第29話 馬ディジーザー羊トリーテッド①
階段を転げ落ちながら、蛇は絶叫した。
巨大な体が急速に縮み、やがて全裸の与那国の姿へと戻る。
だが、その姿が警察関係者に確認されるのは、彼が泊まっていた部屋である。
白目を剥き、口から泡を吹きながら
最後の力を振り絞るように夜の虚空を睨みつけた。
「あの……犬……が……」
呪詛のような言葉を残し、与那国の意識は完全に途切れた。
◇
最終的には、蛇ディジーザー騒ぎ。
警察に引き継ぎ、透子たちがホテルへ戻る頃には、時計の針は次の日を指していた。
長い、長い一日だった。
ロビーにはまだ、状況が分からず足止めを食らっている学会関係者の姿がまばらに残っている。
「つっかれた……」
秋人はロビーのふかふかなソファに、泥のように深く沈み込んだ。
「巨大蛇の牙をフロスで抜くなんて、普通やりませんからね」
「ってか。絵里奈も普通に馬鹿力だな」
絵里奈も首の裏を押さえ、ゴキゴキと肩を回しながら隣に座る。
「アタシは馬でも鹿でもないから、猫力と言ってください」
「そこ、訂正要る?」
透子は軽口を叩く二人を一瞥したが、何も言わずにただ立っていた。
その時だった。
「おかえり……」
静かなロビーに、穏やかな声が響いた。
三人が同時に振り向いた。
少し離れたソファに座り、コーヒーカップを傾けていたのは――鷲羽山進だった。
「先生」
透子が居住まいを正す。
鷲羽山はカップを置き、静かに問うた。
「調査はどうだった?」
「やはり、トリーテッドは与那国所長でした。……いえ。最初はトリーテッドだったのですが、私の説得が甘かったです。興奮状態のせいか暴走し、ディジーザー化していました」
「成程。で、その後の処置は?」
「ええ。牙抜きは完了しました」
鷲羽山は深く目を閉じ、長い沈黙に沈んだ。
「……そう……か」
少しして、絞り出すように言う。
「私も、心のどこかで危惧していたんだよ」
「危惧……ですか?」
「枢木院くんなら、もう分かっていると思うがね」
絵里奈が不安そうな顔で透子を見る。
秋人も、重苦しい空気に耐えかねて三人の顔をきょろきょろと見回した。
「……んと。どういうことだ?」
透子が、冷たい声音で代弁した。
「先生、それはつまり……邪歯をトリーテッドする、『牙抜き』の技術が」
鷲羽山は重々しく頷いた。
「あぁ。間違いなく、我々の技術が何者かに盗まれ、独自に悪用されている」
夜中のロビーの空気が、凍りついたように静まり返る。
「いや、竜崎がどうとかって言ってなかった? 竜崎は」
「あぁ。彼……か。連絡がつかなくなってしまってね」
すると今度は、ピンク衣の上からジャケットを羽織る絵里奈が首を傾げた。
「何者かって……。その竜崎って人は歯科医師じゃないんですよね。それが嘘……とか」
「いえ……それはないわね。ネットで確認ができるもの。それに」
「それに……?」
「歯科医師は年々増えてて、それこそ——」
透子が説明をしようとした。
すると老爺は教え子を手で制した。
「……前にも言った通りだ。私より若く優秀な歯科医師はごまんといる」
「っていうかさ。今更だけど、邪歯治療は枢木院の技術なんすよね」
「ふむ……。そうとも言うが……」
教授は自嘲気味に笑い、続けた。
「残念ながら……医療行為というものには、『特許』という概念が存在しないのだよ」
◇
枢木院歯科医院の待合室には、すでに患者の姿はない。
診療時間を過ぎて薄暗くなった空間に、壁掛けエアコンの低い唸りと、微かな消毒液の匂いだけが単調に漂っていた。
「……医療行為に特許なし、か」
待合室の長い革張りソファに寝転んだまま、犬塚秋人がぽつりと呟いた。
「学会でさ。あの偉そうな鷲羽山教授が言ってたやつ。あれって本当なのか?」
受付の奥で、膨大なカルテの整理をしていた枢木院透子の手が、ピタリと止まる。
「……半分正しくて、半分違うわね」
「違うの?」
「新しい医療器具や、開発された新薬そのものには特許が存在するわ。でも、それを使った『手術の手順』や『治療のやり方』そのものは、特許法では保護されない。人の命を救う技術を独占せず、誰もが等しく医療を受けられるようにするための人道的な原則よ」
秋人はソファの上で腕を組み、怪訝そうに眉をひそめた。
「っていうかさ」
首の後ろで両手を組み、真っ白な天井を仰ぎ見る。
「もし昔の妖怪退治の正体が『邪歯の発症』だったとしたら、もっと普通に歴史の教科書に載ってたり、世間に知られてそうだけどな」
少し離れた受付カウンター。
そこから、パソコンを叩いていた古川絵里奈が顔も上げずに即答する。
「秋人はここのお世話になるまで、そんな病気があるって一ミリでも知ってました?」
「いや、全然。動画でも、都市伝説でも」
「それが答えですよ」
絵里奈のよく分からない正論に、透子が静かに言葉を継ぐ。
「知識としては残っていても、それが『現実の病気』だと理解している人は少ないのよ。昔話、迷信、都市伝説……現代人は皆、そういう自分に都合のいい箱に異常なものを放り込んで、見なかったことにして終わる。それが一番、平穏に生きられるから」
透子は言葉を切り、真っ直ぐに秋人を見据えた。
「でも、現場に立てば、それが血の通った現実になる」
秋人がガシガシと乱暴に頭を掻く。
「……嫌な現実だな」
透子は手元のカルテに視線を落とし、忌々しそうに短く言った。
「えぇ。だから腹が立っているのよ。人の命を救うための私の技術が、あんなふざけた暗殺の道具に悪用されていることに」
重い沈黙が落ちた。
息苦しくなりかけた空気をぶち破るように、絵里奈が突然、ぽんと大きな音を立てて手を叩いた。
「あー!」
突然の大声に、秋人がビクッと肩を揺らす。
「なんだよ急に!」
「ほら、昨日の巨大な蛇! ヤマタノオロチみたいなでっかいのがいたじゃないですか!」
「はい?」
きょとんとする二人をよそに、絵里奈はカウンターから身を乗り出して力説する。
「もしかして、神話でオロチを退治したスサノオノミコトも、実はただの腕のいい歯医者だったとか……!」
「……」
「……」
「……なんちゃって。流石に飛躍しすぎですよねー」
絵里奈がテヘッと笑って誤魔化そうとした瞬間。
ソファに寝転がっていた秋人が、蘇るゾンビのように、ガバッとゆっくり体を起こした。
「確かに!!」
秋人は我が意を得たりとばかりに、バチンと指を鳴らした。
「俺達もそういえば、辰を大人しくさせるために巨大な麻酔使ったし! オロチに強い酒を飲ませたって神話と完全に一致する! ってことは、あの倒した恐竜の尻尾の中には、伝説の草薙の剣が――」
「……秋人ぉ」
絵里奈が、生ゴミの底でも見るような、絶対零度の冷ややかな目を向けた。
「なんか、急に一人でオタク全開にして早口で盛り上がってんの、マジでキモいんですけど」
「はぁ!?」
絵里奈の容赦ない軽蔑の視線が、秋人の心にグサグサと突き刺さる。
「急に神話と深夜アニメを混同しないでくださいよ」
「お前が始めた物語じゃねぇか!! なんで乗っかった俺だけが滑ったみたいになってんだよ!」
「二人とも、それくらいにして」
また、ギャーギャーと騒ぎ始めた二人。
透子が静かに、だが逆らえない冷たさで制した。
「馬鹿げているように聞こえるかもしれないけれど、実際、その可能性はあるのよ」
「えっ、じゃあ尻尾から剣が出るんですか!?」
「それは出ないわよ」
即座に否定し、透子はカルテの束をトントンと机で揃えた。
「でも、ただの病気が『伝説』として語り継がれたことには、明確な理由がある」
――ゴンッ。
絵里奈の容赦ない拳が、秋人の頭頂部にクリーンヒットした。
「痛ぇっ!!」
涙目になる秋人を完全に無視して、透子が続ける。
「ディジーザーの原因となる『邪歯』自体が、本来なら何百年に一度という、それこそ伝説レベルの極めて稀な症例なのよ。それが、こんな短期間に連続で現れること自体、異常事態なの」
絵里奈が受付の引き出しを開け、一枚のまとめられたカルテを取り出した。
「ほら、これを見てください」
秋人の目の前のローテーブルに、それがバサリと差し出される。
そこに記されていたのは、秋人がこの歯科医院に関わるようになってからの、トリーテッド及びディジーザーの初診記録だった。
四月十日: 犬(秋人)
第一例:ネズミ(不明)
第二例:牛(不明)
第三例:虎(不明)
第四例:兎(魅兎)
第五例:辰(アロサウルス・バイルロン社員)
第六例:蛇(与那国)
綺麗に十二支の順番に並んだそのリストを見て、秋人の顔が引きつった。
「……嘘だろ。俺がここに来てから、まだたったの四ヶ月だぞ?」
秋人は信じられないものを見るように、カルテと透子を交互に見る。
「いくらなんでも、ハイペース過ぎるし多すぎるでしょ。ソシャゲのイベントじゃないんだぞ」
透子が、氷のように冷たい声で静かに言った。
「普通なら、一生に一度も出会わない。だから言っているの。絶対におかしいって」
◇
その夜。
怒涛の学会と大捕物から解放され、ようやく自分のアパートへ帰ってきた秋人は、1Kの玄関ドアを開けた瞬間、思わず顔をしかめた。
昼間の熱気をたっぷりと吸い込み、完全に密閉されていた部屋から、むわっとした空気が暴力的に流れ出してくる。
「暑いを通り越して熱い!」
靴を乱暴に脱ぎ捨てるなり、サウナのような部屋の奥へ飛び込んだ。
そして、エアコンのリモコンをひったくるように掴んだ。
「マジで地球、温暖化しすぎだろ!」
ピッ。
古い備え付けのエアコンが、ガタガタと頼りない音を立てて冷風を吐き出し始める。
秋人は冷蔵庫から適当なグラスを取り出して麦茶と氷を放り込み、汗ばんだシャツのまま、きしむ狭いベッドにドサリと倒れ込んだ。
くるくると回るエアコンのルーバーを見上げながら、ふと呟く。
「……って、温暖化だ」
手に持ったグラスの中で、溶けかけた氷がカランと涼しげな音を立てた。
「邪歯の大量発生は、地球温暖化で地殻変動が起きて、氷河期から眠っていた古代のウイルスの封印が解けたせいじゃ――」
冷たいグラスの側面を熱い額に当てながら、一人で真剣に考える。
「……いや。流石にそんな深夜のB級映画みたいな訳あるか。疲れてんな、俺」
その時だった。
――フォォンッ!!
耳を劈くような、F1マシンのエキゾーストノートに似た甲高い風切り音が、薄い窓ガラスのすぐ外を走り抜けた。
「……は?」
秋人が体を起こす。
――フォォンッ!!
今度は反対方向。
窓の向こう、オレンジ色の街灯に照らされた夜の路地。
一瞬だけ「赤い影」がよぎる。
アスファルトを蹴り砕くような、凄まじく力強い四本脚の軌跡。
――フォォンッ!!
「それってつまり――」
カルテに書かれていた異常なリスト。ネズミ、牛、虎、兎、辰、蛇。
その次にくる干支は。
――フォォンッ!!
「赤兎馬かっ!? 呂布の乗ってた一日に千里を走る伝説の馬じゃん! すげぇ、再現度たけ――」
「って違うでしょ! ゲームのやりすぎです!」
窓の下から、拡声器を通したような絵里奈の鋭い声が飛んできた。
「絵里奈?」
秋人が慌てて窓を開けて下を見下ろす。
路地に横付けされた枢木院歯科医院の白い往診車――その運転席から、絵里奈が身を乗り出して上を見上げている。
「あの速さと排気音みたいな鳴き声、それを言うならスーパーカーでしょ!」
「いや、馬にスーパーカーって例えはおかしいだろ! ってか、絵里奈。なんでお前がここに――」
「なんでじゃないでしょ! 先生の予測通り、次が出たんです!」
絵里奈が助手席のドアを、バンッと内側から蹴るようにして開けた。
「さっさと降りて、早く乗って!!」




