第27話 蛇トリーテッド⑦
「勿論です。俺は透子先生の犬、ですからっ——って」
秋人が勢いよく頭を下げて宣言した直後。
通話が切れたスマートフォンの前で、絵里奈が汚物でも見るような冷ややかな目を向けた。
「……自分で『犬』って言っちゃうんだ。誇りとかないんですか?」
「今はそういうのいいだろ! 空気を読め!」
秋人が顔を真っ赤にして反論するが、透子は二人の漫才を完全に無視し、すでに思考を次のフェーズへと切り替えていた。
「与那国所長……彼がこの事件にどう関わっているのか、あるいは彼自身が何らかの鍵を握っているのか。確かめる必要があるわ」
透子は踵を返し、スイートルームの出入り口で待機していたあの中年刑事の元へ向かった。
「刑事さん。西刃神市保健所の『与那国明夫』という人物が、このホテルに出入りしていなかったか調べていただけないかしら」
透子の鋭い眼差しに、刑事は少し驚いたように目を瞬かせた。
「与那国所長ですか? 確かに彼も今回の学会の来賓ですが……分かりました、確認してみましょう」
刑事はインカムで一階のフロントとやり取りを始めた。
数分後、刑事と共にこのフロアの担当ホテルマンが足早にやってきた。
「与那国様でしたら、学会の来賓用として、下の階に休憩用の客室を一部屋ご用意しておりました」
「いま、彼はそこに?」
透子が問い詰めると、ホテルマンは申し訳なさそうに首を横に振った。
「いえ、すでにおられません。先ほど、大変慌ただしいご様子でホテルを出て行かれました」
逃げたか。
秋人と絵里奈が顔を見合わせる。
「その部屋を調べさせて」
透子の要求にホテルマンは難色を示した。「お客様のプライベートな空間ですので……」と言い淀む。
だが、すかさず中年の刑事が前に出た。
「構わん、案内してやってくれ。鷲羽山教授……いや、警察からの正式な要請だ」
現場の責任者である刑事の鶴の一声、厳密には鷲羽山という巨大な威光により、事態はあっさりと動いた。
◇
案内されたのは、数階下の角部屋だった。
マスターキーで扉が開かれると、ホテルマンと刑事は気を利かせて廊下に残り、透子たち三人だけが中へ足を踏み入れた。
部屋の中は薄暗く、エアコンが切られていた。
夏の不快な熱気が、むわっと顔にまとわりつく。
「……暑っ」
秋人が思わず顔をしかめた。
「来客用の部屋なのに、なんでこんなに蒸し風呂みたいになってるんだよ」
「わざと空調を切っていたのね。冷血動物のように、自ら熱を生み出せない体が、外部の熱を求めていたから」
透子が部屋の中を見渡しながら、冷たく分析する。
「与那国は単なる共犯者じゃない。彼自身がすでに『変異』を始めているわ」
秋人と絵里奈は無言で頷き、部屋の探索を始めた。
ベッドに寝転がった形跡はない。デスクの上には学会のパンフレットが放り出されているだけだ。
だが、秋人の獣の嗅覚が、部屋に微かに漂う「生臭い異臭」を捉えていた。
「……先生」
秋人は部屋の奥、窓際にある小さなテーブルへと近づいた。
そこには、ホテルのサービスであるミネラルウォーターのピッチャーと、未使用のグラスが置かれていた。
「何かあったの?」
透子と絵里奈が近づいてくる。
秋人は言葉を発する代わりに、テーブルの端、毛足の長いカーペットへと続く空間をじっと見つめていた。
スッと指が伸びて、その手が止まった。
「触らない方がいいんじゃないですか?」
絵里奈の生々しい声が、静寂の部屋に響いた。
秋人も肩を跳ねて、軽く尻餅をついた。
「何か……ポタって落ちた? これ……」
秋人が指差した先。
テーブルの縁からカーペットに向かった先。
警察官数名が駆け寄って首を傾げる。
「どうしましょう……」
「一応、とっとけ。スポイトか、スポンジなら、何か取れるだろ」
中年の刑事が命令して、ゴム手袋をした捜査官が入念に調べた。
その綿棒——
ほんの僅か、透明な液体。
「……が、あるかないか分かりませんが」
でも、二匹のトリーテッドは明確に反応をしていた。
「なんていうか、匂いが糸を引いてる……」
絵里奈が顔をしかめ、一歩後ずさる。
秋人はその綿棒に顔を近づけ、鼻をヒクつかせた。
「間違いない。あの重役の部屋に残っていたのと同じ匂いだ。それに……」
秋人はゾッとしたように自分の腕をさすった。
「爬虫類館みたいな、生臭い匂いが混じってる」
「順番なら……巳。つまりスネークね」
透子が冷酷な事実を言い当てる。
与那国は、この部屋で睡眠毒を仕込んだ。
「ディジーザーか……」
「トリーテッドってことじゃない?」
「そう。意思を持つ。アナタたちと同じ。まだ遠くへは行っていないはずよ」
透子は赤いメガネのブリッジを押し上げ、秋人を鋭く見据えた。
「匂いを追えるわね、駄犬」
「……当たり前です」
秋人はカーペットに落ちた雫から視線を上げ、真っ直ぐに透子を見た。
その瞳の奥には、すでに狩猟者としての獰猛な光が宿っていた。
秋人の頼もしい答えに、透子は満足げに小さく頷いた。
「ええ。与那国は完全に理性を失う前に、この部屋から身を隠した。……あるいは、自身の制御が効かなくなる前に、誰かに助けを求めようとしたのかもしれないわね」
「助け、ですか」
透子の推測を聞いて、腕を組んでいた絵里奈がふと顔を上げた。
何か、重要な引っ掛かりを思い出したような顔だった。
「誰か……って。そういえば、さっきの」
「何?」
「さっき、鷲羽山教授が電話で言ってましたよね」
絵里奈は記憶の糸を手繰り寄せるように、少しだけ目を細める。
「与那国所長と……頻繁に裏で接触していた人物がいるって。いつもの営業かと思っていたけど、怪しいって」
その言葉に、秋人の動きがピタリと止まった。
バラバラだった不可解なピースが、頭の中でカチリと音を立てて繋がり始める。
透子が赤いメガネの奥で、冷たく鋭い光を放った。
「ええ。先生の右腕……竜崎大地。与那国が睡眠毒のテストを終え、いよいよディジーザーへと堕ちる異変に陥ったのだとすれば、共犯者である彼に接触しようとするのは自然な理屈ね」
「うわ……」
絵里奈が、ゾッとしたように自分の二の腕をさすった。
「じゃあ、あの学会で愛想よく名刺を配ってた竜崎さんが、この一連の事件の黒幕……?」
その疑惑のピースが、遂に嵌った瞬間。
秋人の脳内で、ある強烈な違和感が蘇った。
獣の嗅覚が捉えていた、一つの情景。
「……竜崎って」
秋人が呆然と呟いた直後、その脳裏に午前中の光景が鮮明にフラッシュバックした。
路面電車を降りて、アーケードを歩いていた時のことだ。
「思い出した……! 今日の午前中、街でアイツを見ました!」
「どこで?」
透子の声が鋭くなる。
「アーケード街です。ニュースが流れてたでかいモニターがある交差点で、あいつ、人混みの中で何かを探すみたいに鼻をヒクつかせて……」
透子は秋人の言葉を最後まで聞かず、素早い動作でスッと立ち上がった。
「行きましょう」
「えっ、今からですか!?」
「匂いが消える前に追うわよ、わんこ」
「わんっ!」
◇
昼下がりのアーケード街。
ドーム型の高い屋根の下。
行き交う買い物客の喧騒を掻き分けながら、秋人は巨大ビジョンのある交差点の中心でピタリと足を止めた。
目を閉じ、全神経を鼻腔に集中させる。
「……ある」
「匂う?」
「ああ。薄れかけてるけど、あの薬みたいな嫌な匂いが微かに残ってる。……こっちだ、辿れる」
秋人が確信を持って歩き出そうとした。
その時、後ろから絵里奈が腕を組み、わざとらしい人工的な声で言った。
「有能な警察犬みたいなのだ」
「エダマーメン引っ張り過ぎだぞ」
秋人が真っ赤になって振り返りツッコミを入れる。
「それに最近、動画作れてないし」
「授業受けすぎですもんね」
そこに、透子は振り返りもせず、冷たく言い放った。
「無駄口叩いてないで続けて。見失ったら夕飯はペディグリーチャムからカリカリに降格よ」
「か……カリカリは——じゃないって! ペディグリーチャムも食べないし!!」




