第25話 蛇トリーテッド⑤
卓上に無造作に置かれた一枚の写真
不自然なほどに平穏な、静止した時間そのものだった。
その中で老人が、深い安らぎの中で眠りについている、かのように死んでいる。
秋人は、その写真を見つめるうちに、背筋を撫でるような微かな寒気を感じ、怪訝そうに眉を寄せた。
「……写真だけで、そんなことまで分かるのかよ。ただの寝顔だろ。で、結局どういうことだって?」
「急死する時、人はもっと無様に乱れるものよ」
透子の氷のように冷ややかな声。
しかし、確信に満ちた口調で切り捨てた。
「心臓でも肺でも、生体の機能が唐突に停止すれば、肉体は生存本能に従って酸素を求めて激しく踠く。シーツは乱れ、顔は苦痛に歪む。昨日、企業ブースで彼の姿は目撃されているわ。 少なくとも……衰弱とは考えられない」
何をもって、安らかな死と言うのか。
ピンピン、コロリとは可能なのか。
透子は、手元にある検死報告書のコピーを、秋人の目の前へ滑らせた。
「でも、ベクロニウムのような筋弛緩薬を使った死に方なら、表情にやすらかさは残るかもしれないけれど」
「ベクロ……何だって?」
「呼吸筋を強制的に麻痺させ、あたかも呼吸を忘れたかのように窒息死に至らしめる薬よ」
秋人の瞳が大きく見開かれた。
どこかで聞いた、アニメとかでも見た殺人方法。
それも、毒物を用いた、静かで、かつ洗練された殺意。
そんなものが、今、自分たちのすぐそばまで音もなく忍び寄っているのかもしれない。
「でも、レポートによれば、こいつはそれとも違うってのか?」
秋人はやはり首を傾げた。
だが、透子の視線は既に、次の事実へと移っていた。
「警察の簡易検査で薬物が検出されていない以上、これは一般的な化学薬品ではないわ。それに……見て。本当に、幸福な夢を見ながら、境界線をそっと越えていったみたいだもの」
科学的な検死の前に、数々の推理小説は力を奪いとられた。
でも——違う世界なら
写真の中の男は、もはや二度と目覚めることのない、完璧な休息の中にいた。
その「穏やかすぎる死」こそが、事件だとしたら。
この事件の最も不気味な違和感は穏やか過ぎることだ。
死が、死らしい死の形を失っている。
「……面白いでしょう?」
傍らで、それまで沈黙を守っていたレイ。
まるで美しくも残酷な舞台を眺める観客のように、愉しげに微笑んだ。
「いや、面白くはねぇだろ」
秋人が即座に噛み付いた。
「理屈が追いつかねぇ。何がどうなったのか、俺にはさっぱりだ」
「それは、あなたの理解力が、絶望的なほどに鈍いだけでは?」
「お前……初対面なのに、いちいち癇に障るんだよ……!」
「ふふ、ありがとうございます。では、お分かりになられて?」
再び、重い沈黙がテーブルを支配する。
資料を幾度見直しても、答えは出ない。
毒物反応なし。外傷なし。
病歴にも、突如として生命を刈り取るような予兆はない。
一見すると安らかだが、医療の常識という名のレールからはみ出した、空白の死。
その「空白」を埋めたのは、意外な声だった。
「……ねえ」
ずっと俯いていた絵里奈が、震えるような声で顔を上げた。
「それに近い事って、アタシたちも同じ場所でも起きました……よね?」
透子の切れ長の瞳が、鋭く絵里奈を捉える。
「……それってあの話?」
「ランチョンセミナーですよ。会場にいた人たち、みんな……急にスヤスヤ眠っちゃって。あれは死んでないけど。もしかして——」
秋人が、弾かれたように顔を上げた。
「あ——! 眠るように……」
「秋人が言う、例のつまらなかった講義……の件ね」
透子が頷き、鋭く秋人を射抜く。
秋人は焦って両手を振り回し、言い訳を重ねる。
「保健所長の話がめちゃくちゃ退屈で、しかも弁当出て、眠くもなるし」
「それはそうだったんです。 ただの定例報告みたいなセミナーで。お弁当も出てて。それで、みんな寝ちゃっただけって……アタシも思ったんですけど」
「アレは眠るって。俺だって、あんな大学のセミナーよりも下らない、念仏みたいな」
「——ん?でも、そういえば、秋人。寝てませんでしたよね?」
「俺は真面目に聞いていたんだよ。食いたいからな。ってか、絵里奈も寝てなかったろ」
「アタシは眠くなりそうになってたもん」
「お前は真面目に聞けよ」
だが、女医は軽く息を吐いて、二人を制した。
「そして、お弁当が調べられた。そしてアナタたち二人は。その、お弁当は食べてなかったんでしょう?」
透子の、低く、淀みのない言葉が、秋人の弁明を断ち切った。
「秋人、絵里奈。あなたたち二人は、例として会場にいた。周りの人間が、あのように抵抗もなく弁当を食べて眠りに落ちる中、あなたたち二人は一口も箸をつけなかった……違う?」
二人が、同時に言葉を失って目を見開く。
「……なんで、それを」
「だって……」
絵里奈が、自分の腕に走った鳥肌をさするようにして答えた。
「朝のバイキングでスイーツ食べたし」
「俺もお腹いっぱいだったから、ですけど……」
「夕食のお寿司屋さんであんなに底なしに食べておいて、よく言うわね」
ひくッと秋人の口角が歪む。
絵里奈も、はぁと息を吐いた。
透子は呆れたように肩を竦めた。
「二人が食べなかったのは、満腹だからじゃない。あなたたちの内に眠る『本能』が、あれを『毒』だと認識して、拒絶したからよ」
透子の口から放たれた言葉は、決定していた宣告のようだった。
「犬と猫の嗅覚は、人間よりもずっと鋭い。絵里奈が言っていた『変な匂い』。理屈では説明できなくても、生物としての防衛本能が、危険を察知したのよ」
すると。
それまで退屈そうにしていたレイが、わずかに目を細めた。
その瞳には、獲物を見つけた捕食者のような光が宿っている。
「つまり?」
透子は、写真の中の死者を指差すように、机の中央へ乱暴に手を置いた。
「警察の管轄外の事件で、決まりね」
透子の声は、地を這うように低く、獲物を追い詰める静かな闘志に満いていた。
「あのランチョンセミナーは単なる食事会じゃない。不特定多数の人間を使った『睡眠毒』の、効力テストだったのよ。これは紛れもなく、私たちが処理すべき――牙抜き案件だわ」
秋人が、乾いた笑いを漏らす。
「マジかよ……。ただの学会だと思ってたのに」
レイは数秒間、透子の整った横顔を熱っぽく見つめていた。
やがて満足げに口元を歪めた。
「ようやく、辿り着きましたのね」
その、全てを見透かしたような傲慢な響きに、秋人が再び顔をしかめる。
「何だよ、その『やっと来たか』みたいな言い方」
「事実ですもの」
レイは平然と、美しい指先を写真の上に置いた。
「昨日は全員が眠りました。今日は一人だけ、永遠に眠る。……随分と、都合のいい偶然ですこと」
卓上の空気が、一段と深く、冷たく凍りついた。
学会の喧騒がすぐ近くにある。
というのに、そこだけ時間が止まったかのような、異常な死の輪郭を浮かび上がらせていた。




