第24話 蛇トリーテッド④
透子は首を傾げて歩いていた。
背後には、犬と猫を従えている。
鷲羽山から直々の依頼を受けた。
その後、学会会場の隅に設けられた休憩スペースへと場所を移した。
コーヒーを片手に行き交う人々の波は絶えない。
ただ、透子たちが陣取った壁際の丸テーブルの周辺だけは、見えないドームで隔離されたかのように、妙に静かだった。
「私、サイン貰ってくる!」
「あ……そうだ。僕もだ」
周囲の空間には、学会が無事に再開されたことへの安堵の声。
「事故って……」
「ニュースだと暈されてるよな」
そして、すぐ隣のホテルで起きた不審死に対する野次馬的なざわめき。
色んな情報が、無責任に入り混じって漂っている。
でも、一つ抜けている。
透子たちの卓上に重くのしかかっているのは、浮ついた空気とは正反対。
重い沈黙だった。
「うーん……?」
世界的権威である鷲羽山の「妙だとは思わないかね」という意味深な言葉。
頭の中でパズルのピースを組み替えれば、可能性はいくらでも挙がる。
だが、決定的なピースに欠けていた。
「仮に、ディジーザーが関わってるとして……」
秋人が腕を深く組み、眉間にシワを寄せて沈黙を破った。
「そんなこと、ありえんのか? ってか、連絡もなしだし」
透子はすぐには答えなかった。
卓上に置かれた紙コップの縁に白く細い指先を這わせたまま
「役所からは何も来てませんね」
彼女だけ、井戸を覗き込むように静かに考え込んでいる。
「——いえ、不可能とは言えないわ」
やがて、透子は氷を転がすような冷たい声で口を開いた。
「ただ、一般的なディジーザーは理性を失い、獣の本能のままに暴れ狂うものよ」
秋人は眉を寄せ、絵里奈は軽く頷く。
そして、絵里奈からあの出来事が明かされた。
「先生……。昨日、ランチョンセミナーで……」
「ん? いや、アレは関係」
「ないとは言えないです。あの……ですね」
ただのつまらないセミナー。
でも、一応は騒ぎになった。
その顛末が、透子に明かされる。
「学会の最中に人を集団で眠らせた……?」
「めちゃくちゃ、つまらない講義だっただけだろ?」
秋人は欠伸をして、否定をする。
すると絵里奈も同じく、自信なさげに手を下げた。
「それも一応、ピースの一つにしましょう。でも、ますますディジーザーではありえないわね」
「です……よね」
「その力で、夜には別のホテルで標的の企業重役だけを確実に殺す――そんな、まるでプロのヒットマンがやるような回りくどい暗殺を、自我を失った化け物が行えるのか……。大きな疑問が残るわね」
「だよ……な」
秋人は我が意を得たりとすぐに頷く。
絵里奈は僅かに頬を押さえるが、そのまま力なく頷いた。
「化け物が暴れるなら、暴れるで分かりやすい痕跡が残るだろ。ネズミの時みたいに壁の爪痕とか、トラみたいにデカい噛み跡とかさ。アンキロサウルス」
「アロサウルスっ」
「そう、それ。もっと、パニックになるだろ」
「でも、疼く……し」
「疼く?」
絵里奈が、ぽつりと言った。
透子が、レンズ越しの鋭い目だけを向ける。
「具体的には?」
「えっと……変なんです。やっぱり、昨日のランチョンセミナーの時も、さっきの展示会場でも」
「変、じゃ分からないわ。具体的に言いなさい」
透子が容赦なく淡々と突き返す。
すると、絵里奈は少しだけ口を尖らせた。
「匂い? 薬っぽいのに、薬じゃない匂い。人工物じゃなくて、もっと生々しい……生物から絞り出したみたいな匂い」
「何だよそれ」
秋人が呆れたように言う。
「だから、変な匂いだって言ってるじゃないですか」
「全然説明になってねぇよ」
会話はそこで行き止まりになった。
違和感の正体はすぐそこにある。
だが、それを明確な形にする言葉を誰も持っていなかった。
透子が小さく、諦めたように息を吐く。
「仮にそれがディジーザーの仕業だとしても、根拠が弱すぎるわね」
その時だった。
「つまり、お分かりにならないということですの?」
不意に、真横から声が降ってきた。
三人が揃って顔を上げる。
そこに立っていたのは、若い女だった。
若いと言っても、秋人と絵里奈より年上の女。
灰がかった長い髪を後ろでタイトに一つにまとめ、すらりとしたモデルのような長身。
仕立てのいい黒いパンツスーツに身を包んでいる。
ファッション誌の表紙も飾れそうなほど整った綺麗な顔立ち。
だが、いかにも他人を見下し、その価値を値踏みするような爬虫類じみた冷たい目つきが、妙な嫌悪感を抱かせる女だった。
「え……誰?」
秋人が率直に尋ねると、女は表情筋を微塵も動かさなかった。
「鷲羽山研究室助手、小鳥遊レイですわ」
名乗ってから、ほんの僅かに
だが明確な侮蔑を込めて顎を上げる。
「枢木院先生が、鷲羽山様から直々に頼まれた方だと伺っていましたので。てっきり、もう少し建設的で高度なお話が聞けるのかと思っていましたが」
「いきなり何だよ、その言い方」
秋人が露骨に顔をしかめ、腰を浮かせる。
透子はそれを制すように、秋人へ冷ややかな視線だけを送った。
「それで小鳥遊さん。先生のお使いかしら?」
「ええ。鷲羽山様からのご命令よ」
レイは当然のように頷いた。
「もっとも、わたくしはただ『見に来ただけ』ですけれど」
「見に? 何を?」
「枢木院先生が、資料も無しにどこまで真実へ辿り着けるのかを、ですわ」
そのあからさまなテスト扱いに、秋人がさらに嫌そうな顔をする。
「いきなり出てきて、感じ悪ぃな……。資料も無しって、そういうのは警察の仕事だろ」
だが、レイは虫の羽音でも聞いたかのように意に介した様子もない。
「鷲羽山様が、貴女のことをとても優秀だと仰られるものですから。資料無しでも解決できるのかと期待していたのですが」
そこで、大袈裟に小さく肩を竦めてみせた。
「どうやら、買いかぶりだったようですわね」
「は……?」
秋人が間抜けな声を漏らす。
レイは手元の高級な革鞄から、数枚の光沢のある写真と検死書類を取り出し、透子の前の丸テーブルの上へ滑らせた。
「見て分かりませんの?」
「いや!」
秋人が勢いよく身を乗り出す。
「なんで持ってんだよっ! 大体、持ってるなら勿体ぶらずに最初から出せよ!」
「レベルの低い議論の邪魔をしないよう、黙っていて差し上げたのですわ」
「絶対いらねぇ配慮だろ、それ!」
秋人の吠えるようなツッコミ。
レイは完全に聞き流し、テーブルの上の写真を綺麗な指先で整えた。
すると透子が、そのうちの一枚を手に取る。
写っていたのは、警察が立ち入った直後のホテルのスイートルームらしき一室だった。
荒れた形跡は一切ない。高級な家具も整然としている。
「警察の資料……ですよね、それ」
キングサイズのベッドの上、掛布団にくるまるように
初老の男が死んでいる。
でも
ただ、それだけだった。
口元に吐血の跡はない。
首を絞められた外傷も見えない。
争った気配も皆無。
ただ、穏やかに眠っているようにしか見えなかった。
「安らか……だな」
横から覗き込んだ秋人が言う。
「事件じゃない。だから、警察も動かない。再開も早い。うん、普通だ」
親戚でもない。
殺されてもいない。
可哀そうと思っていいのかも分からない。
「そこが妙なのよ」
だが、透子は写真から一切目を離さずに言った。
「妙って?」
「この人、死ぬ直前にまったく苦しんでいない」




