第26話 蛇トリーテッド⑥
三人は、足早に会場のホールへと向かった。
だが、そこにあるのは、昨日までの喧騒とは裏腹な、空虚な静寂だった。
「申し訳ありません。昨日のランチョンセミナーは席も自由でしたので、お弁当を受け取られた方の詳細な記録までは……」
受付の女性は、本当に困ったような顔で何度も頭を下げた。
「ですよねー。そんな都合よく、毒見させられた奴らの名簿なんてないですよね」
秋人が肩を落としてぼやくが、透子は微動だにしない。
「想定内よ。次へ行くわ」
次に訪れたホテルのフロントでも、答えは同じだった。
「宿泊されているお客様の個人情報につきましては、いかなる理由があっても……」
「いや、事件の調査だって! 怪しい奴のリストだけでいいから!」
食い下がる秋人を、フロントマンは完璧な、しかしどこか無機質な笑顔で一刀両断にする。
透子は、これ以上の追求は無駄だと悟り、短く息を吐いて踵を返した。
「正攻法はここまでね」
ホテルを一歩出る。
すると、そこには既に、別の「現実」が広がっていた。
被害者が眠る大型ホテル「シェラヒー」
そこには、重苦しい黄色の規制線(KEEP OUT)が何重にも張り巡らされていた。
赤色灯がアスファルトを毒々しく照らし、野次馬のざわめきが遠くから波のように押し寄せてくる。
「あー、すいません。捜査中ですので、関係者以外は……」
若い警官に止められかけた。
その時、ホテルの奥から、疲れを見せた中年の一人の刑事が、透子の姿を見るなり目を見開いた。
「……もしかして、くすぎいいん先生ですか?」
透子が、僅かだけ、片方の眉を上げた。
「くるるぎいんですが」
「あぁ、そう読むんですねぇ」
「ええ」
刑事は少し気まずそうに、頭を下げた。
「鷲羽山教授から伺っております。 現場検証に協力してほしいと、上からも太鼓判を押されていまして……どうぞ、こちらへ!」
すると周囲の若い警察官の態度は、一変した。
更には、敬意すら感じさせるものだった。
規制線をくぐり抜ける秋人が、不思議そうに呟く。
「……おい。あの爺さん、警察の現場にまで顔が利くのかよ。マジで何者なんだよ」
「だから言ったでしょう。雲の上の、偉い人よ」
透子は淡々と答え、迷いのない足取りでエレベーターへと向かった。
◇
案内されたのは豪華な部屋だった。
スイートルームは、不自然なほどに整然としていた。
最初からそこに誰もいなかったかのような、静謐すぎる空間。
重役の遺体は既に搬送され、シーツの乱れひとつ、サイドテーブルの配置ひとつ、自然だった。
完璧なまでに「死の気配」を消し去っていた。
「……綺麗すぎるわね。まるで、展示品みたい」
透子が部屋の中央で立ち止まり、低く呟く。
——その時。
秋人が、鼻先をピクリと動かした。
「……ん?」
「どうしたの?」
透子が振り返る。
秋人は部屋の空気を深く、何度も吸い込み、確信を持って言った。
「……残ってる」
「……何が?」
「匂い……だ。写真じゃ分からなかったけど。完全に消えてない」
秋人の言葉に、隣にいた絵里奈も。
獲物を狙う猫のように目を細め、小さく鼻を鳴らした。
「……あ。本当だ。……お弁当の匂い……の中にあった。昨日の、あの匂い……」
秋人が激しく頷く。
「高級な弁当だから、そんな匂いだと思ってスルーしてたけど」
「誰かの香水かなって、思ってたけど」
「こんな密室で、これだけハッキリしてれば分かる」
「ええ。同じ匂いです。……どこか生命の端っこが焦げたような、生々しい匂い」
二人の、獣特有の確信に満ちた言葉。
透子は静かに、だが力強く頷いた。
「やっぱり。昨日のセミナーは、本番への『予行演習』だったのね」
「予行演習?」
「ええ。この未知の毒が、空気中にどれほど残留するか。致死量に至る濃度はどれくらいか」
眼を剥く二人。
互いに目を合わせて頷いた。
「弁当を調べさせて……」
「ってこと?」
「そう……」
透子は、主を失った大きなベッドを見つめた。
「遺体に毒の成分が残らないこと。検査に引っかからないこと。それを、あの弁当の場で完璧にテストしてみせたのね。用意周到で、極めて用心深い……計算高い犯人だわ」
一拍置いて、透子は秋人と絵里奈の方を向き、口角をわずかに上げた。
「でも、犯人も計算違いをしたわね。彼は、『トリーテッド』の力を過小評価していた」
「トリーテッド……?」
聞き慣れない概念に、秋人が首を傾げる。
透子は眼鏡のブリッジを押し上げた。
そして淡々と、しかし重みを持って解説を始めた。
「刃神市の山で戦った、あの咆哮する恐竜を覚えているわね? トラ怪人とも戦ったわよね。牛とも。病状が進み、自我を失って、野生のままに暴走した化け物。それが『ディジーザー』よ」
罹患し、発症し、炎症を起こした者たちだ。
透子は、二人の瞳をまっすぐに見つめた。
「対して、あなたたちのように『処置』を施され、人間の自我を保ちながらも、微かに獣の力を宿した者たち。我々医療側は、これを『トリーテッド(処置済み)』と呼んでいるわ」
その名前の通り。
邪歯の炎症に対処をした者が言う、二人は処置された者たちだ。
「へぇ……」
秋人が、自分の手のひらを見つめながら、低い声を漏らす。
「俺たちって、そんなカッコいい名前がついてたのか。なんだか、自分じゃないみたいだ」
「名前負けしてますけどね、秋人は」
絵里奈が、いつものように毒を吐くが、その目は真剣だった。
「で……」
透子は話を本筋へと戻す。
「警察の科学捜査でも捉えきれない、未知の睡眠毒。でも、犬と猫のトリーテッドが持つ鋭すぎる嗅覚だけは、騙せなかった。それが、犯人の唯一の誤算かしらね」
Rrrrrrrrrrrrrrrr……
——その時
静まり返った部屋に、透子のスマートフォンの着信音が鳴り響いた。
画面には『鷲羽山進』の文字。
「先生っ」
透子は短く応え、通話に出る。
目配せすると、秋人と絵里奈も身構えた。
『枢木院君。現場はどうかな。何か分かったかね』
電話の向こうからは、穏やかな声がした。
透子はベッドのシーツを見つめながら、静かに、だが確信を持って答えた。
「昨日のランチョンセミナーが鍵でした。あれは、ただの居眠りや、食中毒騒ぎではありません。私の部下が確認しています。この部屋の残留物と同じです――」
電話の向こうで、不自然なほどの沈黙が落ちた。
『……昨日のランチョンセミナー?』
やがて返ってきた鷲羽山の声は、少し違っていた。
いつもの柔和な響きを失い、かすかに震えているように聞こえた。
『いや、ありえない。そんなはずは……』
「先生?」
透子が怪訝そうに眉を寄せる。
スマートフォンのスピーカーから漏れる微かな声。
勿論、秋人と絵里奈も息を殺して耳を傾けていた。
『いや、すまない。こっちの話だ』
鷲羽山は一度それを打ち消そうとした。
だが、すぐに深く、老いを感じさせるような重いため息をついた。
『……いや、君に隠し事や嘘は良くないな』
電話越しの沈黙の中。
どこかで、鷲羽山が己の内の何かと葛藤しているのが伝わってくる。
やがて、彼は絞り出すように言った。
『疑いたくない者から目を背けては……事実を追求する学者失格だ』
学者……そして失格
「先生、何か心当たりが? ランチョンセミナーは確か……」
透子が静かに、だが逃げ道を塞ぐような鋭さで問い詰める。
『あぁ。そのセミナーではないんだ。 気になるのは、私の右腕の方なのだよ』
その言葉に、部屋の空気がピンと張り詰めた。
「右腕……? ですが、ランチョンセミナーは確か保健所の——」
『竜崎君が最近、西刃神市の保健所と……』
「え……?」
鷲羽山はそこで一度、言葉を切った。
認めたくない事実を、無理やり喉の奥から引きずり出すかのように。
『いや。はっきり言おう。与那国所長と頻繁に接触していた。いつもの営業だろうと……思っていたんだが』
その名前がでた。
与那国所長だ。
透子の赤いメガネの奥が鋭く光った。
だがその瞬間、秋人が弾かれたように顔を上げる。
「は? あの眠たい講師じゃなくて、竜崎……?」
秋人の脳裏に、いくつもの光景がフラッシュバックする。
学会のロビーで、愛想の良い笑みを浮かべながら周囲の匂いを探っていた長身の男。
事件の直後、アーケードの雑踏の中で、何か見えない痕跡を嗅ぎ回るように追跡していた姿。
「意味が分からない……けど」
『その声は……犬塚くんかい?』
「あ……えと……はい」
そして、昨日のセミナーの主催者である与那国との繋がり。
『君にもお願いする。どうか……透子君に協力してほしい』
ピースは、まだバラバラだった。
だが、秋人は息を呑み、スマホに向かって頭を下げた。
「勿論です。俺は透子先生の犬、ですからっ」




