第28話 蛇トリーテッド⑧
秋人の嗅覚が導く。
というより、あの記憶が導く。
アーケードの喧騒からは少し離れた、路地裏に建つ古びたビジネスホテル街。
「枢木院……先生ですか?」
数名の男女が見せたのは警察手帳だった。
あらかじめ連絡を入れていたのか、私服の警官がいた。
「えっと? どうして」
「い……いえ。市内の目ぼしい場所で待機するようにと」
「そうですか。なら、この建物を見張っていてくれます?」
「はっ!」
その一つの建物に秋人は狙いを定めていた。
彼らが周辺を見張っている中、三人は建物に入った。
その薄暗い廊下を進み、
くんっ!
と鼻を鳴らす。
「秋人、よく分かりますね」
「猫より犬の方が嗅覚は鋭いからな」
半眼の衛生士に、鼻をもう一度鳴らす。
秋人を先頭に、三人は階段を上った。
その直後。
「あ……。アタシも分かりました」
絵里奈も嬉しそうに報告した。
「俺の勝ちだな」
「むぅ……」
透子はエレベーターを前に、軽く肩をすくめた。
「私には全然ね。でも、居るのは分かる」
そして、一番奥の部屋の前に立つ。
八階建ての四階の一部屋だった。
透子は、躊躇いなくノックをする。
「……」
返事はない。
だが、厚い扉の向こうからは、獣のような荒い息遣い。
それと、何かが這い回るような『ごそごそ』というひどく生々しい音が聞こえる。
透子が急いでドアノブを回すと、鍵は開いていた。
そして重い扉が開く。
同時に夏場の熱風が、逃げ場を見つけて三人の顔を覆う。
「暑っ! なんだ、これ」
エアコンの切られた蒸し風呂のような部屋。
その中央で、一人の男がうずくまっていた。
大量の脂汗を流し、血走った目でこちらを睨みつけている。
「マジであのセミナーの……」
西刃神市保健所長――与那国だった。
すると震えた老人は睨みつけた。
「……何故、ここにいる」
与那国がかすれた声で絞り出す。
透子は部屋に充満する異臭に顔をしかめることもなく、いつの間にか着ていた白衣のポケットに手を入れた。
「牙抜き案件よ。あなた、トリーテッドだったのね。でも、調整が不完全でディジーザーに落ちかけている」
その瞬間、与那国の顔が絶望と怒りで醜く歪んだ。
「認めん……! 私は、選ばれたのだ……っ!」
メキメキッ! と。
「与那国っ! それ以上はやめなさい」
「せんせい?」
「秋人。……ちゃんと見とくのよ」
「へ?」
与那国の背骨が、布を裂くような異常な音を立てて隆起した。
着ていたスーツが弾け飛び、肉が風船のように膨れ上がり、骨が内側から軋む。
「ちょ、ちょっとどういう」
「与那国。落ち着いて、症状をいいなさい。深呼吸して」
「認めん……。 お前らなど……」
人間の骨格が、瞬く間に変わる。
長大で悍ましい爬虫類のそれへと再編されていく。
「魅兎の時と……同じ?」
「いえ……。全然違うわ」
現れたのは、部屋の空間を埋め尽くすほどの、巨大な蛇だった。
シャァァァァァァァァアアアアア!!
鼓膜を破るような威嚇音。
巨大な尾が振り回され、ユニットバスの壁が紙のように粉砕される。
「マジ……かよ。絵里奈!!」
秋人が咄嗟に叫んだ。
「はい!」
「先生を安全な場所へ! 俺が引きつける!」
「うん! そのつもりっ!」
◇
秋人は絵里奈に透子を任せ、自らは崩壊していく部屋の中に残った。
「魅兎の時と違う……?」
迫り来る鋭い牙を間一髪で躱す。
手当たり次第に、スウィートルームとは質の違う室内で、立ち向かう。
安めの椅子やら、ランプやらを投げつけて、しばらくの間はどうにか大蛇の意識を自分へ向けさせ、牽制を続ける。
「てか。与那国!トリーテッドっ!蛇トリーテッド! トリーテッドなら」
だが、彼は聞いていない。
与那国の変異はそれで止まらない。
部屋の壁をひしゃげさせ、天井をぶち抜く。
それほどに、あまりにも膨らみすぎた大蛇。
「へ……? いやいや」
その質量を前に、秋人はついに己の限界を悟った。
「無理無理無理無理ィ!!」
秋人はひしゃげたドアの隙間から、薄暗い廊下へと決死のダイブで飛び出す。
「押しつぶされるってっ!」
弾かれたように立ち上がり、廊下の突き当たりにあるエレベーターへと全力でダッシュする。
「開け開け開け開けッ!」
祈るように下ボタンを連打するが、無情にも階数表示は一階だった。
こんなことなら、入る前にエレベーターのボタンを押せばよかった。
「一階……二階……」
ドンッ!
背後から、部屋の壁が砕け散る轟音が迫る。
「くそ、絶対に間に合わない!」
秋人はエレベーターを諦め、すぐ横の重い非常口の扉を蹴り開けた。
ホテルの屋外にある、錆びた鉄骨の非常階段へと転がり出る。
「なんで俺は引きつける!っとか!カッコいいこと言っちゃったんだあああ!!」
秋人は半泣きになりながら、カンカンと甲高い音を立てて階段を駆け上がった。
その直後、ホテルの外壁が内側から爆発するように吹き飛び、巨大な蛇が屋外非常階段に頭を出した。
「シャァアアアッ!」
「どうだっ! 日の光をくらえ、化け物っ!」
僅かな間……
「シャァアアアッ!」
「利いてない! 化け物って日の光に弱いんじゃあないのかよ!」
下から突き上げるように、巨大な顎が秋人を襲う。
間一髪で身を翻すと、秋人がコンマ数秒前までいた場所の鉄柵が飴細工のようにぐしゃりと歪み、外壁がボロっと崩れた。
「ヒィッ!」
休む間もなく次の階層へ駆け上がる。
蛇は器用に体をくねらせ、建物の外壁を這い上がる。
「太陽だぞっ! 速く、干からびるか、燃えるか……っていうか!」
だが効かず、何度も秋人を喰らおうと執拗に首を伸ばしてくる。
「蛇じゃん! 蛇って太陽に光で……」
右から迫る牙をジャンプで躱す。
左から薙ぎ払うように飛んできた頭を、手すりを蹴って強引に飛び越える。
「蛇って太陽で死ぬ? いや、このままじゃ俺が死ぬ!!」
悲鳴を上げながら、必死の回避行動で牙を避け続ける。
「なんで、太陽で死ぬと思ったんだよ、俺っ!」
「シャァァァァァァァァアアアアア」
秋人はようやく屋上の扉へと手をかけた。
「普通、怪異って太陽に弱いっすよね、せんせ……」
その時だった。
「ん……?」
ガガンッ! メシャァッ!
背後で派手な衝突音がした。
振り返ると、巨大蛇が非常階段の途中で完全に詰まっていた。
長くて太すぎる体が、四角い螺旋状の階段の折り返し部分に引っかかっていた。
無理に追おうとして「知恵の輪」のように、自分の体を絡ませてしまっているのだ。
「こういうの見るとディジーザーって感じ……」
秋人が呆れながら屋上へ飛び出す。
蛇は階段に体を固定されたまま、長い首だけを屋上へ向かって伸ばし、シャーッと牙を剥いてきた。
「ね、先生。やっぱディジ……せんせ?」
白衣の美人女医。
隣にはやはりいつの間にかピンク衣に着替えた絵里奈。
が、いると思っていたが、残像どころか気配もなかった。
「え……?」
すると。
下から、透子の凛とした声が響く。
「秋人! よくやったわね!」
「流石は秋人。なんとかと煙は高いとこが好きですね」
「はぁぁぁあああ!」
何故か二人は地上にいた。
そも、四階に上がった後、透子はエレベーター前にいた。
そして秋人がボタンを押した時は一階を示していた。
「下なら下ってさぁあ!」
「後ろ、蛇のディジーザーよ!」
「うわっ」
「毒に気をつけなさい。——邪歯は、上顎の『二本』よ!」
なんで上に逃げた、なんて思う暇もない。
秋人がたじろいだ瞬間。
背後から、生臭い匂いが迫る。
「マジかよ! あんなデカい口の、二本同時なんて俺の手じゃ無理だろ!」
一人で、こんな大蛇以上の怪物の牙抜き。
食べられる未来しか見えない。
そんな絶望的な視界の端にポンと音。
「秋人、受け取って!」
下から、四角い紙箱が放り投げられた。
見事な放物線を描いて飛んできたそれが、足元に転がる。
「箱でどうしろと……」
「ラテックスグローブよ!」
「は? ラテックスってゴム手袋?」
下からの透子の真顔が頭に浮かぶ。
彼女は本気で戦えと言っている。
「野生動物の口腔内に素手で触れるなんて言語道断! 感染対策、毒対策には必須でしょ!」
「それはそう! マジのガチの命がけじゃん!!」
秋人が半狂乱でゴム手袋をはめる。
するとさらに続く。
「絵里奈! あれは持って来てる!?」
「勿論ですよ!」
絵里奈、ピンク衣が背負ったリュックから何かを取り出した。
彼女の姿は外階段の折れ曲がった鉄柵の間から見える。
「アタシは歯科衛生士に誇りを持ってますから!」
ヒュンッ!
下から屋上に向かって、何かが投げ上げられる。
8階建ての屋上だ。
尋常ではない肩の力。
さっきの箱も恐らく、彼女が投げた。
ネコの力を持つ、トリーテッド。
——古川絵里奈
秋人がキャッチしたのは、巨大なプラスチックのケースだった。
「え……なにこれ」
「業務用デンタルフロスです!!」
「こんなデカいフロスがあって堪るか!! 工事現場のロープだろこれ!!」
秋人の魂のツッコミを完全に無視し、絵里奈は以前に山で見せた、そして魅せた跳躍で、壊れた非常階段を上り始めた。
そこでもう一本、自分の手元にフロスを引っ掛けながら叫んだ。
「秋人は、そっちで右の歯に括り付けてください!」
「括り付けるって……」
「蛇の牙は食い込みやすくなってるんですっ! よく見てください」
「あ。確かに、牙が引っかかりやすい形状だから、思ったよりちゃんと引っかかる」
「それと、余った分は鉄柵に括り付けて!」
秋人は言われるがまま、暴れる蛇の巨大な右牙にフロスの端を引っ掛けた。
「秋人。凄いですね。蛇さん、途中で柱に絡まってましたよ」
「螺旋階段を無理やりショートカットするから。知性も理性も……ん?」
「そこに結んでっ!」
こっちも言われるがまま、屋上の頑丈な鉄の柵にぐるぐると巻きつけた。
一方の絵里奈は、いつの間にかラテックスグローブを嵌めていて、左側の牙に引っ掛けていた。
構図としては秋人がいる屋上の一画に、頑丈な細い糸が結ばれている。
その糸の先は蛇の右側の牙にグルグル巻きに結ばれる。
左側の牙の方は、絵里奈が器用にクルクルと巻き付けている。
蛇は絡まって、口を開けて威嚇するしかできない。
「……あれ。この後、俺は」
フロスを自身の両手にしっかりと巻きつけて、綱引きのように腰を落として構えた。
「秋人は蛇をひきつけて。じゃ、いきますよー!」
絵里奈の合図が響く。
蛇が、自分を拘束する秋人と絵里奈の両方を睨む。
秋人は、ラテックスグローブをボクシンググローブに見立てて、シャドウボクシングをしてみて、威嚇をする。
「ほら、こいよ。……いや、来ても駄目だぞ。俺は美味しくないぞ」
シャァァァァァァァァアアアアア!
「って、来るなってぇぇぇえええええ!」
威嚇されるまま、秋人に向かって、噛み付こうと、大きく首を引いた。
その時……僅かにだけど、蛇が喋った気がした。
「イヌ……リュウ……ザ……」
ここでフロスが、限界までピンと張る。
「せーのっ!!」
メキョッ!!
「は……い?」
蛇自身が首を引く力と、秋人側の屋上の柵による固定。
そしてトリーテッドである絵里奈の渾身の引っ張りが、完璧な反対向きのベクトルで合わさる。
「犬……?」
巨大な二本の毒牙が、止まる。
「そっち、引っ張ってて」
「あ……あぁ」
秋人も引っ張り、絵里奈は殆ど飛び降りる形で、逆方向から思い切り引っ張る。
すると二本が同時に、そして呆気ないほどすっぽりと抜け落ちた。
「シャァアアアアアッ!?」
大蛇は悲鳴を上げた。
牙を失った蛇の巨体が、力が抜けたように小さくなっていく。
細くなって、ズルズルと階段を滑り落ちていく。
透子が下から、満足そうに腕を組んで言った。
「かつての抜歯方法の一つね。ドアノブに糸を括り付けて、勢いよく閉める……今でも子供の乳歯を抜いたりする時に使う古典的な手法よ。応用が利いたわね」
屋上の柵に巻き付けられた太いフロスと、そこにぶら下がる巨大な牙。
「それでも抜いて欲しいって、患者さんもいますよね。麻酔が痛いか、どっちが痛いか分からないけど」
絵里奈はそのまま地上にいる透子と合流した。
秋人は二人を見下ろし、小さくなっていく与那国を軽く睨んだ。
魅兎の時とは違う。
尻尾はまだ、部屋に残ったままなのか、そっちに向かって時間が逆行しているかのように、屋上から退散した。
そして、自分のはめさせられたゴム手袋を見つめ、ぽつりと呟いた。
「あれ……。今回の俺……いる?」




