すごくいい匂いしない?」

「匂い? さっきまでのユージノールだろ。血と汗が混じった、正露丸みたいなツンとしたやつ」

「じゃなくて!」


 絵里奈が指差したのは、芝生の上にぽつんと取り残された、

 ひときわ巨大な白い綿の塊だった。


「あそこから、綿菓子みたいな……甘ーい匂いが……」


 秋人は軽く目を剥いた。

 そして絵里奈が言い終わるより早く、

 その「綿」が、意志を持っているかのようにもこりと波打った。


 馬の汗の泡だと思っていた白い塊。

 甘い匂いの砂糖の結晶。


 だと思っていたものが、内側から膨らむように揺れる。

 そして、その柔らかな繊維の間から、ちょこんと二本の小さな角が覗いた。


「……羊?」


 絵里奈が目を丸くした瞬間、その塊は風船が割れるような音を立てて、鮮やかに弾け飛んだ。


 ――ぴょんっ!


 中から飛び出したのは、目にも留まらぬ速さでスタジアムの出口へと駆け出す。


 小柄な影だった。


「逃げた! っていうか、なんだ?」


 秋人が眉を寄せた。

 すると、絵里奈がポンと手を叩く。


「あ、そっか。馬はディジーザー。意志を持っているように見えたのは……」

「馬だけじゃなかった……ってことかよ!」



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