第30話 馬ディジーザー羊トリーテッド②
深夜の静寂を切り裂いて、一台の往診車が猛スピードで街を駆け抜けていく。
謎の巨大生物を追うが、余りにも速くて姿かたちも見えない。
二人は、闇の夜中で懸命に探す。
——その時だった。
ビュンっ!
暗闇に沈む交差点のど真ん中。
巨大な紅い影が、重力を無視したかのような跳躍で横切った。
「見えたっ!」
「いたッ! あそこにいる! 行け、全開で行けぇー!!」
助手席の秋人が、車から飛び出しそうな勢いで身を乗り出し、窓の外へと叫ぶ。
「キキィィィィィィィッ!!」
だが、その直後に強烈なGが二人を襲った。
「うわっ、おわわわっ!」
前のめりに投げ出された秋人の頭が、危ういところでダッシュボードに激突する。
「いてて……。って、ちょっと! なんでここで止まるんだよ! 今行けたら追いつけたのに!」
「だって赤信号です!」
絵里奈はハンドルを白くなるほど握りしめたまま、一分の隙もないキリッとした横顔で前方を睨みつけた。
「いくら緊急事態でも、交通ルールは守らなきゃダメでしょ!ここは止まるのがマナー!」
「マナーで追いかけられるターゲットが待ってるかよ!」
青信号に変わった瞬間、車は再び猛烈な加速を始める。追い上げる二人。しかし、またしても赤。またしても停止。
律儀に止まり、また離される。この不毛な繰り返しを三度繰り返した時、交差点の先に佇む「赤い影」が目に入った瞬間、車内の二人の声が完璧なユニゾンで重なった。
「……ねえ、あの馬、ちゃんと」
「……赤信号で止まってね?」
「意志を持ってる……ってことは」
「ディジーザーじゃなくて、今度もトリーテッドかよっ」
そしてシグナルが変わる。
やがて、ターゲットである馬は、市営の広大な陸上競技場へと足を踏み入れた。
追う往診車も、獲物を追い詰めたかのようにゲートの前で勢いよく止まる。
ガチャと音をたて、バンと軽自動車の軽いドアがしまる。
そして、二人の表情も引き締まる。
「……これ、中に入っていいんですよね?」
「俺に聞かれても。赤信号は止まるんだったら、不法侵入は駄目なんじゃ」
「赤信号とディジーザーは関係ありませんよ。……よし、入りましょう」」
「いや……どういう理屈だよ……」
◇
二人は意を決して、静まり返ったスタジアムへと踏み出した。
ナイター照明の消えたトラックは、深い闇に沈んでいる。
その中央、暗闇に浮かび上がるのは、ただの馬ではなかった。
それは、地上最大の哺乳類、パラケラテリウムを彷彿とさせる
――見上げるほどの絶望的な体高を持つ、紅蓮の巨獣だった。
夜風にたてがみをなびかせ、怪物の如き威容を誇るその姿は、静寂の中で異様な存在感を放っている。
だが、静寂は一瞬だった。
「ヒュゥゥゥゥンッ!!」
F1マシンの排気音を思わせる、鼓膜を震わせるような甲高い鳴き声を上げ、赤い巨体が突進してきた。
「う、うわあああ!? 来るよ、来るぞこれ!!」
「逃げなきゃ!!」
悲鳴を上げる間もなく、二人は一目散にトラックの上を走り出した。
「も、もうむりぃぃ! 足がもつれるぅぅ!」
わずか数百メートル。絵里奈は早々に限界を迎え、息を切らしながら内側の芝生へと崩れ落ちた。
しかし、巨獣は倒れた絵里奈を、まるで道端の小石か何かのように完全に無視し、砂煙を巻き上げながら秋人だけを執拗に追い回す!
「なんで俺ぇぇ!? 俺、そんなに美味しそうに見える!? 食べないで!!」
秋人は半泣きになりながら、巨大なスタジアムを、全力のダッシュで一周、二周と回り続ける。
「おい絵里奈! ちょっとは助けろよ! バトンタッチだ、バトンタッチ!!」
「そんなの無理に決まってるでしょ!!」
横倒しになっていた絵里奈が呆れて叫んだ、その時。
二人の脳裏に、ある共通の疑問が閃いた。
「って、待てよ」
秋人が、汗だくの顔で後ろを振り返る。
「バトンタッチってなんだよ! ……っていうか、こいつ、さっきの赤信号の時もそうだけど、明らかに意思を持って走ってないか!?」
「……ですね。やっぱり、トリーテッドってことです」
絵里奈の冷静なツッコミが、秋人のパニックに突き刺さった。
「意志持ちかよ。だったら、話が通じるってこと?」
秋人は後ろを振り返り、肺を限界まで膨らませて馬に向かって叫んだ。
「おい、そこのデカ馬! 止まれ! 俺たちは怪しい者じゃ……うわあああっ、踏むな! 踏むなって!!」
秋人の言葉など意に介さず、馬はF1のような排気音を轟かせてさらに加速してくる。
「ダメだ、全然言葉通じねぇ! 目から殺意しか感じない! 絵里奈、お前もなんか言え! バトンタッチ!!」
秋人がトラックの内側に飛び込んで芝生をごろごろと転がり、代わりに息を吹き返した絵里奈がトラックへ飛び出した。
「任せてください! こういうのは動物への愛情が……きゃあああっ!? なんでアタシにはもっと速いの!?」
猛スピードで迫り来る赤い巨獣に、絵里奈は必死に手を振り回しながら叫びながら走り出した。
「ねえ、ちょっと! お馬さん! 赤信号はちゃんと止まれたじゃないですか! 今は止まれの合図ですよ! ストーップ!!」
だが、馬はたてがみを振り乱し、絵里奈を鼻先で吹き飛ばさんばかりに追い上げてくる。
「ルール無用!? なんで!? ねぇ、人参! 高級な人参買ってあげるから! 叙々苑のサラダでもいいからぁぁ!」
「馬に焼肉屋のサラダが通じるかよ! そもそもお前、愛情じゃなくて金と食べ物で釣ろうとしてるだろ! ダメだ、バトンタッチだ、バトンタッチ!!」
見かねた秋人が再びトラックに飛び出し、絵里奈が転がるように芝生へと退避する。
「ハァッ、ハァッ……! おい、赤兎馬! お前の主君の呂布はどこ行ったんだよ! 俺はお前の背中には乗れないぞ! 絶対に腰が砕ける!」
秋人は必死に手足を動かしながら、後ろを振り返りつつ叫び続ける。
「ていうか、なんでまた俺ばっかり追いかけてくるんだよ! 俺から美味そうな匂いでもすんのか!? 犬の力があるからって、食べても犬臭いだけだぞ!!」
ヒュゥゥゥゥンッ!!
馬は返事の代わりに強烈な嘶きを上げ、秋人の背中すれすれを巨大な蹄が掠めた。
「ヒィィィッ!! 話し合いの余地ゼロ!!」
どうにか距離を取り、スタンドの陰に身を隠した秋人は、まるで内臓がせり出すような荒い呼吸を繰り返していた。
「はぁ、はぁ……。そもそもよぉ、透子さんはなんて言ったんだよ。『これ、追いかけなさい』って、命令がざっくりしすぎなんだよ!」
「刃神市長からの直々の依頼ですから、仕方ないでしょう」
壁に背を預け、肩で息をする絵里奈が答える。
秋人は不貞腐れたように顔をしかめた。
「……また市長かよ。あのおっさん、一体裏でどんなヤバいブツを集めてるんだよ……」
「文句を言っても始まらないわよ。背に腹は代えられないし」
絵里奈がため息をつきながら続けた。
「ウチのクリニック、建物はボロいし、普段はマジで閑古鳥が鳴きっぱなしなんだから」
「……っ!」
秋人が、鋭い視線を絵里奈に向ける。
「……お前、気づいてたんだな。病院がマジで経営難だってこと」
「そりゃあ、毎日受付で、患者さんの少なさを数えてるんですもん」
「……よし、いいことを教え」
「過疎配信者に言われたくないのだ」
◇
犬と猫、二人のトリーテッドが様子を見る。
視線の先、スタジアムの中央。
秋人と絵里奈が死ぬ物狂いで走り回っている間、あの赤い巨体はどうしていたか。
トラックを何周も爆走したはずの馬は、まるで散歩帰りの子犬のように、全く疲れた様子はない。
のんびりとフィールドの芝生に歩み寄っていた。
そして、なんと――
「むしゃ……、むしゃ……」
巨体に見合わぬ、あまりにも穏やかな音を立てて、草を食み始めた。
「そっか……人参じゃダメだったんだ」
「気にするとこ、そこ? 確かに馬って、草食ってるイメージある」
「秋人。普段、飼葉とか食べるんですか?」
「なんで俺が草を食う前提なんだよ! 俺は犬だけど、草食動物じゃないぞ!」
秋人の突っ込みに、絵里奈はさらに驚いた顔で返す。
「いや、なんでも食べる食いしん坊だと思ってたから! わんこにも犬草があるじゃないですか。お金のない秋人なら、雑草とか食べてそうだし。わんこだし」
「食べるか! ドッグフードですら ……いや、食ったわ!」
「草です。やっぱ犬じゃないですか」
「食ったことあるだけだよっ!」
漫才のようなやり取りを続けながら、
絵里奈の視線は、食欲旺盛な巨獣から離れない。
「……あれ? あの子、止まるたびに草を食べて、スタミナをチャージしてますよ」
「……は?」
彼女の、猫の目が間違いなく捉えた。
輪郭もしっかりと、色彩もハッキリと。
「スタミナ回復してるのか? 馬だから?」
「回復してるって、秋人、草生えたーー!!」
「また! 今どき『草生える』なんて言葉使う奴、お前くらいだぞ!」
「違います! 物理的に、ですよ!!」
絵里奈が指差した先――
秋人が目を凝らすと、そこには信じられない光景が広がっていた。
巨大な蹄に踏み荒らされ、食いちぎられ、無残に削り取られたはずのフィールドの芝が、馬が歩いた後に波打つように、異常な速度で青々と再生していた。
「マジ? ……かよ……。でも、なんで」
秋人が呆然と呟く。
「蛇のディジーザーの時は、命を奪う『毒』の力でした」
絵里奈が、月明かりに照らされる赤い巨獣を、畏怖の念を込めて見上げる。
「でも、その反対は……」
「命を吹き込む……『再生』の力、ってことか」




